表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

 第六章 ラモン河の決戦

 ローゼンシュタイン軍対魔王軍の戦いは一進一退をつづけていた。参謀のトトは知力のかぎりを尽くして魔王軍を撃退するのに努めた。

 だが数がちがいすぎた。ローゼンシュタイン軍八千に対して魔王軍は一万五千だった。ほぼ倍と言っていい。

 トトは落とし穴などを駆使して魔王軍を苦しめた。しかし善戦はするものの数で押し切られる。トトはローゼンシュタイン軍の消耗をかぎりなくおさえた。死者数でいえば魔王軍はローゼンシュタイン軍の倍に達していた。

 だが小競り合いだった。全体の趨勢はゆるがない。焼け石に水といった戦果でローゼンシュタイン軍は一戦ごとに南下を余儀なくされた。

 アイギル火山は北にありローゼンシュタイン皇国は南だ。ローゼンシュタイン皇都のすぐ北には大河ラモン河が横たわっている。

 ラモン河は向こう岸が見えない大河だ。ラモン河を船で南下すると皇都が見える。ラモン河こそ皇都を守る最後の砦だった。

 トトはラモン河最大の港ア・ラモーンに先行隊を派遣した。ア・ラモーンには出陣の際に乗って来た船団が係留されている。その船をいつでも出港できるよう整備させた。こぎ手も船に乗せた。帆はついているがガレー船だ。

 帆船が風上へ逆走するための帆を縦帆じゅうはんと言う。ヨットなどの三角形の帆が縦帆の代表だ。だがこの世界に縦帆はない。船はすべて横帆おうはんだ。横帆は向かい風だと風上へ逆のぼれない。追い風を背に受けて風下へ進むだけだ。そのために櫂でこいで風上へ進むガレー船が考案された。追い風だと帆を張る。向かい風だと櫂でこぐ。それがこの世界での船だった。

 最後にトトは必要以外の船をすべて焼かせた。魔王軍に使われるのを阻止するためだ。出陣したときは四万の大軍だったがいまは八千を切っている。八千人が乗れるだけの船があればいい。

 ラモン河を渡るのは最終手段だ。魔王軍をラモン河北岸で足止めして反攻の時間をかせがなければならない。使える船がなければ魔王軍は周辺から徴用するか自力で船を建造するしかない。一万五千の魔物が乗れる船を調達するわけだ。時間はたっぷりかせげるはずだった。 

 トトは考えていた。ラモン河上の戦いが最終決戦になるだろう。水上の戦いを制したほうが完全な勝利者となる。魔王軍は水上の戦いに不慣れなはずだ。こちらは水上の戦いに慣れている。魔王軍を全滅させるのはラモン河以外にない。


 サウザーはローゼンシュタイン軍に手を焼いた。正確にはトトひとりに苦しめられた。落とし穴は虚と見せれば実で実と見れば虚だった。サウザーの疑心暗鬼が魔王軍の足をにぶらせた。

 冷酷なオーサが指揮を取っていれば落とし穴など気にせず突進させてローゼンシュタイン軍を壊滅させていただろう。たとえどれだけの犠牲を出そうともだ。


 港町ア・ラモーンに至る街道でトトは最大の落とし穴を三つ掘らせた。ア・ラモーンの市民を雇ってだ。八千人が船に乗る時間をかせぐためだった。

 船足は出港時はにぶい。向かい風のせいで帆は使えない。人力だけがたよりだ。船に乗りこんだ時点で魔王軍に追いつかれたら火矢で簡単に焼かれる。季節は秋で南から北への秋風がたえず吹いている。港からすこし離れるだけで火矢は風に押されて届かなくなる。船が港を出るわずかな時間でいいから魔王軍の足を止めなければならなかった。

 トトは三つの落とし穴に細工をほどこした。十人ていどが乗っても落ちないように下から木で支えた。穴の底に槍は仕込まなかった。万が一味方が落ちても死なないようにだ。

 予定どおりと言うべきか。ローゼンシュタイン軍は港町ア・ラモーンの見える丘まで追いつめられた。トトは六千人を先行して船で出港させた。残りの二千人は足止めの任務を与えた。こうすれば二千人が全滅しても六千人は河を渡れる。

 ローゼンシュタイン軍の部隊長ユリシスは残る部隊をひきいていた。先に船で脱出する六千人が丘を駆けおりる。途中で三つの落とし穴をさけて細く一列になってだ。二千人は丘の上のバリケードから弓で矢を放つ。

 魔王軍は落とし穴を警戒しながら進軍して来る。先頭はアンデッドだ。落とし穴に落ちても死なないせいだ。

「隊長。アンデッドに弓って効くんですかね?」

 矢をつがえながら部下がユリシスにたずねた。

「効かんだろう。ゾンビは頭に矢を突き立てたまま進んで来るぞ。スケルトンなんか骨のあいだをすり抜けてる」

「じゃ矢を撃っても無駄なんじゃ?」

「ゴブリンとオークと鬼には効く。俺たちは足止めが目的だ。効かないからといって攻撃しないとやつらはローゼンシュタイン軍の意図に気づくだろう。なんとしても先行した六千人は脱出させねばならん。通常どおりの攻撃をして六千人を逃がすんだ。気づかれればやつらは全力をあげて突進して来るはずだ。背を向けた敵を討つほどたやすいことはないからな」

「なるほど。じゃあのトトって参謀はすごいんですね。魔王軍に総攻撃させないように罠をそこいら中に仕掛けさせてる」

「ああ。名参謀だろう。倍の魔王軍と互角に戦ってる。底力でまさる魔物との戦いで互角だから人間相手の戦いなら圧勝できるはずだ」

 魔王軍の先頭がバリケードの直前まで迫った。トトが矢を射るのをやめて肉弾戦をいどませる。

「行くぞ! ついて来い!」

「はい! 隊長!」

 ユリシスは剣を抜き放ってアンデッドのまん中に斬りこんだ。部下の五十人もあとにつづく。乱戦がはじまった。


 サウザーは悩みながら指揮を取っていた。ミカエラ砦の戦いから敵の参謀が替わった。トトという名の若者だと瀕死の捕虜から聞き出した。

 たしかにモスリン砂漠でのローゼンシュタイン軍と戦い方が大きく変化した。モスリン砂漠での戦いは騎士と騎士の一騎打ちのような策のない戦いだった。それがミカエラ砦からは罠だらけのいやらしい戦い方に変わった。トトは性格が悪い男にちがいない。

 前線の推移をうかがいながらサウザーは思索をめぐらした。ローゼンシュタイン軍にラモン河を渡らせるとまずい。おそらくトトは魔王軍が船の戦いの経験がないことを知っている。水上戦になったら魔王軍が圧倒的に不利だ。だからラモン河の手前でローゼンシュタイン軍を全滅させなければならない。

 そうわかっていながらトトの巧みな罠でズルズルとラモン河まで引きずられた。いま全軍をぶつければラモン河を渡る前にローゼンシュタイン軍を全滅させられる。しかしトトもそれを読んでいるはずだ。全軍を突撃させて罠にはまれば全滅するのはこちらかもしれない。

 サウザーは疑心暗鬼で決断がくだせなかった。


 そうこうするうちにトトが撤退命令を出した。ローゼンシュタイン軍二千人が丘を駆けのぼる。足止めの戦いだから深入りはしていない。負傷者は多少出ているが死者はなかった。

 トトの指示で丘をおりる。十人ずつ一団となって落とし穴の上を走らせる。ア・ラモーンの市民たちはいい仕事をしてくれたようだ。落とし穴は十人の体重を支え切った。

 一方で五十人単位の集団に落とし穴をよけながら道の端を一列になって行軍させた。魔王軍がどう読むかトトにはわからなかった。落とし穴があると思えば一列で進まねばならない。ないと読めば落とし穴にはまるはずだ。


 丘の上に達したオーク軍を統括するチンドッサはローゼンシュタイン軍の兵たちが落とし穴の上を走っているのを見た。

「落とし穴はねえぞ! いまだ! 連中を全滅させろ!」

 オーク軍に檄を飛ばした。アンデッドを押しのけてオークたちが一斉に丘を駆けおりる。ゴブリン隊と鬼隊もつづいた。

 まずいとサウザーは直感した。道のまん中を走っているローゼンシュタイン兵は一度に十人ずつだ。あまりに不自然な動きだった。

「やめろ! 罠だ! 全軍停止しろ!」

 サウザーの叫びにゴブリン兵が全軍停止のドラを鳴らした。しかし足を止めたのはゴブリン軍だけだった。オークと鬼はそのまま突き進む。

 十人乗っても落ちないが二十人乗れば落ちる。そういう設計の落とし穴だった。

 先頭のオークが二十人に達した。そのとき落とし穴を支える木の柱が折れた。

 ドササッと音を立てて地面が落下した。あとからつづくオークと鬼たちがなだれを打って穴に落ちる。

 背中を見せていたローゼンシュタイン軍がふり返って弓を放つ。落とし穴に矢が降りそそいだ。今度の落とし穴は槍が仕込まれてない。だが最初に落ちたオークの上に後続の者たちが落ちて身動きが取れない。そこに矢の雨だ。たまったものではなかった。

「うわあっ! てめえ早くどけっ! 邪魔なんだよっ!」

「俺だって上からのしかかられてるんだっ! どけるかよっ!」

 降りやまない矢雨の中でオークたちの仲間割れがはじまった。アンデッドの首領のカーチスがアンデッドたちにオークを救い出す指令を与えた。

 ゴブリン軍は矢の届く範囲を見切って待機した。

「やっぱりサウザーさまはすごい。落とし穴を見やぶってらっしゃった。サウザーさまがいるかぎりわれらに負けはない」

 ゴブリンの女兵士ヤンバが仲間たちとうなずき合う。

 トトは矢を止めさせて次の落とし穴まで軍を引かせる。

 今度はオークも鬼たちも慎重だ。一列になって道の端をおそるおそる進む。アンデッド隊だけが道のまん中に踏みこんだ。

 アンデッドは軽いせいか二十体になって落とし穴が作動しなかった。三十体乗ってやっと落ちた。アンデッドは落とし穴にはまっても平気だ。仲間の上を踏み越えて行軍して来る。

 その間にローゼンシュタイン軍の最初の六千人が出港した。トトはホッと胸をなでおろした。六千人いればラモン河でむかえ撃つ戦力として充分だった。欲を言えば一万人は欲しい。だがないものねだりをしても仕方がない。あとはここにいる二千人をどう無事に脱出させるかだった。

 残る落とし穴はひとつ。トトは弓隊五百人を残して千五百人を港に急がせた。五百人の弓隊は決死隊だ。ここで死ななくても船に乗れるかはわからない。船に乗れなければ港に追いつめられて全滅だ。

 魔王軍と差しちがえても仲間を逃がす。その覚悟のある者だけを募った。ユリシス隊も志願した。

 トトは神に祈った。最後の仕掛けがうまく作用しますようにと。

 千五百人が港に移動する。

 最後の落とし穴から矢の届く距離だけひかえてローゼンシュタイン軍が弓をかまえて待ち受ける。

「隊長。俺たち船に乗れますかね?」

 何かしゃべってないと緊張に耐えられないのだろう。部下がユリシスに声をかける。

「乗れる。俺が乗せてやる。安心しろ」

「隊長。あんたも乗ってくださいよ。俺たちだけ乗せてあんたは魔王軍の足止めなんていやですからね」

 ユリシスは苦笑した。考えていることはみんないっしょだった。自分は最後まで踏みとどまって魔王軍を食い止めてやるとだ。

 ゴブリン隊が落とし穴を前に一列になった。

「さあ来たぞ! おしゃべりは終わりだ! 射つぞ!」

 落とし穴をさけて縦長で進むゴブリンたちに矢を射かける。矢の雨を盾でふせぎながらゴブリン隊が前進する。

 ゴブリン隊が落とし穴を越えた。

 ユリシスが弓を捨てて剣を抜く。

「斬りこめ!」

 ユリシスの合図でローゼンシュタイン軍の五百人が一斉に突進した。たちまち乱戦になった。オーク隊と鬼隊とアンデッド隊も参加してローゼンシュタイン軍の旗色ははなはだ悪い。

 そこにア・ラモーン港から煙が流れて来た。トトは先行させた千五百人に煙を出させた。その煙を合図にローゼンシュタイン軍五百人が港に撤退をはじめた。

 敵も味方もわからない濃煙だった。ローゼンシュタイン軍は撤退の策だと知っている。だが魔王軍は突然の煙に何が起こったのかわからなかった。そこここで同士討ちが見られた。

 サウザーは戦闘停止のドラを鳴らさせた。港へ逃げる策だと気づいたが煙で前が見えない。ローゼンシュタイン軍は打ち合わせどおり港に引けばいいが魔王軍ははじめての土地だ。港に進めと指示してもまっすぐ進めないだろう。

 南風が煙を薄めるのを待ってやっと進軍の命令を出せた。

 港に着くとローゼンシュタイン軍の最後の五百人が船に乗りこむところだった。

「ちくしょう! 待ちやがれ! 逃がさねえぞぉ!」

 オークのチンドッサが叫んだ。それを合図にゴブリンを押しのけたオーク隊が桟橋を走る。船から矢の雨がオーク隊に降る。オークたちは盾で受けながらも足をゆるめない。

 桟橋と縄ばしごで船に乗りこんでいたローゼンシュタイン軍の最後尾にオーク隊が斬りつける。船から手が伸びて仲間を船に引き入れた。

 オークの先陣が船に乗りこんだ。船の上でローゼンシュタイン軍とオーク隊の斬り合いがはじまった。

「来やがったな! 剣のさびにしてやるぞ! 野郎どもぬかるなよ!」

 ユリシスがまっ先にオークに斬りかかる。部下たちもオーッと声をあげてオークを蹴散らす。

 ゴブリンの弓隊が船に火矢を射かける。船の上で交戦中のローゼンシュタイン兵たちがあわてて水をかけて火を消す。

 その間にもガレー船が港を離れはじめた。南に向かうのに南風では帆が役に立たない。船底で櫂をこぐア・ラモーン市民だけが頼りだ。

 すぐに船に乗りこんだオークたちが全滅させられた。足の下が不安定にゆれる戦場にオークたちは慣れてなかった。踏ん張りがきかない足場では思うように剣がふれなかった。

 港に取り残されたゴブリンの女兵士ヤンバは船のうしろ姿を見送るのみだった。

「ちっ。ひと足おそかったか」

 ヤンバの感想はサウザーの感想でもあった。

「トトにまんまとしてやられたな」

 ヤンバがうしろを振り返った。仮面のサウザーがあごをなでていた。

「サウザーさま! こんなところにいては危険です! 安全なところに身をお引きください!」

 ヤンバが周囲を見回した。戦闘は終わっていた。だがア・ラモーン港は敵地だ。どこにローゼンシュタイン人がひそんでいるかもしれない。魔王の指示で抵抗しない一般人に手を出すことは禁じられている。しかし一般人のかっこうをした兵士がいないとは言えなかった。

 ヤンバがサウザーの背を押していると鬼族のキリヤもやって来た。

「逃げられたか。これからどうするんだサウザー?」

「周辺から船を買います。足りない分はドワーフに作ってもらうしかないでしょう」

「そうなるとひと月くらいはかかりそうだな」

「ひと月では足りないかもしれません。船上の戦いの訓練をする必要があります。ゴブリンもオークも鬼も船は慣れてないでしょう? ゆれる船の上で戦うのは経験がないと無理ですよ」

「たしかにそうだ。じゃ取りあえず周辺の港で船を調達するか」

 話が終わったと見たヤンバが口をはさんだ。

「サウザーさまにキリヤさま。立ち話はやめて安全な場所に避難してくださいよ。弓で狙われるかもしれません」

 キリヤが苦笑した。ゴブリンに心配される四天王かと。

 ヤンバに背中を押されるままサウザーとキリヤは後方にさがった。


 キリヤとサウザーが中心になって船の買い付けに乗り出した。資金は戦争前に貯めこんだローゼンシュタイン皇国の金貨だ。魔王とその配下の吸血鬼たちが魔界のめずらしい品をローゼンシュタイン皇都で売って集めたカネだった。

 魔王軍の四天王にさからう者はすくなくすぐに大小さまざまな船が集まった。ドワーフにも造船を依頼した。


 一方でラモン河を大きな損失もなく渡ったトトは船団の用兵を訓練していた。魔王軍が船を集めて攻めて来るまで約ひと月。その一戦に皇国の存亡がかかっているはずだった。


 ローゼンシュタイン皇都の皇宮で皇帝ゼノムは前線司令官のピーターから報告を受けた。

「わが軍は善戦むなしく撤退を余儀なくされました。先のモスリン砂漠の戦いで参謀のナイトモアが討ち死に。きゅうきょ若手の参謀を起用しましたが力足りず敵を全滅させるにはいたりませんでした」

「なるほど。参謀が悪かったのか。ふむふむ。わしに心当たりがある。引退した老参謀のデミッツではどうじゃ? あやつは生粋の皇国人じゃ。経験も豊富にある」

「デミッツですか」

 ピーターが渋い表情に変わった。デミッツは優秀な参謀だった。しかし老齢で痴呆の症状が出て引退したと聞いている。痴呆老人を参謀に起用して戦いに勝てるのだろうか?

 かたわらの宰相メインロビンが口をとがらせた。

「陛下! デミッツはいけませんぞ! 今朝食べた品が何かもわからないほどもうろくしております! デミッツだけはおやめください!」

 ゼノムがひたいに青すじを浮かせた。

「ええい! うるさい! 皇帝はわしじゃ! 口をはさむでない! 参謀はデミッツで決まりじゃ! いいな!」

 メインロビンはしぶしぶ口を閉じた。この国はもう長くないかもしれない。そう思った。


 トトは船隊の指揮中に辞令を受けた。

「えっ? 俺が皇都防衛隊に異動? 後任はデミッツ参謀?」

 がくぜんとした。多勢に無勢の戦いでほぼ損失なく軍を引かせた。勲章をもらって当然の働きをしたと思っていた。なのに左遷だった。しかも次の参謀は痴呆のデミッツだ。皇国はこの戦いに勝つ気がないのか?

 しかし上の決定にはさからえない。トトは船をおりた。


 ユリシスもまた部下から知らせを聞いてぼうぜんとした。

「トトさんが飛ばされたそうです。皇帝じきじきにデミッツさんを参謀にすえたらしいですよ。トトさんは皇帝にワイロを贈らなかったんですかね?」

 ユリシスは苦笑いを浮かべた。贈っているはずがない。そんな要領のいい男とは思えなかった。このところ平兵士のあいだで噂になっていた。皇帝にワイロを贈れば最前線から後方にもどされると。

 平兵士が皇帝にワイロを贈るなど実現するはずはない。よしんば皇帝まで行き着けたとしてもそんなはしたガネを皇帝が受け取るわけがない。だがその噂が真顔で語られるほどいまの皇帝は腐敗していると皇国民は思っていた。


 魔王軍一万五千を乗せる船がそろった。魔王軍の兵たちの船上での訓練も終わった。しかしサウザーは船を出そうとしなかった。

 帷幕でキリヤがじれた。

「どうして出陣しない? 準備は万全のはずだ。いったい何を待ってる?」

「風だ」

 キリヤとふたりきりのときは口調がため口になるサウザーだった。

「風? 風ってなんだ?」

「いまは秋の終わりで強い南風が吹いてる。魔王軍は北から南へ攻めくだる。南から北に吹く南風は向かい風だ。進むのも風の抵抗を受ける」

「たしかにそうだ。だが戦闘になれば両軍入り乱れる。ローゼンシュタイン軍も風下にまわることもあるだろう? かならずしもわが軍だけが不利と言い切れまい」

「いや。不利も不利。大きく不利だよ。ラモン河は大河で流れはほとんどない。つまり流れは戦況に影響しない。一方で南から北へと強風が絶えず吹く。そんな戦場に北から南へ向かう? 木造の船でだ。木造の船の大敵は?」

「火? 火か?」

「そう。南風に乗せて火矢を打ちこまれればひとたまりもない。こちらから火矢を放っても強風が邪魔して敵には届かない。一方的な戦いになるはずだ」

「ううむ。火矢か。たしかにふせぐ手はなさそうだな。消火の訓練をしても次から次へと火の雨に降られたら追いつくまい。打つ手がないではないか」

「ひとつだけある。秋の風は南風だが冬には北風に変わる。北風になればいま魔王軍に不利な状況が一転してローゼンシュタイン軍不利に変わるはずだ」

「冬まで待てと?」

「ああ。正確には秋の終わりに一日だけ風が止まる日があるんだ。そして翌日には北からの強風が吹く。『冬むかえの風』と地元の者は呼んでるがね。その日を境に南風と北風が交互になりじょじょに北風だけになって冬が来るわけさ」

 サウザーは生まれも育ちもローゼンシュタイン皇都だ。皇都周辺の気候は熟知している。

「なるほど。その冬むかえの日に攻めろと?」

「そのとおり。ただその日は秋の終わりとわかってるがいつ来るかがわからない。毎年いまの時期に来るとわかってるだけでね」

「来ない年はないのか?」

「ない。かならず来る」

「ふむ。わかった。ではその日を待とう」

 キリヤがニヤリと笑みを漏らした。ローゼンシュタイン軍の船団が炎に包まれて沈没して行くさまが脳裏に浮かんだようだった。


 そのころローゼンシュタイン皇宮のケイティの居室ではケイティが泣き暮らしていた。ガマガエルのようなあばた面のブレッシュウッド公爵に嫁ぐと思うと涙が止まらない。

「サウザー。あなたは本当に死んじゃったの? どこかで生きてるんじゃないの?」

 ケイティが思うのはサウザーのことばかりだ。幼い日からずっと一緒だったサウザー。思い出のすべてがサウザーと言っても過言ではなかった。結婚するならサウザーしかいないとケイティは感じていた。

 侍女のホーは一日中涙の途切れないケイティを見てられなかった。

「姫さま。あたしと逃げましょう」

 ケイティが涙目をホーに向ける。

「どこに? どこに逃げるって言うの?」

「あたしの故郷ではどうでしょう? ど田舎ですから姫さまの顔を知る者など誰ひとりとしていませんよ」

「だめよ。あなたがわたしの侍女だってみんなに知られてる。わたしがいなくなればまっ先に捜すのはあなたの出身地だわ」

「なるほど。じゃ隣国のグラディウス王国はどうです? グラディウス王国にまで捜索の手は伸びないでしょう」

「つてでもあるの?」

「ありません。でもあたしの実家はパン屋なんです。だからあたしもパン焼きを仕込まれました。屋台でパンを売れば姫さまひとりを食べさせるだけはかせげますよ」

 ケイティが考え顔になる。魅力的な提案だと思う。見知らぬ街でホーとふたりでパンを焼いて暮らす。おだやかな日々がゆったりとすぎて行く。

「ううん。だめ。わたしはローゼンシュタイン皇国の皇女なの。国民のためになる結婚をしなくてはならないわ。ブレッシュウッド公爵が皇族になればこの国はもっと栄える。わたしがブレッシュウッド公爵に嫁ぐのが一番いいのよ」

 ケイティが晴れやかな顔をホーに向けた。ケイティの演技だった。ケイティ自身はかけらもそう思ってなかった。ブレッシュウッド公爵は獣人ぎらいのろくでなしだ。同じく獣人ぎらいの父と組めば獣人を弾圧するに決まっていた。国民のためを思うならブレッシュウッド公爵の息の根を止めるのが正解だろう。

 一方でホーの提案どおりにすればホーの一生がだいなしになる。見知らぬ街でパンを売って豊かになれるわけがない。その日暮らしがせいぜいだろう。家族でもない自分のためにそんな苦労をかけさせるわけにはいかなかった。 

 ホーがさびしげな笑顔に変わった。姫さまのためならどんな苦労だって平気よと言いたい目だった。

 そんなホーだからよけいにケイティはあまえたくなかった。ホーには幸せになってほしい。

 ホーの幸せは姫さまが笑顔でいられることしかない。そうホー自身が思っていることを知らずにケイティはホーの差し出す手をふり払った。  


 そんななか魔王城の玉座の間では魔王を前にオーサとスーサイドがひかえていた。オーク軍とゴブリン軍それぞれの伝令が魔王ニーナ・ムートシルトに戦況を報告をする。

「ラモン河でにらみ合ってるだと! ラモン河と言えば皇都は目と鼻の先ではないか! 何をやっておるか! さっさと踏みつぶせと前線に伝えろ!」

 オーサの怒声にオーク軍の伝令がちぢみあがった。同じ四天王のひとりだというのにスーサイドもビビっている。

「まあ待てオーサ。軍師のサウザーに考えがあるのじゃろう。いましばらく様子を見てはどうじゃ?」

 眠そうな声だった。魔王は吸血鬼だから昼間に起きていると眠いらしい。

「お言葉ですが魔王さま。魔王さまは甘すぎますぞ。魔王さまが話し合いで解決をとローゼンシュタイン皇国におもむいた際だまし討ちにして殺そうとしたのはやつらです。人間など早急にひとり残らず殺しましょうぞ」

 頭に血がのぼったオーサが魔王にまで食ってかかる。

「ふむ。オーサの言葉にも一理ある。じゃがわらわとしては人間を全滅させるつもりはない。人間が同胞を殺すのさえやめてくれればよいのじゃ」

「そこが甘いのです。人間は魔物を殺すのをやめるつもりなどありません。話し合いすらしようとしません。やつらは害獣です。たたきつぶせる時にたたきつぶすべきですぞ」

 魔王がしばし思案した。

「わかった。では十日じゃ。あと十日待つとしよう」

「魔王さまがそうおっしゃるならしかたありませんな。十日たって動きがなければ総攻撃の令を魔王城から出すということで」


 冬のはじまりを告げる北風が吹く日をサウザーは待っていた。だが今年の秋は暖かくてその日の来るのが遅れているみたいだった。しかしその日さえ来れば勝てる。

 サウザーは勝利の光景を思い浮かべてふと気がついた。

「キリヤ。馬を用意してくれ」

 キリヤがけげんな顔を見せた。

「馬? どうしてだ?」

「ラモン河をわたればローゼンシュタイン皇都は見える距離だ。一気に皇宮に乗りこむ」

「ふむ。だが現地で馬を調達すればいいんじゃないか?」

「いや。ラモン河の勝敗は一日もたたないうちに皇都に伝わる。馬を探す時間が惜しい。皇宮が対策を立てる前に少数精鋭で皇宮を制圧したい。危機感のとぼしいバカ皇帝だ。おそらく普段どおりに酒宴などを開催してるだろう」

「なるほど。では何頭くらい必要だ?」

「二十頭ほどだな」

 そこに鬼族の潜入員が魔王城からもどって来た。

「キリヤさまに申しあげます。魔王さまの御前会議で総攻撃を十日後にせよと決定されました」

 キリヤとサウザーが顔を見合わせた。

「十日後だと?」

「正確には八日後でございます。ここに来るのに二日かかりましたから」

 サウザーは考えをめぐらせた。あと八日で冬むかえの風が吹くか? そうは思えない。この暖かさだと二十日はかかりそうだ。八日ではとうてい足りない。

 サウザーは鬼族の潜入員にお茶をすすめた。

「ところでね。どういう経過で総攻撃が八日後だと決まった? くわしく話してくれないか?」

 お茶を飲みながら潜入員が話しはじめた。

「というわけで報告を聞いたオーサさまが激昂したわけです。さっさと人間どもをたたきつぶせと。それで魔王さまが苦慮して十日と期日を切られました」

「なるほど。オーサか」

 サウザーは思案した。八日で出撃したら全滅するのは魔王軍だ。鬼はキリヤが説得すれば出撃を遅らせることが可能だろう。ゴブリンとアンデッドはどうか?

 ゴブリン軍の総司令ツイングムはサウザーの作戦にいつも賛同してくれる。説得しだいで首をたてにふってくれるだろう。アンデッドの首領のカーチスは親しく話せる仲になった。ものわかりの悪い男ではないから何とかなるはずだ。

 問題はオーク軍を統括するチンドッサだった。無策無能のくせして手柄を欲しがる。魔王とオーサの命令だとなれば喜びいさんで出港するだろう。

 一万五千の魔王軍のうちオークは四千体ほどだ。全滅したところで一万一千は戦力が残る。しかしオークは鬼とならんで力が強い。皇宮を少数で占拠する作戦が失敗すれば皇都を攻めねばならなくなる。そのときにオークが欠けていると痛い。

 どうすればオーク軍を冬むかえの風が吹くまで止めておけるか? サウザーは深く考えた。

 魔王城からの伝令をオーク陣営に入らせないようにするか? いやだめだ。チンドッサはたびたびオーサにうかがいを立てている。しばらく伝令が来ないと次から次に魔王城に伝令を送るだろう。そのすべてを止めれば吸血鬼のヨーゼフにたよるはずだ。ヨーゼフならひと晩で魔王城へ往復できる。夜空を飛ぶヨーゼフがオーク陣営に入るのを止める方法はない。

 仕方がないとサウザーは決意した。チンドッサに無実の罪を着せて拘束しよう。

 チンドッサを帷幕に呼び出した。チンドッサが嬉々としてやって来た。

「俺に勲章をくれるのか?」

「はあ?」

 サウザーは目を丸くした。チンドッサが何を言い出したのか理解できない。

「俺に勲章をくれるんじゃないのか? 俺たちオーク軍がまっ先にローゼンシュタイン軍に突っこんだんだぞ? 船だってもうちょっとで制圧できた。今回の戦闘で最も勇猛だったのは俺たちオークだ」

 サウザーは苦虫をかみつぶしたしかめっ面になった。

「そこだ。こちらの指示はゴブリンを先頭に立てると決めたはずだぞ。お前がやったのは命令違反だ。ミカエラ砦でもお前が先走って落とし穴に落ちた。鬼のジョシュが死んだのもお前がそそのかしたからだろう? 命令違反の罪でお前は営倉入りだ」

「ええーっ? なんでだよぉ? 俺は悪くないぞぉ! 戦争をやってるんだ! 敵を殺しにまっ先に飛び出すのはあたり前の行為だぜ! それが命令違反ってどういうことだ!」

 サウザーはゴブリンの憲兵隊を呼び入れた。憲兵たちがチンドッサの両手を取ってテントから連れ出した。

「俺は無実だぁ! ちょっとした勇み足じゃないかぁ! どうして俺が逮捕されるんだぁ! オーサさまに連絡を取らせてくれぇ!」

 チンドッサは連れて行かれるあいだわめき続けた。

 サウザーは後味が悪かった。営倉入りにするほどの罪ではない。言いがかりだった。


 十日目に魔王城から伝令がついた。

「総攻撃に移れとの魔王さまの命令です」

「わかった。了解したと魔王さまに伝えてくれ」

 サウザーは返事したものの総攻撃をする気はなかった。まだ冬むかえの日は来ていない。魔王城からの命令はすべて握りつぶす腹を決めていた。

 そこから三日とあけずに伝令が魔王城から来た。オーク陣営からひっきりなしにオーサの元へ報告が行っているらしい。魔王城から来たオークの伝令兵だけをでっちあげの罪を着せて営倉にほうりこんだ。オーク陣にオーサが激怒していると伝わってはまずいからだ。

 日々じりじりとサウザーはすごした。気が気ではなかった。魔王がしびれを切らして前線まで足を運べば終わりが来る。サウザーは馘で魔王軍は全滅だ。

 帷幕に毎日伝令兵が駆けこんで来るようになった。総攻撃をしろ。早く出撃しろ。出撃はまだか。人間を根絶やしにしろ。ぶっ殺せ。お前らはサルか。命令が理解できないのか。

 オーサのいらだちが手に取るようにわかる伝令だった。魔王が苦笑いしているのも見える気がした。

 そんなある日チンドッサが営倉から脱獄した。営倉にほうりこんだオークの伝令兵を引き連れて帷幕に怒鳴りこんで来た。

「聞いたぞ! お前ら魔王さまの命令を無視してるそうだな! 営倉に入れられるのはお前らのほうじゃないか!」

 キリヤがチンドッサをにらみつけた。チンドッサがひるむ。怒りにまかせて怒鳴りこんだはいいが四天王が怖いらしい。

 チンドッサの怒りがスッと引いた。

「まあいい。お前らがビビってるなら俺たちだけで人間軍をたたきつぶす。魔王さまが俺の首に勲章をかけてくれるだろうさ」

 チンドッサがオーク兵を連れて帷幕を出た。止めても聞きそうにない。

 サウザーは帷幕を出てチンドッサの背中を見つめた。オーク軍は今夜出港するだろう。南風はまだ強い。あしたにはオーク軍が全滅する。ゴブリン軍と鬼軍とアンデッド軍がいればローゼンシュタイン艦隊を撃退できるだろうか?


 翌日になった。ピタリと南風が止まった。ついに待ちに待った冬むかえの日が来たらしい。

 一日おそいとサウザーは歯ぎしりをした。オーク軍はすでに出港したあとだ。いますぐ追えば間に合うだろうか? 

 サウザーは全船に出撃命令を出した。オーク軍が全滅してなければいいがと思いながら。

 無風の中で兵士たちが必死で櫂をこぐ。

 サウザーとキリヤとカーチスは旗艦に陣取った。

 サウザーは水上の戦闘などはじめてだ。狙いどおりに船隊が動くか自信がなかった。

 夜になった。ラモン河のまん中あたりでイカリをおろした。決戦は明日だ。今夜は船中泊だった。オーク軍の船は影も形も見えなかった。すでに水没しているのかもしれなかった。

 日の出が来た。風が強い北風に変わった。サウザーは帆を張らせた。北から南への風を帆にはらんで船足が一気に早まる。

 昼に船影が見えた。オーク軍の船だった。イカリをおろしている。

 ははーんとサウザーはひらめいた。昨夜出港はしたものの早々に酒を飲んだのだろう。決戦の前の宴会だ。特にチンドッサは営倉にぶちこまれていた。酒に飢えていたはずだ。それで昼になるまで酔いつぶれて寝ているにちがいない。さらに向かい風にさからって櫂をこぐのにも疲れたはずだ。いましばらくは起きないのではないか?

 ふふふとサウザーはふくみ笑いを漏らした。オーク軍の船にさわらずに追い越した。置き去りにするつもりだった。戦闘が終わってから戦場に着くがいい。オーサにどんな報告をするのか見物だなと。

 酒を飲んで寝すごしました。戦場に着いたときには戦闘が終わっていました。申しわけございません。そんな伝令を出せばオーサは怒髪天をつくだろう。

 北風に背中を押されて河を快走した。前方はるか彼方に向こう岸と皇都が見えはじめた。


 ローゼンシュタイン軍八千人はイルマル港であわただしく八十隻の船に乗りこんだ。旗艦には前線司令官のピーターと参謀のデミッツがいる。ユリシスの部隊の五十人も旗艦に割りふられた。

 物見やぐらに登った兵士の報告では魔王軍の船影をとらえたそうだ。大小さまざまな船で総数はおよそ二百隻。こちらの約倍だ。

 旗艦の甲板で前線司令官のピーターが参謀のデミッツの言葉を待った。

「…………………………………………しゅ……出撃」

 デミッツは考えることはできる。言葉に代えるのに時間がかかるだけだ。ちょうど書き取りのテストで読めるが書けない漢字を思い出すときに近い。おぼろげな形はわかるのだがいざ書けと言われると書けない。必死になっても思い出せない。

 デミッツは指示を出したい。だが言葉を思い出すのにやたら時間がかかる。もどかしい焦燥感が胸をこがす。あせって余計に思い出せない。

 ピーターはデミッツの言葉をじりじりしながら聞いた。一刻も早く指示を伝えなければ負ける状況でこんなとろい老人の采配を待っていていいのだろうか? そう首をかしげながら全船に出撃命令を出した。

 部隊長のユリシスも横で聞いていてがくぜんとした。老人同士の茶飲み話ならどれだけ時間がかかろうとかまわない。だが一瞬の判断が勝敗をわける戦場でこんな老人に命をゆだねるのか?

 ピーターの指示で兵士たちは北風に向かって櫂をこぐ。ユリシスも半数の部下をこぎ手にまわした。

 ローゼンシュタイン軍の船団がゆっくりイルマル港を離れる。風はおとといまでとちがって強い北風だ。向かい風では帆は使えない。

 トトが参謀なら出撃はしなかったろう。陸地に落とし穴を掘って魔王軍を待ちかまえたはずだ。南風ならローゼンシュタイン軍の圧勝だが北風だと完敗する。

 デミッツは伯爵で騎士かたぎの参謀だった。相手と同じ条件で一騎打ちをするのがデミッツの戦いだ。罠を張るのは卑怯だと考えていた。騎士にあるまじきふるまいだと。


 旗艦に乗るサウザーはイルマル港を出たローゼンシュタイン軍の船団を確認した。いよいよ決戦だった。相手の参謀はトトだ。何か罠が仕掛けられているかもしれない。だがここまで来たら当初の予定どおり進める以外になかった。水の上では逃げ隠れはできない。トトも河に落とし穴は掘れないだろう。サウザーは皇帝ゼノムが参謀をトトからデミッツに替えたのを知らなかった。

 サウザーは船足を落として火矢を用意させた。射程を読んで弓につがえさせる。北風が強いから火のあつかいには注意が必要だ。自分の船に燃え移ればあっという間に火だるまになる。

 ローゼンシュタイン船が射程に入った。サウザーはドラを鳴らさせる。火矢を放てとだ。

 一万一千の兵士が一斉に火矢を撃つ。北風に乗ってローゼンシュタイン船に火の雨が降る。

 ローゼンシュタイン船からも火矢の反撃がはじまった。だがローゼンシュタイン船からは向かい風だ。強風にさえぎられて魔王軍に届かず河に落ちる。

 こちらの火矢はおもしろいように敵の船に吸いこまれる。相手の火矢は河に落ちてまったく届かない。楽勝だった。

 またたくうちにローゼンシュタイン船団が燃えあがる。消火に努めながらローゼンシュタイン船は必死で櫂をこいで魔王軍に迫ろうとする。だが向かい風のせいで船足は遅い。

 火がついたせいで逃げるローゼンシュタイン船も出た。南に転進したら船足があがる。しかし帆にも火が入っているためさほど早くならなかった。

 風がさらに強くなった。魔王軍の船が南に流されはじめた。

 サウザーは戦況を見るのに夢中で流されているのに気づかなかった。気づいたときにはもう遅かった。

 船は急停止できない。旗艦と旗艦が向き合った。このままだと接触する。

 右でも左でも乱戦がはじまった。燃えているローゼンシュタイン船に乗りこんで白兵戦を仕掛けるオークたち。ローゼンシュタイン船から乗りこまれて応戦するゴブリンたち。アンデッドたちも炎のローゼンシュタイン船に飛び移って斬り合いを開始した。

 サウザーは舵を右に切らせた。燃えるローゼンシュタイン軍の旗艦が眼前に迫る。甲板では斬りこむ準備をととのえた兵たちがいまかいまかと待ちかまえている。

 ローゼンシュタインの旗艦と魔王軍の旗艦がすれちがう。その瞬間にローゼンシュタイン兵たちが魔王軍の旗艦に乗りこんで来た。

 魔王軍の旗艦でもゴブリンと鬼とアンデッドが待ち受けている。たちまち斬撃の音が甲板にひびきわたる。

 ゴブリンの女兵士ヤンバはサウザーとキリヤとカーチスを守るために立ちはだかった。ローゼンシュタイン軍の部隊長ユリシスがヤンバに斬りかかる。

 ヤンバ隊とユリシス隊の戦闘になった。どちらも歴戦の兵士で互角だった。

「ほう。ヤンバはなかなかやるな。人間のほうも経験豊富のようだ。このままじゃ共倒れだな」

 キリヤが笑みを浮かべながらあごをなでた。四天王としての自信だろう。余裕がある。

 サウザーはヤンバたちの戦いを見ながらも全体の状況把握に努めた。最も多く火矢をあびたローゼンシュタイン軍の旗艦は燃えくずれて沈もうとしていた。ほかにもローゼンシュタイン軍の船はあちこちで水没しかかっている。ローゼンシュタイン船に斬りこんだスケルトンは船とともに沈んでいるらしい。骨だけだから泳げないようだ。

 ローゼンシュタイン兵をかたづけた鬼とアンデッドの部隊がヤンバ隊に加勢した。ユリシス隊の背後から斬りつける。

 ひとりまたひとりとユリシス隊が倒れて行く。ユリシスはヤンバの剣をふせぎながら斬られた部下の名を口にした。

「……アリアス……ウルル……オースティン……キース……」

 助けに入れなかった自分の未熟さがたまらない。俺がもっと強ければみすみす目の前で殺されなかったのにと。

「……ケンブリッジ……ゴーガン……スクルージ……タンジェリン……」

 ついにユリシスひとりになった。ユリシスは剣を握る指がしびれてこれ以上剣をふれそうもなかった。ヤンバも肩で息をして限界に見えた。

 鬼もアンデッドもユリシスとヤンバの一騎打ちに水をさしたくなくて遠巻きに見ている。キリヤとサウザーとカーチスも戦いの結末がどうなるのかと見つめていた。

 ユリシスはここで斬り死にするかと苦笑した。せめて相手の女隊長だけでも殺したかった。だがもう無理だろう。

 ユリシスがあきらめかけたとき脳裏に五十人の部下たちの顔がよぎった。

「隊長! あきらめないでください! 俺たちがついてますから!」

 ユリシスはハッとした。いまゴブリンを一体ほふってどうなる? 何の影響もないだろう。ゴブリンにだって家族がいるかもしれない。すくなくとも五十人の部下たちはみんな家族がいた。良き父親であり良き夫でありした。そんな部下たちを死地に追いやったのは誰だ? こんな勝ち目のない戦いに駆りだしたのは誰だ? 

 怒りがユリシスの頭をクラクラさせた。目の前がまっ赤に染まった。こんなところでゴブリンを斬ってる場合じゃない。俺にはやらなければならないことがある!

 ユリシスは船べりに走った。ラモン河に身を投じる。

 この行動にはキリヤもサウザーもカーチスも意表を突かれた。予想外もいいところだった。

「まさかひとりになってから逃げ出すとは」

 キリヤがユリシスの消えた船べりを見ながらつぶやいた。キリヤはユリシスを部下思いの隊長だと踏んでいた。逃げるなら部下たちが劣勢におちいった時点で逃げるはずだと。部下が全滅したあとで自分ひとりが逃げる男には見えなかった。あたしの目ちがいかとキリヤはしぶい表情に変わった。

「自殺かもしれませんぞキリヤ殿」

 カーチスが口にした。周囲では燃えるローゼンシュタイン船が次々と断末魔をむかえていた。よほど泳ぎが達者でないかぎり沈む船に巻きこまれて溺れるだけだ。

「そうかもしれんな。あの手の男が自分ひとり逃げるとは考えにくい。敵の手にかかるより溺れたほうがましだと判断したか」

 キリヤが納得したとき沈みかけたローゼンシュタイン船が魔王軍の旗艦のすぐ横に来た。炎に包まれている甲板に魔法使いのローブを着た男たちが整列していた。男たちのローブにも火がついていていまにも全身が燃えあがりそうだった。

「魔素よ魔素よ天地の精霊よわが命にしたがえ! ファイアーボール!」

 最後の力をふりしぼった魔法使いたちが火の玉を放った。火の玉が次々に魔王軍の旗艦に着弾した。その間に魔法使いたちを乗せた船は水没した。

 カーチスにも火の玉が直撃した。あっと言う間にカーチスが燃えあがった。

 キリヤが動転した。

「水だ! 水をかけろ!」

 サウザーはオケに貯めておいた水をカーチスの頭からかけた。火が消えない。鬼たちとゴブリンたちが交代で水をカーチスにかける。だが火は消えずにカーチスが燃えつきた。それと同時にアンデッドたちがグシャッと崩れた。

 カーチスがいたところには黒い燃えカスがあるだけだった。

「カーチス殿……」

 サウザーはぼうぜんと立ちつくした。アンデッドであるカーチスは火が弱点だったらしい。カーチスが死んだことでアンデッド三千体が一気に死体にもどった。

 サウザーはラモン河を見回した。ローゼンシュタイン船は全船が沈没したようだった。残っているのは魔王軍の船だけだ。ラモン河の決戦は魔王軍の快勝みたいだ。

 サウザーは安心してられなかった。これからローゼンシュタイン皇宮に乗りこんで制圧しなければならない。サウザーの戦いはここからが本番だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ