第3話:葛藤と決意、そして小さな計画
第二王子の病の報が王宮を駆け巡り、宮廷全体が重苦しい空気に包まれる中、リンは書庫の片隅で、サイラス帝国の古文書を胸に抱えていた。その手は、冷たい羊皮紙に触れるたび、微かに震える。
(やはり、これしかない……)
書物には、第二王子が罹っている病の正確な記述があった。それは、特定の鉱物から発生する微細な粒子が体内に蓄積し、やがて臓腑を蝕むことで発症する、極めて稀な「土壌の澱み」と呼ばれる状態だと記されていた。そして、その粒子を無毒化し、体外へ排出させるための「浄化の儀」という古の治療法までが詳述されていた。
しかし、王子の病の原因が「毒」でも「呪い」でもなく、ましてや流行り病などではないと主張する者は、リン以外にいない。そして、その治療法が、宮廷医師団の誰も聞いたことのない、古代の「儀式」であると知れば、一体誰が信じるだろうか?
リンは、自分の立場を改めて認識した。身寄りのない孤児。王宮の最下級書庫番。読み書きができること自体、この場所では異端だ。そんな自分が、この国の最高位の人物である王に直談判し、王子の治療法を提案するなど、無謀中の無謀。もし間違っていたら、あるいはその「禁断の知識」自体が危険視されたら、待っているのは命の危機だろう。
(私は、ただのちっぽけな書庫番。誰も私など、まともに取り合わない……)
昨日まで埃を被った書物を整理するだけだった日常が、まるで別世界のように遠く感じられた。喉の奥が締め付けられるように苦しい。それでも、リンの心には、抑えきれない好奇心と知識欲が渦巻いていた。この書物に書かれていることは、あまりにも完璧で、論理的だった。そして、何よりも、彼女の「真実を見極める目」が、その記述が偽りでないと告げていた。
昼餉の時間になっても、リンは食欲がわかなかった。冷たい粥を前に、ただ黙って座っていると、ザックが大きな音を立てて隣に座った。
「おい、ちび。飯も食わずに何をしている。体がなまると、仕事にならんぞ」
いつも通りのぶっきらぼうな口調だが、その瞳にはどこか苛立ちの色が混じっていた。第二王子の病が、彼にも少なからず影響を与えているようだった。
「ザック様は、第二王子様の病について、どう思われますか?」
衝動的に、リンは尋ねていた。ザックは眉間に深い皺を寄せた。
「どうもこうも、王宮全体が大騒ぎだ。あんな若者が倒れるとはな……厄介なことになった」
彼はそれ以上は語ろうとせず、無言で粥をかきこんだ。リンは、ザックがこの件に深く関心がないこと、そして彼が自身の立場を守ることを最優先にしていることを悟った。彼に助けを求めるのは難しい。
リンは、夜遅くまで書庫に残った。ランプの微かな光が、彼女の小さな影を壁に長く引き伸ばす。誰もいない静寂の中、リンは一つの小さな計画を立て始めた。
王に直接会うことは無理だ。だが、王宮には、王の耳に届く情報を精査し、取り次ぐ立場の者がいるはずだ。まず、その人物を探し出し、自分の話を聞かせなければならない。そのためには、ただ書物の内容を伝えるだけでは不十分だ。信じさせるだけの根拠と、もしもの時の安全な退路も確保しておく必要がある。
リンは、古文書に記された「土壌の澱み」の詳細な発症メカニズムと、浄化の儀に必要な具体的な手順、そしてそれに伴うリスクを、小さな羊皮紙の切れ端に慎重に書き出した。万が一、自分が消されるような事態になっても、この情報が王の目に触れるよう、工夫する必要がある。
そして、もう一つ。書物には、第二王子の病が、遠い過去に滅んだサイラス帝国で起きた**「最初の災厄」**の前兆であったと記されていた。もしこの病が治らなければ、王国にさらなる甚大な被害が及ぶ可能性があった。それは、単なる「病」の問題ではなかったのだ。
リンの胸に、冷たい覚悟が宿る。
(このまま、誰もこの真実を知らずに、王国が滅びるかもしれないなら……。ならば、私が動くしかない)
煤に汚れた小さな手が、再び懐の古びた書物に触れる。書物は、リンの手の中で、まるで生きているかのように、微かに鼓動しているようだった。それは、単なる知識ではなく、彼女の血肉となり、背中を押す原動力となっていた。
王宮の深い闇の中、無名の少女の、命を懸けた挑戦が、今、静かに始まろうとしていた。