第29話:黄泉の香炉
どくん、と心臓が跳ねた。
あの壺が——“黄泉の帳”の香炉だったとは。
「それが、ふたつ目の証左です」
沈着に告げたのは、沈医官だった。彼女の細い指先が、青磁の壺のふちをなぞる。
「この壺の内側には、特定の植物性の油分が染みついております。焼香や焚香に用いられた痕。しかも、微量ですが黄根草の成分が含まれておりました。これは、一定量を超えると呼吸中枢を鈍らせ、深い眠りを誘発します」
「つまり……毒じゃないけれど……眠らせる?」
思わずそう口にした私に、沈医官は目だけで頷く。
「そして、香炉から立ちのぼる煙が、帳のように部屋全体を覆い、意識を曇らせる。言い換えれば、“夢と現の境界”をぼかす道具なのです」
毒ではない。けれど、正常な判断力を奪い、あるいは死に近づけるもの。
「それが“黄泉の帳”……?」
知らず、吐息がこぼれていた。
その場にいた皆が、その壺をただの飾り壺と思いこんでいたのだ。けれど、その実は——人の意識に靄をかけ、あるいは死の淵に誘う、魔の器。
沈医官は私にだけ聞こえるように、そっと囁いた。
「……貴女が言っていた“香の仕掛け”、まさにそれですわ。香ではないが、煙。煙ではないが、幻。上手くいえば、香と術の狭間」
「誰が、それを……?」
「……ここで、三つ目の証左になります」
そう言って彼女が視線を送った先、静かに歩み出てきたのは、意外にも——傅継だった。
「この壺……実は、あの夜、私が飾りとして持ち込んだものなのです」
どよめきが広がる。
傅継は、先代宰相の遠縁にあたり、文官ではあるが、政治と礼楽に長けた人物として知られている。公正で知られる彼が、なぜ——。
「もちろん、私は中身までは知りませんでした。これが“黄泉の帳”と呼ばれるものだと知ったのは、先ほどです」
傅継は深く頭を垂れ、続けた。
「だが……私は、あの夜、何者かに香炉を持ち込むよう手紙で依頼されたのです。“古の香炉を、宴に添えてくれ”と」
「誰から?」
「——筆跡は偽造でした。しかも、名前は書かれていなかった。ただ、文の折り方が、ある宮人の特定の符号に一致していた」
「符号?」
沈医官と私の問いが重なる。
「そう、手紙の折り方。表封が“金魚折”になっていたのです。これは、宮中でも女官の一部しか用いない折り方で……」
そこまで聞いた時、私の脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。
長い黒髪。物静かな笑み。そして、やけに壺に詳しかった、あの女——。
「……翡翠様?」
その名が口をついて出ると同時に、沈医官は目を伏せたまま、微かに唇を引き結ぶ。
「翡翠様は、壺の由来を知っていた。あの壺が、黄泉の帳と呼ばれていたことも。だとすれば——」
何かが繋がる。糸が、絡まっていたはずの糸が。
では彼女は、最初から……。
その時——。
「ひとつ、申し上げても?」
場の空気を破るように、華やかな声が響いた。
振り返ると、そこには——まるで人形のような笑みを浮かべた翡翠様が、立っていた。
「ずいぶんと私の話になっているようですけれど、根拠のない憶測は、宮中では命取りになりますわ」
その声はあくまで柔らかいのに、全身から冷気が立ちのぼるようだった。
「では、貴女が“持ち込ませた”というのを否定なさる?」
私が問うと、翡翠様は目を伏せ、微笑んだ。
「いいえ。否定はしません。ですが、私が持ち込ませたと証明できるのでしょうか?」
言い切るその姿には、確かな自信があった。
——その自信の源は、いったい何だ?
沈医官も、沈黙している。傅継はなおも頭を垂れ、口を開かない。
謎がひとつ解けるたびに、もうひとつの謎が生まれる。
黄泉の帳は、誰の手によって仕掛けられたのか。
香炉に隠された、さらなる秘密とは。
そして——翡翠様は、何を知っている?
私は、もう一度壺を見つめた。
その中には、まだ誰も知らない“真実の香”が、沈んでいるように思えた。




