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薄明かりの書庫番  作者: 朝陽 澄
33/64

第33話:茶器の音は、秘密を映す

 甘露殿に置かれた玉露茶の香りが、静かに辺りを満たしていた。外では、薄く曇った空に初春の風が吹きすさび、庭の梅がほころびかけた蕾を震わせている。


 ――異様なのは、その静けさの中に、張り詰めた音が一つだけあることだった。


 澄んだ茶器が、わずかに震える音。それは、膝をそろえて座る翠蘭の手から、小さく響いた。


「震えているのか?」


 対面に座る男――鈴寧が、茶碗を傾けながら問うた。


 翠蘭ははっとして、急いで手を止めた。震えているのは、指先か心か、それとも両方か。


「いいえ。ただ……少し、冷えただけです」


 咄嗟に言い繕ったが、その言葉は頼りなく空気に溶けていった。


 鈴寧は、茶を口に運ぶ。その動きすら淀みなく、計算された美しさがある。男が仕える主――皇太子に似た、切れ長の眼差しに、翠蘭は視線を逸らすことができなかった。


「今朝、毒見役が交代になったそうだな」


 静かな声に、翠蘭の指が再び震えそうになる。だが、今度はなんとか持ちこたえた。


「はい。前の方は、風邪をこじられたと」


 返答に余計な色は加えない。それが、後宮で生き延びる術。そう教えたのは、他ならぬこの男だった。


「……その風邪とやら、どうも腑に落ちなくてな。昨夜、ある者が茶器に異物を混ぜていたという話が耳に入った」


 茶器の音が、ひときわ高く鳴った。翠蘭の手から、ほんのわずかに茶碗がずれたのだ。


 鈴寧は見逃さなかった。だが、指摘はせず、むしろ声の調子を和らげるようにして続ける。


「もっとも、それが“毒”である証拠はない。ただ……ある種の香料だった、という話だ」


「香料……ですか」


 翠蘭の声はかすれた。咄嗟に思い出すのは、昨夜、夜更けに書庫で手にした書物――『胡姫香録』。その中に、密かに用いられる香の記述があった。


 ――“懐柔香”。微かに甘く、人の心をほぐすが、使い方を誤れば幻覚を招く。


 翠蘭は唇を噛み、視線を落とす。


 そのとき、扉が静かに開かれた。


「失礼いたします。侍女の玲花が、お茶請けをお持ちしました」


 現れたのは、細身の娘。どこか怯えたような眼差しで、しかし懸命に笑みを作っていた。


 ――その名に、翠蘭の心がざわめく。


 玲花。先の毒見役と親しかった侍女。昨夜、こっそり誰かと話していた姿を、翠蘭は見てしまっていた。


「その茶菓子――どこから運ばれたものかしら?」


 問いかけは、翠蘭の口から自然にこぼれた。玲花は、一瞬ぎょっとしたように立ち尽くす。


「……清蓮坊、です。お供え物として納められていたのを、御所用にと命があり」


「それは誰の命令?」


 さらに問えば、玲花は怯え、鈴寧に視線を送る。


 鈴寧は静かに首を振った。「答えていい」


 玲花は観念したように告げる。「……女官長の、朱芳さまです」


 その名に、翠蘭は目を細める。女官長・朱芳。数日前、突然侍女長を罷免され、謹慎処分となったはず――だが、まだ後宮に命が通っているというのか。


 ――あれは、偶然ではない。


 翠蘭は静かに立ち上がる。「申し訳ありませんが、この菓子は、念のため下げさせていただきます」


 玲花が慌てて何か言おうとしたが、鈴寧が手を挙げて制す。


「それがよい。……翠蘭、そなた、何を掴んでいる?」


 鋭い問い。だが、翠蘭は微笑んだだけだった。


「まだ、香のように、姿を持たないものばかりです。でも、手がかりはあります」


 鈴寧もわずかに口元を緩めた。「面白い。ならば、その香りの出処――暴いてみせろ」


 庭先で、梅の一輪がついに開いた。


 春は、確実に近づいていた。

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