第2話:王子の異変と不吉な予兆
翌朝、王宮に激震が走った。
王族の一人、第二王子アレンが謎の病に倒れたのだ。書庫の雑務をこなしながら、リンの耳にもその報は届いた。書庫番たちのざわめき、廊下を行き交う侍女たちのひそひそ話、そして遠くから聞こえる、重々しい嘆きの声。まるで、昨日まで降り注いでいた陽の光が、突如として闇に塗りつぶされたかのようだった。
「聞いたか、第二王子様が、どうやら奇病に……」
「高熱が出て、全身に奇妙な斑点が浮き出ているとか……」
「意識も混濁していて、もう長くはないと、医師団が……」
書庫番の男たちがひそひそと噂し合う。彼らの顔には、恐怖と不安の色が濃く浮かんでいた。王族の病は、すなわち国の不穏を意味する。まして、原因不明の奇病となれば、彼らのような下賤の者にもいつ飛び火するか分からない。
リンは、彼らの会話を聞きながら、昨夜読み解いた書物の内容を反芻していた。サイラス帝国の古文書に記されていた「災厄」の予兆――その記述と、今耳にする第二王子の症状があまりにも酷似していることに、背筋が凍る思いだった。
(高熱、奇妙な斑点、意識の混濁……まさか、本当に)
宮廷医師団は総力を挙げて治療にあたったが、手の施しようがないと首を横に振るばかりだという。王は激怒し、事態の収拾と原因究明を命じるが、誰一人として病の原因すら特定できないでいた。王宮全体が、重く不穏な空気に包まれていくのを、リンは肌で感じていた。
その日の昼食時、ザックはいつも以上に機嫌が悪かった。食器を乱暴に置く音、舌打ち。
「ちっ。くだらん騒ぎばかりしおって。これだから上流階級の連中は……」
そう毒づく彼に、他の書庫番たちは戦々恐々としている。リンは黙って、冷めた豆の粥を胃に流し込んだ。
昼の休憩が終わり、再び書庫に戻る。リンは、ザックの目を盗んで、昨日読み終えたサイラス帝国の古文書をこっそりと取り出した。薄暗い書架の影に身を潜め、もう一度、その不吉な記述を確認する。
そこには、病の詳細な症状だけでなく、その症状を引き起こす**「原因」**と、驚くべきことに、**唯一の「治療法」**までもが記されていた。
(これは……毒、なのか?いや、毒とは少し違う。特定の条件下で発症する、一種の「澱み」のようなもの……)
書物を読み進めるうちに、リンの顔色は蒼白になった。記されている病の原因は、宮廷医師団が検討しているであろう、いかなる病とも異なる。それは、特定の環境、特定の物質、そしてある種の「歪み」が重なり合うことで生じる、極めて特殊な状態を示していた。そして、その状態を解く唯一の鍵は、王宮内の、それも特定の場所にあるというのだ。
リンは、書物を閉じ、冷たくなった表紙を両手で包み込んだ。最下級の書庫番である自分が、この国の最高位の者に意見するなど、無謀としか言いようがない。もし間違っていたら、命はないだろう。ただの孤児である自分が、王族の命に関わることに口を挟むなど、恐れ多いことだった。誰かに話せば、狂人扱いされるか、あるいはもっと悪い結果を招くかもしれない。
しかし、彼女の内に沸き上がったのは、抑えきれない知識への探究心と、この謎を解き明かしたいという強い衝動だった。そして、書庫番として、長年培ってきた真実を見極める目が、彼女に語りかけていた。この書物に嘘偽りはない。そして、これは単なる病ではない。
(このままでは、第二王子は死ぬ。そして、書物に記された「災厄」が本当に起こるかもしれない……)
薄暗い書庫の片隅で、リンは決断した。この書物に記された真実を、王に伝えることを。それがどんな結果を招こうとも、彼女は知ってしまったのだ。
煤に汚れた小さな手が、そっと懐の古びた書物に触れた。書物は、リンの手の中で、まるで生きているかのように、微かに鼓動しているようだった。
王宮に満ちる不安な空気と、彼女の小さな胸に宿る大きな決意が、薄明かりの中で交錯する。
これが、無名の書庫番であるリンが、王国の命運を握る大きな謎に挑む、最初の始まりだった。彼女の知識と、これまで見過ごされてきた才能が、今、静かに動き出す。