第25話 二人のこれから
「「……」」
普段と違って重たい静寂がリビングを満たす。
乃愛ちゃんに胸の内を吐き出してから、短くない時間が過ぎた。
彼女の顔を見ながら話せなくて、手で顔を覆ったまま体勢を変えられていない。
とはいえ、ずっとこのままでは居られないと顔を上げる。
「……つまらない話をしてごめんね。今日は帰るよ」
こんな冷えた空気の時は、時間を置くべきだろう。
明日には静かでも気まずくない、いつも通りの日常が返ってくるはずだ。
そう思って玄関に向かおうと腰を上げようとした。
「待ってください」
静止の声と共に服の裾を引っ張られ、ソファから立ち上がれなくなる。
乃愛ちゃんがどんな顔をしているか不安だったが、視線を送っても彼女は顔を伏せたままだった。
「瀬凪さんの言いたい事は分かりました。そんな瀬凪さんに、伝えたい事があります」
「何、かな?」
そんな人だと思わなかった。失望した。明日からは家に来るな。
乃愛ちゃんならば絶対に言わないだろう言葉が俺の頭に浮かぶ。
弱気な心を柔和な表情で必死に取り繕いながら尋ねると、蒼と黄金の瞳とようやく視線が交わった。
相も変わらず美しい二つの瞳には、強い決意が宿っている気がする。
「好きです、瀬凪さん。兄のような人ではなく、異性として」
「………………は?」
俺は今、何を言われたのだろうか。
弱さを吐き出した年上の男性が告白をされるはずがない。
ならば勘違いか。そう思っても、乃愛ちゃんが発した言葉が別の解釈をさせてくれなかった。
呆けた声を出して固まる俺に、柔らかな視線が向けられる。
「変な事ですか? 私の悩みを私ごと受け入れてくれて、いつも凄く優しくしてくれる人。そんな人、好きになるに決まってるでしょう?」
「悩みを受け入れるなんて当たり――」
「残念ながら当たり前じゃないですよ。少なくとも、私の瞳を見て『隠してもいい』と言ってくれたのは瀬凪さんだけです」
あの言葉にとっても救われたんですよ。と乃愛ちゃんが頬を僅かに赤らめてはにかむ。
そんな愛らしい表情は、次の瞬間には怒気を孕んだ表情へと変わった。
「でも、だからこそ瀬凪さんに怒ってもいます。『私が離れて行くかも』なんて不安に思って、悩みを打ち明けてくれなかったんですから」
「……ごめん」
俺自身の問題であっても、乃愛ちゃんを信用しなかった事に変わりはない。
深く頭を下げると、彼女は悲し気に目を伏せて首を横に振った。
「いいんです。というか、謝らせてしまってすみません。本当は、どうして瀬凪さんが言えなかったのか分かってるんです」
後悔を顔に滲ませ、乃愛ちゃんが言葉を続ける。
「私が子供だから。弱いから。甘えてばっかりだから。頼れないから。瀬凪さんは言えなかった」
「違う。違うんだよ。俺が弱いから言えなかったんだ」
虐められる原因となった両目を隠していても、乃愛ちゃんはそれを自分なりに誇りに思っている。
甘えてばかりと言うなら、俺だってそうだ。乃愛ちゃんの優しさに、温かい空気に、いつも甘えていた。
だからこそ、自らを傷付けるような発言をして欲しくなかった。
必死に否定すると、嬉しそうに、けれどほんの少しだけ悲しそうに乃愛ちゃんが笑った。
「瀬凪さんはそう言うと思ってました。でも、私はそれに納得出来ません」
普段ならば、俺の言葉を乃愛ちゃんは受け入れてくれただろう。
けれど今の彼女は絶対に譲らないという意思を瞳に宿し、真っ直ぐに俺を見つめていた。
「だから、私は変わります。変わりたいんです。瀬凪さんの隣に並べるように。瀬凪さんが弱さを吐き出せるように。……実際にどう変わればいいかは、まだ思いついてないですけど」
「そんな事、しなくてもいいんだ。俺の為に変わる必要なんかない」
乃愛ちゃんが変わっていく。その理由が俺と一緒に居たいからであっても、どうしても頷けなかった。
変わった先で、本当に一緒に居てくれるのか。離れて行くのではないか。
ましてや、乃愛ちゃんは中学生だ。これからいくらでも、どんな方向にも変わっていける。
だからこそ怖い。こんなにも想いを寄せてくれる子に、手の平を返されるのが。
「いいえ、変わります。これは誰の為でもない私の我儘です。感謝も、謝罪も要りません。勿論、瀬凪さんが気に病む必要も」
「……」
乃愛ちゃんの言葉に何も言えなくなり、黙り込んでしまう。
ただひたすらに蒼と黄金の瞳を見つめていると、乃愛ちゃんの表情がふっと和らいだ。
「でも、それでも瀬凪さんは気に病むと思うので、いくつかお願いを聞いてくれませんか?」
「……俺に、出来る事なら」
俺の心を完全に理解した発言に、お願いを聞かないという選択肢はない。
乃愛ちゃんの方から、譲歩してくれたのだから。
「じゃあまず一つ目です。私の告白の返事は、私が絶対に離れないと瀬凪さんが確信を持てた時で構いません。保留にしておいてください」
「それで、乃愛ちゃんはいいの?」
「はい。瀬凪さんには流されて欲しくないですし、普通なら中学生の戯言と受け取られるものですから」
「それは――」
話の流れが急展開過ぎて、乃愛ちゃんの告白を置いてけぼりにしてしまっていた。
よくよく考えると、中学生が大学生に告白したのだ。
一時の気の迷い。大学生という年上の男性フィルター。そんなものに目が眩んだと言われてもおかしくはない。
けれど翼に『年下だからとか、年齢がとか、世間の常識を振りかざすのは辞めてやってくれ』と言われたのだ。
俺だけは、乃愛ちゃんの告白を否定してはいけない。
喉から出かけた言葉を必死に飲み込む。
「――分かった、保留にさせてもらうよ。でも中学生だからどうとか、そんな事を言うつもりはないからね」
「ふふ、ありがとうございます。それなら、二つ目のお願いも聞いてくれそうですね」
「その二つ目は?」
「子供扱いは辞めて欲しいな、と。話し方とか呼び方とか、成瀬さんや莉緒さんと私では露骨に違うので」
むっと唇を尖らせる乃愛ちゃん。
先程怒った時とは違って微笑ましいが、表情に出すのは失礼なので抑えた。
「呼び方に関しては私が願ったので自業自得ですが、それ以外は結構本気で不満だったんですよ? 私にも気安く接して欲しいなー、とか。仲間外れにされてる気がする、とか」
「えと、ごめん」
「謝罪より行動に移して欲しいです」
「本当にいいの? 結構、乱暴な口調になるけど」
「お願いしてるのは私ですよ。というか、ちょっと乱暴な口調もかっこいいです」
どうやら、年上ぶった口調よりは同年代に接する口調の方が乃愛ちゃんには高評価らしい。
頬を染めつつ口元を緩ませる乃愛ちゃんは反則的に可愛らしかった。
「分かった。……改めてよろしく、乃愛」
「はい! よろしくお願いしますね、瀬凪さん!」
花が咲くような笑みを零し、乃愛ちゃん――乃愛が歓喜を露わにする。
元々翼に言われて考えを改めるつもりだったが、もう妹のような扱いは絶対に出来なくなった。
そう考えて、ふと翼や莉緒と四人で居た時の事を思い出す。
(そう言えば、翼や莉緒って乃愛を年下扱いしてなかったな)
呼び方は「杠さん」や「乃愛」で俺のように「ちゃん」を付けていない。口調も同年代に話すようなものだった。
おそらく、あの二人は年下というだけで乃愛への対応を変えたくなかったのだろう。
俺だけが何も見えていなかったと、苦笑を零す。
「では次で最後です。私の告白の返事は保留で構いません。……ですが返事を待つ間、瀬凪さんの一番近くに居ていいですか?」
告げられた言葉は、先の二つと違って不安に彩られた懇願だった。
俺の傍から離れたくない。自分以外の誰かが俺の傍に居て欲しくない。
そんな我儘と、待っている間に俺が他の誰かに取られてしまうかもしれないという恐怖。
自信満々に見える乃愛だが胸の内は違うのだと、彼女の言葉で理解した。
ならば、弱さを受け入れてもらった俺が乃愛の懇願を切り捨ててはいけない。
懇願を受け入れた結果、俺の立場が情けないものになるとしても。
「勿論だ。狡い大学生でごめんな」
「ふふ、これで遠慮なくアピール出来ますのでお気になさらず。覚悟してくださいね、瀬凪さん」
「……どんな覚悟が必要なんだ?」
今までと違う、艶やかな笑みと火傷しそうな程の熱を秘めた色違いの瞳に背筋が寒くなった。
ぶるりと身を震わせながら問い掛けると、小さな唇を真っ赤な舌が舐める。
中学生にしては幼げな顔立ちなのに、大人の色気が出ている気がする。
「私の告白が保留になった上で傍に居ていいなら、今は瀬凪さんを振り向かせる期間。どれだけ誘惑してもいいという事ですよね?」
「いや、それは違うんじゃないか?」
「えー? まずはお友達からって始めるのに、女性としてアピールしないって有り得ないですよー?」
「まずはお友達からなんて言ってないよな!?」
おかしい。事実が書き換えられている。
声を荒げて突っ込みを入れると、乃愛がくすくすと楽し気に笑った。
「そういう瀬凪さん、すっごく素敵です」
「ここで褒められてもなぁ……」
のらりくらりと躱されているので、どうやらこれから俺はアピールされるらしい。
妹のように見る事の出来ない、俺に異性として好意を向けてくれる女性。
しかも、その人によって元恋人に振られた事そのものは乗り越えられたのだ。
それだけでなく、普段から料理を作ってくれるしっかり者で、なのに甘える姿が可愛らしい。
そうやって乃愛を一人の女性として見ると、自分の本当の気持ちがどんなものなのか理解出来た。
(……ホントに、狡い大学生だよな)
ここまで来ても、乃愛に一番近くに居て良いと言っても、それでも想いを口に出せない。
まだ、心の奥底には乃愛が離れて行くかもしれないという恐怖があるせいで。
「はぁ……」
溜息をつき、がっくりと項垂れる。
俺の態度とは裏腹に、先程までの重苦しい空気はとっくに無くなっていた。




