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第8戦 その1

 エレベーターの扉が開いた瞬間、ビートが効いたミドルテンポの音楽が耳に飛び込んできた。

 目の前に置かれているのは、横幅約5m、高さが1メートルちょっとくらいの、お立ち台?

「いや、こりゃあボクシングとかで使うリングじゃねえか?」

「はーい。正解でーす。ここでは皆様にボクササイズを楽しんでいただきまーす」

 リングの上手から20歳そこそこのお姉さんが駆け足で登場した。ピンクのブラトップに黒のレギンスを履き、長く伸ばした金髪をポニーテールにしている。背はぼくより少し低いくらいだが、お腹の真ん中にくっきりと一本の線がはいった引き締まった体をしている。

「本日のインストラクターは、わたし、ヒロコが務めます。みなさん、ボクササイズってやったことありますか?」

「い、いや、ぼくはやったことないです。てっちゃんは?」

 慶次君はまるで異世界の生物と遭遇したようにおどおどしている。

「ぼくもないよ。何年か前に無料体験に行こうとしたけど、パパに止められたんだ」

「止められた?どうしてですか?」

「うん、パパは昔何度かやったことがあるみたいだったけど『ありゃあ3分間、1on1やり続けるようなもんだ』って言ってた」

 南監督と慶次君がげんなりしたような表情で

「1on1を3分間って……」

「考えただけで酸欠になってしまいそうですね」

「大丈夫ですよ。最初は軽い運動から始めて、3分間をたったの3ラウンド。脂肪燃焼効果はウォーキングの3倍以上。音楽に合わせて体を動かすのは、すっごく楽しいんですよ。さあ、誰からいきます?」

「し、脂肪を燃焼させても、ご飯を食べたらもとに戻るだけだよ」

まあ、燃焼させずにご飯を食べるよりは少しはましなんだろうけど……1人ずつ全員やらないといけないのか……正直言ってぼくもスタミナには全く自信がない。

「しょうがないわね。わたしからいくわ」

「え、亜紀ちゃん」

「わたしもボクササイズはやったことないけど、空手の10人組手みたいなもんでしょ。多分大丈夫だよ」

「いや、だいぶ違うと思うよ。そもそもボクササイズだったら、相手を殴っちゃいけないんじゃ……」

「え、だってリングの隅に大きいミットが置いてあるよ。ミット打ちとかもあるんじゃない?」

「あ、ほんとだ」

「ねえ、ヒロコさん、服装はこのままでいいの?」

「はーい。コスチュームはそのままでお願いしまーす。でも、リングを痛めちゃうから、靴だけはそちらのシューズに履き替えてくださいね」


「O.K.」

 亜紀ちゃんは用意されていたリングシューズに履き替えると、ひらりとリングに飛び乗った。ひざ丈のスカートがふわりとまくれ上がる。

「お、おおっ」

「あ、亜紀ちゃん、そんな派手な動きをしてしまうと……」

「大丈夫だよ。監督」

「いや、だってこの高さは……」

 確かにリングはぼくらの肩くらいの高さがあり、ちょうど目の高さに亜紀ちゃんのふくらはぎが見える。

「く、あいつら斜め下から撮影する気か?これを狙って……」

「ちょうど仕事から帰った視聴者が配信を見始める時間帯ですからね」

「視聴数を稼ぐためならなんでもありってことか」

「だから修、監督、大丈夫だって。ちょっとみんな耳を貸して」

 そうだ。亜紀ちゃんはスカートがまくれ上がってもいいように「オーバーパンツ」をはいているんだ。ぼくはマイクに拾われてしまわないように、小声でみんなに伝えた。

「オーバーパンツって?」

「ほら、プロレスのマスクマンが、試合用のマスクの上に被るもう1枚のマスクのことだよ。亜紀ちゃんはスカートがめくれてもいいように、最初から普通のパンツの上にオーバーパンツを履いていたんだ。だから見られても全然恥ずかしくないんだって」

「そうか、じゃあ安心だね」

「ええ、でもなんだかつまらなくなっちゃいましたね」

 南監督、なにを期待していたんですか……


 そんな4人の期待や心配をよそに、リング上ではボクササイズが続けられていた。

「そうそう。亜紀ちゃん、うまーい。リズム感がとってもいいですね。ダンスか何かやってたの?」

「ええ?フットサルと空手をちこょっとやってるだけですよ。でもヒロコさん、わたしなんだか楽しくなってきちゃった。そーれ」

「はーい。いいですね。リズムに合わせて、ワンツー、ワンツー。じゃあ次はミット打ちやってみようか」

 亜紀ちゃんは、ヒロコさんから手渡された少し大きめのグローブを、慣れた手つきで身に着けた。

「へえ、ボクシングのグローブって思ってたより柔らかいんですね」

「うん、ボクササイズ用だからね。殴っても拳を痛めないようにクッションがたくさん入っているの。はーい、じゃあまずはジャブから。そうそう体の力を抜いて、リラックス、リラックス」

 亜紀ちゃんはヒロコさんが構えるミットを、リズムに乗って軽快に叩きつづけた。南監督はすでに興味を無くしてしまったようで、突っ立ったまま携帯電話をいじっている。

 修は慶次君の大きな手をパンチングミットに見立てて、ウォーミングアップを始めている。

「く、慶次、おまえ、なんでそんなに手のひら硬えんだよ?」

「だって、フットサルのゴレイロって素手でシュート止めないといけないから……」


「じゃあ、次はストレートね。左足で踏み込んで腰をぐっと回転させて……そうそう、オグッ」

 リングの上からくぐもった悲鳴に続いて、重たい荷物を地面に下したときのような音が聞こえた。

「あ、亜紀ちゃん、どうした?大丈夫?」

 亜紀ちゃんのふくらはぎは相変わらず目の前にある。大丈夫。ちゃんと立っているみたいだ。じゃあ?慌ててリングに上がると、まるで平泳ぎをするように両手両足を広げたヒロコさんがうつぶせに倒れていた。

「ちょっと、誰か……ドクター!!」


 亜紀ちゃんと2人がかりでパンチングミットを外して、ヒロコさんを仰向けにした。抱き起そうとすると

「ああ、哲也君、ダメです。できるだけ頭を動かさないように。脈はありますか?胸やお腹は動いていますか?」

「うん。大丈夫。脈もあるし、呼吸もしているみたいだ」

「ヒロコさん、ごめん、ごめんねー」


 ぼくらが1階から上がってきたエレベーターの扉が開き、黒一色のユニフォームを着たおじさんに続いて、救急バッグと担架を持ったぼくらと同じ年頃のお兄さんが2人走ってきた。

 3人はリングに上がると、ヒロコさんをそっと担架に乗せてリングから降ろした。慶次君と修も下から手を伸ばして担架を支えた。

 黒いユニフォームのおじさんは、よく見るとさっきしりとりで対戦した総務課長だった。さっきは和服を着ていたのに、いつの間に着替えたんだ?ヘッドセットまで装着している。

総務課長は胸のポケットから真っ赤なカードを取り出すと亜紀ちゃんの目の前で高々と掲げた「退場。スタッフに対する暴力行為はどんな理由があっても認められない」


「ちょっと待って。わたし、暴力なんて振るってないよ。ヒロコさんと楽しくボクササイズやってただけだもん」

 亜紀ちゃんは今にも泣きだしそうだったが、総務課長は一歩も引かない。

「何を言っているんだ?ボクササイズで人が倒れるわけないだろ」

 見かねた南監督が颯爽とリングに上がってきた。

「待ってください。亜紀ちゃんは、むやみに人を傷つけるような娘ではありません。リングの上は、当然撮影して、動画を配信しているんでしょう?VARを要求します」

 そうか、問題は「退場に該当するようなファールの有無」だから、VARの対象となるはずだ。

「ふん、まあしょうがない。誰か、タブレット持ってきて!」

 総務課長がマイクに向かって指示をした。


「なんだ、この映像は?太ももばっかり映ってるじゃないか?」

「いや、『主宰がこの高さがいいんだ』って仰ってたから……『見えるか見えないか、でも見えちゃダメだからならな」って」

「ほかの角度からの映像はないのか?もっと胸元をアップに、じゃなくて、上半身を、いや、パンチが当たった瞬間を……」

「あ、この角度がいいっすね」

 配信された動画をスローモーションで見ると、亜紀ちゃんは左足を思いきり踏み込んで、腰を捻り……

「ああ、上半身に全く力が入っていませんね。こうすると左足にかけた体重がスムーズに拳に伝わって……」

「わ、わたし、ヒロコさんが力を抜けって言ったから……」

 う、亜紀ちゃんが右拳を前に突き出すと、自然に内側にねじ込まれて

「コークスクリューだ」

 修が思わずつぶやいた。

 ヒロコさんが持っていたミットは、亜紀ちゃんの拳が当たった箇所を中心に60度ほど折れ曲がり、ミットを構えた腕ごと、顔面にヒットしていた。ヒロコさんは衝撃を吸収しきれずに、たたらを踏んでロープにぶつかり、バウンドして顔面からマットに叩きつけられた。

「ああ、受け身も取れていない。3回も連続して、前後から脳を揺さぶられていますね。脳震盪を起こしてもおかしくない。しかし、亜紀ちゃんのグローブはヒロコさんの身体には一切触れていない」

 そうだ。フットサルでも多少激しくいったとしても、足がボールにしか当たっていなければファウルを取られることはない。よし、不慮の事故でレフェリーストップ。無効試合になったとしても、ボクササイズはクリアーだな。

「やむを得ん。VARの結果、レッドカードは取り消し。選手交代だ」

 は、選手交代?

「ほかにインストラクターは誰が来ている?おお、そうかあの2人か。よし、すぐこちらに上がってもらってくれ。ああ?いや、2人ともだ」

 ま、まさかあの2人って……


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