第17話:夢日記と、眠れる記憶の歪み
書庫の奥、薄明かりの灯籠が揺れる中、リンは慎重に指を動かしていた。
王から託された黒革の手帳──それは、「前王」の夢を記したという、いびつな遺物。
静けさの中、ページを開く音だけが、時を刻むように響いた。
一日目。
〈月光の下に、子どもの影を見る。誰とも知れぬが、私の名前を呼ぶ声がする。目を覚ますと、涙を流していた。〉
(……これは、夢の記録?)
夢日記、と呼ばれたそれは、王族らしからぬ情緒に満ちていた。だが、そこに込められた“不穏な既視感”が、リンの背を冷やす。
読み進めるごとに、言葉は混濁し、ある種の“狂気”すら滲み始める。
三日目。
〈誰かが私の枕元で囁く。「忘れていい」と。その声を聞いた翌朝、側仕えの名前が思い出せなかった〉
(“忘れていい”……)
前王もまた、何かに“記憶を抜かれていた”のだ。
リンは書架から医学書を引き寄せ、〈夢障〉の類例を探した。“夢に現れ、記憶や感情を奪う”病──それは、物語や怪異譚の中ではしばしば〈夢魔〉として語られてきた。
だが、宮廷に蔓延するこの“夢喰い”は、もはや伝説の域では済まされない。
そして、日記の終盤には、それを裏づけるような、決定的な一文が記されていた。
十三日目(最後の記録)
〈私の中に、知らぬ誰かの“夢”が入り込んでいる。
昨夜見た夢は、私ではない何者かの記憶だった。
そこでは、私はまだ王太子で、父に刃を向けていた。そんな事実、決してありえぬはずなのに……〉
(……他者の夢が“宿る”? それとも、記憶そのものがすり替えられていた?)
日記の主は、その翌日、突然の発熱と譫妄の末に沈黙したと記録にある。死因は“不明”。葬儀も簡略化され、調査は禁じられていた。
「まるで、何かに蓋をされたみたい……」
リンの指が、日記の最後のページに触れたときだった。
革表紙の裏に、もう一枚の紙片が隠されているのを見つけた。
手書きではない。印刷された、古文体の記述──それは、王室でも限られた者しか読めぬ“契約文書”だった。
【夢印契】
〈夢を介し、記憶を一つ与え、一つを奪う。
王家の血を媒介として、これを行うとき、記憶は“現実の履歴”として確定される。〉
──契約?
夢を通じて、記憶を交換する?
まさか、そんな……
リンはその文書を震える手で閉じ、日記を革の包みに戻した。
(夢を通じて、歴史を“書き換えられる”?)
誰かが“王の記憶”を奪い、代わりに“偽りの記憶”を与えていたとしたら──
それは、ただの病ではない。
王国の根幹を揺るがす、謀略そのものだった。
──コツ、コツ。
静寂の中に、足音が響いた。
書庫の階下。今夜は誰も入れぬはずの時間帯に。
リンはすばやく日記を隠し、灯籠を消した。
階下に目を凝らす。
薄闇の中、ゆっくりと現れたのは──
あの〈緑衣の女官〉だった。
──彼女は確か、すでに死亡報告が……
その瞬間、女官の目がまっすぐこちらを見た。
瞳の奥が、わずかに──金色に、輝いた。




