第25話:隠された薬書と、月下の密約
一
夜の静けさが戻った書庫で、リンは筆を置いた。
《沈黙の記録》──それは、誰の名も責めることなく、誰の功も称えぬ、ただ“語られなかった真実”を綴った記録だった。
しかしその記録が、まさか翌朝には王宮中に広がっているとは、彼女自身も想像していなかった。
「……まさか、あんな早く手が回るとはね」
書庫の窓際で蒼隼がつぶやいた。
彼の手には、王宮の記録係によって複写された写本。宦官たちの間で密かに回覧されたという。
「洛匡が死んだ。……昨夜、書庫を出た直後に」
その報に、リンの心臓が小さく跳ねた。
「……自然死?」
「とされている。ただし、“口封じ”を疑う声もある」
沈黙の記録を書いた直後、告げた直後の死。
あまりにも都合が良すぎた。
二
「君の記録が、誰かの神経を逆撫でした」
蒼隼は窓を閉めながら言った。
「その“誰か”が、今も君の動向を監視してるかもしれない」
「それでも、わたしは続ける」
リンの声には迷いがなかった。
「語られなかった薬の知識も、命を救うために必要な記録。沈黙は時に人を殺すわ」
蒼隼が目を細めた。
「……ならば、手を貸そう。今朝、禁書庫の整理表から“ある薬書”が抹消されていた」
彼が差し出したのは、禁書庫の目録の写し。
そこには、赤墨で線を引かれた一冊の記録。
《灰草を用いた麻酔薬調合帖──翠玉医館・鴻景記》
リンの目が動いた。
「灰草……強力な鎮静作用があるけど、過量で呼吸が止まる劇薬。処方の知識は限られた医官にしか伝えられていないはず」
「その“処方書”が、昨日まであったはずの棚から丸ごと消えていた。しかも目録上からも、抹消されてる」
リンは立ち上がった。
「誰かが、“処方を隠したい”のね」
三
その夜、リンは静かに書庫を出た。
向かう先は、王宮裏手のかつての“医術演習場”──現在は廃棄された実験館である。
蒼隼の密かな伝言によれば、そこに“もう一人の協力者”がいるという。
月の光だけが照らす石道を進み、錆びた扉を開けたその先。
「……おまえが、リンか」
現れたのは、灰色の裳を纏った妙齢の女だった。
鋭い目をしたその女は、口元にひどく薄い笑みを浮かべている。
「わたしは、鴻景の孫娘、“鴻蘭”だ」
彼女が見せたのは、黄ばんだ一枚の古文書。
「これが、“処方を隠したがった者たち”の証だよ。読めるかい?」
差し出された紙には、特殊な薬草の図と、複雑な調合比が記されていた。
そして最後に、こう記されていた。
《この薬は、死に至る苦痛を和らげる。だが同時に、政治犯への“静かな処刑”にも用いられることがある》
リンは目を見開いた。
「処刑に……薬を?」
「そう。“薬”が“毒”になるのは、意志が加わった時さ。――さあ、おまえはこの知識を記すのか? それとも、黙るのか?」
四
翌朝。
リンは書庫で筆をとっていた。
その手元には、灰草の調合法を書き写した紙と、かつての処刑記録の抜粋。
沈黙の記録とは別に、今度は“薬の記録”を書くべきか。
「書けば、また誰かを傷つける」
それはわかっている。
けれど、書かなければ、また“誰かが静かに殺される”。
「沈黙が殺すのなら、わたしはその沈黙を破る」
彼女の筆が走る。
《灰草調合法/処方・禁忌・副作用/使用歴に関する記録──未定稿》
新たな記録が、静かに始まったのだった。
書き終わった話の掲載が終わったので、再度完結済みにし、明日以降執筆が終わり次第、再開します。




