開戦
「亜紀ちゃん、起きてる?」
ぼくは両手でハンドルを握り、視線は正面に向けたまま、助手席の亜紀ちゃんに声をかけた。
「うん、起きてる」
「今日の最後のプレイなんだけど」
「てっちゃんがゴレイロをドリブルで抜こうとした時のこと?」
「うん、ぼくは昔から河川敷で、パパと何度も1対1の練習をしてきた。フェイントには自信があったのに、最近、止められちゃうことが多いんだ」
亜紀ちゃんは、少し考えてから
「てっちゃんがフットサルやってる時って、ほんとに楽しそう。スポーツなんだから、もちろん楽しんでやるのはいいことなんだけど……」
「けど、なに?」
「てっちゃんのプレイからは、気迫が感じられない」
「気迫って?」
「わたし達格闘家の理想ってなんだと思う?」
「格闘家の理想……?うーん、一回も殴られずに勝つ、とか?」
「それも一つの理想ではあるけど……わたしの考える最高の到達点は、一打必倒」
「一打、筆頭?」
聞いたことない言葉だけど、格闘技の話題だから、たぶんこんな漢字だろう。
「そう、どんな相手でも、一発の突き、蹴りで倒しちゃうってこと。実際にはほとんどありえないんだけど、それだけ一発の突き、蹴りに魂を込めているってこと。たとえば空手でも上段を蹴るふりをして、途中で中段に変化させるって技があるけど」
「ああ、必倒って、必ず倒すってことか」
頭の中で必死にシミュレーションした。エラシコやプルプッシュみたいな感じか?
「最初の上段蹴りがただの蹴るふりだと、相手もそれがフェイントかもしれないって、変化にも対応できるように準備するわ。
でも、最初の上段蹴りに魂が込められていたら、相手はその殺気に反応して、必死で上段を防御する。そこでがら空きになった中段に蹴りを入れるの」
「うーん、パパからも体重移動が大事っていうのはよく言われるけど、もっとしっかり体重移動しろってことかな?魂を込めるって、ちょっとわかりづらいな」
「そうだね。言葉だけで説明するのは難しいよ。今度、道場においでよ。実際に受けてみるのが一番よくわかるよ」
「え、亜紀ちゃんの本気の蹴りを受けるってこと?いや、それはちょっと遠慮するよ」
想像しただけで、頭がくらくらして、吐き気が込み上げてきた。
「ふふ、てっちゃんって、いくつになっても怖がりだね」
亜紀ちゃんの家の前に到着した。ギアをパーキングに入れて、サイドブレーキを踏んだ。
シフトレバーの上に置いたぼくの左手の上に、亜紀ちゃんの手が重ねられた。
「じゃあ、ラビリンス参加は今度の土曜日からだから、体調を整えて、クイズの勉強もしといてね」
「うん、パパにも頑張るように言っておくよ」
亜紀ちゃんの髪からは、煙と油の臭いがした。後部座席からは絶え間なくパパのいびきが聞こえてくる。
*
修が運転する馬鹿でかいワゴン車の後部座席から、慶次君がゆっくりと降りてきた。
「これで全員集合ですね」
南監督が機嫌よさそうにうなずいた。時刻は朝の8時50分、9時から始められる健康診断の10分前に集合が完了した。フットボーラーたるもの、時間に正確なのは当然のことだ。
ラビリンスに持ち込めるのは、携帯電話と充電器だけだから、みんな荷物は持っていない。何があるかわからないから、動きやすい恰好。全員トレーニングシューズを履き、練習用のジャージを着ている。周りを見渡すと、今日の参加者と思われる老若男女が、全部で50人ほど。平均年齢は少し高め、まあ、アカウントより金が大事だってのは、40代以上のやつらが多いってことだろう。
健康診断の会場は、ラビリンスのすぐ近くにある2階建ての体育館だ。ロビーを抜けると男女別の更衣室があり、そこで水色の入院患者が着ているような服に着替えさせられた。脱いだジャージはロッカーに入れる。扉に付いたカギを捻ると、錠がかかり、カギが抜けた。
カギにつながっているプラスチックのバンドを手に巻きつけ、白いスリッパを履いた。
「よし、ここからおれと南監督は別行動だな。てつ、油断するなよ」
「何言ってんだよ、たかが健康診断で。パパの方こそ大丈夫?足が震えてない?」
「こ、これはお前、なんか足がすーすーして……」
「うん、とにかく落ち着いて、平常心だよ。監督、パパをお願いします」
「わかりました。じゃあ、40歳以上のわたしたちは1階で受検してきます」
「うん、ぼくらは2階だから。そろそろ行かないと、亜紀ちゃんが待ってるよ」
*
「なあ、てつ、なんでお前の親父さん、そんなに健康診断苦手なんだ?」
修が不思議そうに聞いてきた。慶次君も
「うん、なんか顔色も悪かったよ。フットサルのときは、どんなシュートも怖がらずに向かっていくのに」
と首を傾げている。
「パパって、結婚してサッカーをやめたあと、徐々に体がDBに変化していったらしいんだ。そうすると、健康診断の結果も普通の人と違ってくる。
健康診断の最後にお医者さんとの面接があるよね?その時にお医者さんから、ねちねちとお説教されて……」
「ああ、ぼくも言われたことある。このままじゃ、糖尿病だとか、血圧が高いとこうなるとか……」
「パパは内臓とか、血管とか、想像すると気分悪くなっちゃうんだって」
「それはおれもわかる気がするな、なんか体に力が入らなくなる」
亜紀ちゃんと合流したあと、ぼくらは他愛もないことを話しながら、次々と健康診断を進めていった。
「なんでラビリンスと視力が関係あるんだ?それに採血や血圧測定のとき、腕のまわりをやけにじっくりみられたんだけど」
「うん、ギリに聞いたんだけど、40歳未満の受検者は、薬物の常習者かどうかを重点的にチェックされるみたい。腕に注射の跡がたくさんあったり、瞳孔が散大してたりすると、失格になるんだって」
「ああ、なるほどね。尿検査もそのためか。会場で禁断症状が出て、暴れ出したら困るよね」
「あ、南監督が戻ってきた。あれ、お父さんがいない」
亜紀ちゃんの声がして、顔を上げると、南監督が廊下を一人で歩いてくるのがみえた。
「監督、パパは?」
南監督は、下を向いたまま首を振った。
「お父さんは、採血の途中で気を失って……」
「え、まさか?」
「いや、お医者さんはたくさんいたので、その場で処置を受けて、命に別状はないんですが、残念ながらここで失格ということに……」
「じゃ、じゃあ」
「はい、仕方ありません。ラビリンスにはこの5人で挑戦しましょう」
ま、マジか?まあある程度は予想していたけど……
「よし、みんな、パパの仇討ちだ。こうなったら、絶対に最終ボスを倒して……」
「いや、てっちゃん、仇って」
亜紀ちゃんが控えめにつっこんでくれた。