第33話:茶器の音は、秘密を映す
甘露殿に置かれた玉露茶の香りが、静かに辺りを満たしていた。外では、薄く曇った空に初春の風が吹きすさび、庭の梅がほころびかけた蕾を震わせている。
――異様なのは、その静けさの中に、張り詰めた音が一つだけあることだった。
澄んだ茶器が、わずかに震える音。それは、膝をそろえて座る翠蘭の手から、小さく響いた。
「震えているのか?」
対面に座る男――鈴寧が、茶碗を傾けながら問うた。
翠蘭ははっとして、急いで手を止めた。震えているのは、指先か心か、それとも両方か。
「いいえ。ただ……少し、冷えただけです」
咄嗟に言い繕ったが、その言葉は頼りなく空気に溶けていった。
鈴寧は、茶を口に運ぶ。その動きすら淀みなく、計算された美しさがある。男が仕える主――皇太子に似た、切れ長の眼差しに、翠蘭は視線を逸らすことができなかった。
「今朝、毒見役が交代になったそうだな」
静かな声に、翠蘭の指が再び震えそうになる。だが、今度はなんとか持ちこたえた。
「はい。前の方は、風邪をこじられたと」
返答に余計な色は加えない。それが、後宮で生き延びる術。そう教えたのは、他ならぬこの男だった。
「……その風邪とやら、どうも腑に落ちなくてな。昨夜、ある者が茶器に異物を混ぜていたという話が耳に入った」
茶器の音が、ひときわ高く鳴った。翠蘭の手から、ほんのわずかに茶碗がずれたのだ。
鈴寧は見逃さなかった。だが、指摘はせず、むしろ声の調子を和らげるようにして続ける。
「もっとも、それが“毒”である証拠はない。ただ……ある種の香料だった、という話だ」
「香料……ですか」
翠蘭の声はかすれた。咄嗟に思い出すのは、昨夜、夜更けに書庫で手にした書物――『胡姫香録』。その中に、密かに用いられる香の記述があった。
――“懐柔香”。微かに甘く、人の心をほぐすが、使い方を誤れば幻覚を招く。
翠蘭は唇を噛み、視線を落とす。
そのとき、扉が静かに開かれた。
「失礼いたします。侍女の玲花が、お茶請けをお持ちしました」
現れたのは、細身の娘。どこか怯えたような眼差しで、しかし懸命に笑みを作っていた。
――その名に、翠蘭の心がざわめく。
玲花。先の毒見役と親しかった侍女。昨夜、こっそり誰かと話していた姿を、翠蘭は見てしまっていた。
「その茶菓子――どこから運ばれたものかしら?」
問いかけは、翠蘭の口から自然にこぼれた。玲花は、一瞬ぎょっとしたように立ち尽くす。
「……清蓮坊、です。お供え物として納められていたのを、御所用にと命があり」
「それは誰の命令?」
さらに問えば、玲花は怯え、鈴寧に視線を送る。
鈴寧は静かに首を振った。「答えていい」
玲花は観念したように告げる。「……女官長の、朱芳さまです」
その名に、翠蘭は目を細める。女官長・朱芳。数日前、突然侍女長を罷免され、謹慎処分となったはず――だが、まだ後宮に命が通っているというのか。
――あれは、偶然ではない。
翠蘭は静かに立ち上がる。「申し訳ありませんが、この菓子は、念のため下げさせていただきます」
玲花が慌てて何か言おうとしたが、鈴寧が手を挙げて制す。
「それがよい。……翠蘭、そなた、何を掴んでいる?」
鋭い問い。だが、翠蘭は微笑んだだけだった。
「まだ、香のように、姿を持たないものばかりです。でも、手がかりはあります」
鈴寧もわずかに口元を緩めた。「面白い。ならば、その香りの出処――暴いてみせろ」
庭先で、梅の一輪がついに開いた。
春は、確実に近づいていた。




