第17話 瀬凪の大学生活
「おはよう、瀬凪! 調子はどうだ?」
乃愛ちゃんが体調不良でダウンした次の日。
大学で一コマ目の講義が始まるのを待っていると、数少ないどころか唯一と言っていい男友達の声が聞こえた。
声の方を向けば、明るい茶髪の軽薄そうな男――成瀬翼がこちらに向かってきている。
「おはよう、翼。噂される事も減ってきたし、多少は気楽に過ごせてるぞ」
元恋人と別れて二ヶ月近くが経ち、俺という存在が大学でネタにならなくなってきた。
その結果、元恋人と仲良くなる前と同じ地味な存在に戻っている。
とはいえ、軽薄そうではあるものの見た目が整っている翼が傍にいるせいで、今はそれなりに視線をいただいているのだが。
「人の噂もなんとやらってな。ホント、良かったな」
「ああ、万々歳だよ」
心底心配していたという風な笑顔を浮かべる翼に、俺も笑顔を返した
大学では地味な存在に戻り、私生活では乃愛ちゃんと一緒に過ごす。
更にはバイトの量も減り、家の中でも外でも平穏そのものな大学生活だ。
「いや、マジで良かったよ。あの時の瀬凪は見ていられなかったからな」
「そんなにか? ……そんなにだったかもな」
静かな声で昔の俺の状態を告げられて首を捻ったが、確かに酷かった。
肩を竦めると、翼が何故か申し訳なさそうに眉を下げる。
「すまねぇな。出来る事ならもっと傍に居てやりたかったんだが……」
「大学の中だと無意識に惚気られて、外だと自動的に莉緒と一緒だろうが。あの時の俺にバカップルのいちゃつきをすぐ傍で見せつけてたら、絶対に手が出てたぞ。勿論、三人でいる時に変に遠慮されてもな」
翼は見た目に反して一途であり、佐々木莉緒という恋人が居る。
その一途さ――バカップルさは大学の外では基本的に一緒に行動しており、近くに居ると胸やけしそうな程だ。
もしもの時のシミュレーションを基に遠慮のない言葉を口にすれば、翼がしゅんと肩を落とした。
「だよなぁ……」
「というか翼達と一緒にいると俺があいつを思い出すって分かってて、今日まで挨拶する程度にしておいてくれたんだろ? 謝る必要なんかないぞ」
「そっか。ありがとな、瀬凪」
「お礼も要らないって」
ひらひらと手を振って、気にしていないとアピールする。
軽薄そうな見た目なのに、中身は誠実なのだから不思議なものだ。
「今更だけど莉緒から伝言だ。『チャンスがあったら一緒にアイツをぶん殴りましょうね』だってよ」
「莉緒なら言うだろうなぁ。その様子だとすげー怒ってくれたみたいだし、会ったらお礼を言わないとな」
頼もしい言葉に胸が温かくなり、頬が緩む。
翼と莉緒は俺の元恋人と知り合いだ。友人だった、と言っても良い。
とはいえこの様子だと、俺が振られた後に関係をすっぱり断ったようだが。
「マジで凄かったんだからな。まあそれは俺もだし、何なら俺らは今も怒ってるけど」
「翼もかよ。というか今もなのか」
「当たり前じゃねぇか。ちょっとちやほやされたからって――」
「翼」
言いたい事は分かる。俺だってそう思った事はあるのだから。けれど、もう過ぎた事なのだ。
大学で噂され、遠回しに笑われるようになった俺。
そんな俺に会うたびに挨拶をしてくれただけでなく、ここまで心配してくれた翼が怒ってくれるだけで十分だ。
やんわりと首を振って言葉を遮ると、翼ががしがしと頭を掻いた。
「わーったよ。まあでも、俺達は絶対に瀬凪の味方だからな」
「ホント、ありがとな。…………で? 話はそれだけじゃないんだろ?」
俺がある程度立ち直るまで、翼はそっとしておいてくれた。それは確かなのだろう。
けれど、何故立ち直ったと判断したのが今日なのか。何故今日は挨拶だけで済ませなかったのか。
その理由に心当たりがあるからこそ、低い声を発して問い詰めた。
すると、翼が引き攣った笑顔で手を揉み始める。
「その、ですねぇ。瀬凪さんにお願いがありまして……」
「その気持ち悪いゴマすりを辞めたら、話だけは聞いてやる」
「俺のレポートと莉緒の勉強を手伝ってください!」
翼が目の前で手を合わせ、深く頭を下げた。
俺の予想通りの言葉が出てきた事で、重い溜息を吐き出す。
「そんな事だろうと思ったけど、自分で努力はしたんだよな?」
「勿論した! でも一人じゃ集中が続かないし、俺らだけだとすぐ遊んじゃってよぉ……。全然進まねぇんだよぉ……」
「このバカップルが!!」
翼も莉緒も気遣いは出来るのだが、勉強に関しては弱い。
それが分かってから俺がバイトの合間に手伝っていたのだが、甘やかし過ぎただろうか。
声を荒げると、翼がびくりと体を震わせた。軽薄そうな見た目は見る影もない。
「瀬凪が居ると身が引き締まるからちゃんと出来るんだよぉ……。頼むよぉ……」
「はぁ…………。いつもと同じで全部は手伝わないし、莉緒の勉強も手取り足取り教えない。本当に困ってたら助けるが、ほぼ監視になるぞ。それでいいか?」
二人が俺を心配してくれていたのは分かっている。
だからこそ、ここで突き放したくはない。
溜息をついて条件付きで許可すれば、翼の顔が歓喜に彩られた。
「助かる! 流石瀬凪! 男の中の男! 一生ついて行かせてくれ!」
「はいはい」
思いつく限りのお世辞を口にする翼をあしらい、二度目の溜息をついた。
「じゃあ今週末に瀬凪の家でどうだ? 久しぶりに行きたいし、ゆっくり出来るし。あ、夜は出前とかでパーッといこうぜ!」
「俺の家か、いい――」
許可を出そうとして言葉に詰まる。
そういえば、翼達が俺の家に来たのは随分前だった。
そして、その時にはまだ杠家が隣に引っ越してきていない。
当然ながら、乃愛ちゃんと俺が毎日一緒に過ごしている事も知らない。
(別に話す必要はない。でも、黙ってると乃愛ちゃんが一人になるんだよな)
何だかんだで集まって勉強するのは楽しみだ。その後の晩飯も盛り上がるだろう。
しかし、今のままではその輪の中に乃愛ちゃんが入れない。
それは何だか寂しい気がした。
(……まあ、翼達なら話してもいいか。乃愛ちゃんの許可が必要だけど)
翼と莉緒は信用出来る。乃愛ちゃんとの関係を話しても、黙っていてくれるだろう。
俺が急に考え始めたせいで戸惑っている翼へと、頷きを返した。
「いいぞ。じゃあ俺の家に集合な」
「お、サンキューな!」
「それと、晩飯に関しては俺に考えがある。出前は多分ナシになるぞ」
「……まさか三人で作るとか言わないよな?」
「言う訳ないだろ。俺は手伝うかもしれんが、翼と莉緒は待ってるだけだ」
「うん? その感じだと、もう一人居ないか?」
「ああ、紹介したい人が居るんだ。そうだな――」
俺と乃愛ちゃんの関係は、どういうものなのだろうか。
友人なのは間違いない。しかし、普通の友人とは思えないくらいに距離が近い。
大きな信頼を向けられて、甘えられているのは分かっているが、その大元の感情が何なのかは不明だ。
とはいえ、恋愛感情ではないだろう。乃愛ちゃんに好かれる要素など俺には無いし、特別な事など何もしていないのだから。
ならば、この言葉が一番相応しい気がする。
「血は繋がってないけど妹のような人、だな」
「はぁ!? どういう事だよ、説明しろ!!」
訳が分からないという風に翼が俺の肩を掴んで揺さぶる。
恋人と別れて傷心から立ち直ったと思ったら、女性――妹のようなと言ったが――の存在を匂わせたのだ。混乱するのは分かる。
苦笑を零し、落ち着かせようと肩から翼の手を離した。
「あの子から許可が出たら、当日説明するさ。今更だけど、一人増えるのはいいか?」
「莉緒にも聞いてみるけど、多分いいぞ。にしても紹介したい人、か」
あっさりと引き下がった翼が、嬉しそうに微笑んだ。
「瀬凪が立ち直れたのって、その子のお陰か?」
「そうだ。あの子が居なければ、俺はまだ落ち込んでただろうな」
「そっか。良い出会いがあって良かったな、瀬凪」
「ああ。本当に、俺には勿体ないくらい良い出会いだったよ」
真っ直ぐに称賛してくれる唯一の男友達。
勉強に関して物申したい時はあれど、この男友達との出会いも良いものだったと思うのだった。