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薄明かりの書庫番  作者: 朝陽 澄
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第1話:煤と知識の少女

どんよりと重く垂れ込めた曇り空の下、王宮の奥深くにひっそりと佇む書庫には、外界の喧騒は届かない。カタリと、乾いた音が静寂を破った。リンの小さな手のひらから、埃を被った古い書物が滑り落ちたのだ。土気色の粗末な衣を纏った少女は、小さくため息をついた。


「またやってしまった……」


彼女の顔には煤とインクの跡がいくつもついていた。その日も一日中、古びた羊皮紙と格闘していた証だ。大きな丸眼鏡の奥の目はいつも伏せられがちで、その瞳には書物の活字だけが映っているかのようだ。リンは、この国の王宮に仕える最下級の書庫番である。身寄りのない孤児である彼女にとって、ここが温かい食事と寝床を確保できる唯一の場所だった。


外では、煌びやかな貴族たちが馬車を連ね、高価な絹の衣を翻して行き交う大通りが広がっていることだろう。だが、リンの知る世界は、この書庫の壁の中だけだった。壁一面を埋め尽くす果てしない書架。その背の高い棚の間に差し込む細い光が、彼女にとって唯一の慰めだった。光の筋の中を舞う埃は、まるで時間の流れを可視化したかのようだ。


彼女の仕事は、古くなった書物の修復と、新しく持ち込まれる書物の分類だ。書庫番のほとんどは、読み書きはおろか、文字を判別することすら覚束ない。彼らにとって書物とは、単なる紙束であり、重労働を課せられる道具に過ぎない。しかし、リンだけは違った。彼女は、この世のあらゆる言語を読み書きできるという、並外れた才能を持っていたのだ。それは、物心ついた頃から、何故か自然と身についていた能力だった。まるで、生まれながらに言葉という毒を体内に宿していたかのように。


「おい、ちび。またそこで突っ立って何をしている?」


背後から、ぶっきらぼうで苛立った声が響いた。リンはびくりと肩を震わせ、振り返る。そこには、上級書庫番であるザックが、腕組みをして立っていた。彼はリンより頭一つ半は背が高く、いつも不機嫌そうな顔をしていた。額には深い皺が刻まれ、その表情はまさに「威圧」を体現しているかのようだ。彼の纏う古びた制服からは、カビと汗の混じった匂いが漂ってくる。


「申し訳ありません、ザック様。少しばかり、本のページが……」


リンは慌てて落ちた書物を拾い上げ、粗衣で埃を払いながら言い訳をした。その書物は、かろうじて文字の判読ができる程度の古代語で書かれた、古びた薬草図鑑だった。書物の隅には、毒々しいまでに鮮やかな薬草の絵が描かれている。


ザックは鼻で笑うと、リンの抱える書物を乱暴にひったくった。


「くだらん。そんな古びたガラクタより、こっちの新しいものの方が重要だろう。早く片付けろ」


そう言って、彼は数冊の分厚い羊皮紙の書物を床に乱雑に置いた。ドン、と鈍い音が響き、埃が舞い上がる。それらは、数日前に遠い異国の地、東の砂漠の彼方にあるサイラス帝国から献上されたものだという。重々しい表紙は、見るからに価値がありそうだった。リンは黙ってそれらを拾い上げ、分類作業に戻った。ザックは満足そうに顎を引くと、再び重い足音を立てて書庫の奥へと消えていった。彼の足音が完全に遠ざかるのを確認すると、リンはそっと息をついた。


(異国の書物か……。読み解くのが楽しみだ)


リンの唯一の楽しみは、新しい知識に触れることだった。特に、未だ解読されていない古代文字や、遠い国の歴史を記した書物には目がなかった。それは、この退屈で孤独な日々の中で、彼女の心をわずかに躍らせるものだった。例えるなら、毒草の中に一本だけ咲く、見慣れない可憐な花を見つけたような感覚だ。


煤とインクで汚れた指先が、何百何千という活字をなぞっていく。書物のページをめくる音だけが、書庫に響く。やがて日が傾ぎ、西の窓から差し込む光も弱まり、書庫は薄明かりに包まれた。


その日の作業を終え、手元に残ったのは、ザックが持ってきた異国の書物のうちの一冊だけだった。他はすでに彼の机の上に置かれている。この一冊だけは、妙に重く、手触りがざらついていた。まるで、何かを内に秘めているかのように。


表紙には、これまで見たことのない記号と、複雑に絡み合った紋様が刻まれている。リンは、好奇心に抗えず、注意深くページをめくった。墨で書かれた文字は古く、彼女が習得した中でも最も難解な部類に属する言語だった。読むのに途方もない時間がかかったが、リンは食い入るように文字を追った。そして、読み進めるうちに、リンの眉間に深い皺が寄った。


(これは……まさか、そんな馬鹿なことが)


書物の内容は、この国の歴史には決して記されることのない、禁断の知識だった。それは、かつて繁栄を極め、突如として滅亡したとされる、とある強大な帝国の、その滅亡の秘密が詳細に綴られていた。そして、その滅亡を招いたとされる、**ある「災厄」**の予兆が、不気味なほど具体的に記されていたのだ。その記述は、まるで誰かへの警告のように、幾重にも繰り返されていた。


その夜、リンは書庫の片隅で、その書物を胸に抱きしめて震えていた。彼女が今まで触れてきたどの書物よりも、その一冊は冷たく、そして重かった。その知識は、彼女の小さな心にはあまりにも巨大すぎた。それは、書庫の暗闇の中で、静かにしかし確実に、リンの運命を侵食し始めていた。

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