7、月の嘆き
霧の中へと消えてしまった少女に、銀髪の男は深く息を吐いた。初めて会った時は、黒龍に殺気を向けていたが。今は強い困惑を浮かべていた。
「……クロ。これは、どういうことだ?」
この街へと戻る前から、小さな違和感を見つけていた。ただそれが、どういう結末に繋がるのかを。ルアルは予想できなかった。
アーリャは人見知りだ。自分から誰かに話しかけることはあまりない。なのに彼女は、初対面であるはずのクロに心を開いていた。自分を助けてくれた精霊だから、特別なのだろうか? そう思ってしまった過去の己を、ルアルは殴りたくなった。
『クロ、またあとで』
そう告げたアーリャに向けた、クロの表情。あれは、死を確信してる者の顔だった。なにも分かってないシズを引っ張り、外へと出て行ったアーリャを追いかけた。フードを深く被ってる少女はまだ、本調子じゃない。だからすぐに、追い付けると思ったのに……。
アーリャの幻術によって、見失ってしまった。
なにかを抱えてるアーリャが行く場所は、一つだけ。ギルドの屋上に行ったんだと、慌ててギルドへと戻ったら。
――まるで、化け物のような姿になった。
なにが起きたのか、まったく分からない。アーリャを刺した冒険者が、塵となって消えた理由も不明だった。
「妖精って、なんだ?」
あれは絵本に出てくる空想の生き物だろ? なぁ、クロ。お前は、なにを知ってるんだ? どうしてそんなにも、悲痛な顔をする?
「……教えて、くれ」
どうすればお前らを、助けられるんだ。
✡ ✡ ✡
「お前ら? 君たちが助けたいのは、アーリャだけだろ?」
ずっと一緒にいた仲間を、彼らは見捨てられない。そういう人たちだと、この数日間で知った。
だから、手を伸ばそうとするのは分かる。
でもその優しさは、僕ではなくアーリャに向けるべきだ。
「僕はまだ、フェアリーに入ってない」
「お前はもう俺たちの仲間だ。手続きは関係ない」
なぜそんなことを言う、と睨まれてしまった。
……僕、ちょっとルアルのこと、理解できないかも。もしここにアグルがいたら「へぇ、こういうやつなのか。おもしれぇじゃん」って言うかもしれないが……。
長く生きすぎた僕には、難しい。
自分たちとは違うものを、なぜ簡単に受け入れる? カムラのような惚れたであれば分かる。愛というのは、種族すらも超えるからだ。アーリャは長い時間をかけて、仲間になったけど。
君たちに人間にとって、化け物は排除すべきものだろ?
「……クロ?」
不安げなルアルに、小さく息を吐いた。
「呪いの開花。それは呪いに適応してしまった生き物が起こす、闇への変化だよ。人に紛れ込んだ妖精たちを殺すための、生きた魔術になるんだ。だからアーリャは、自身の寿命を削ることで。人として終わろうした」
とても痛くて、苦しかったはずなのに。彼女は、心から笑ってた。必死に生きていた。
眩い輝きが堕ちてしまったことを、僕は嘆こう。
最後の願いを、守ってあげられなかった。
「魔獣が凶暴化するのも、闇が原因だ。闇は、世界を無へと還すもの。精霊たちとの繋がりが強い魔獣は、その存在からして強く反発してしまうんだ」
「人間は、違うのか?」
「もし反発するとしたら、人と精霊の子供だけだね。生まれる確率はゼロに近いけど。魔術と化してしまったアーリャは、もう生き物とは呼べない。妖精への憎しみと狂気だけを振りまく……呪いになった。でも、肉体の限界が近いから。夜明け前には死んでしまう」
アーリャを止めようと泣き叫んでたシズに、視線を向けた。
「僕は黒龍の生まれ変わりとして、世界すらも殺してしまう呪いを抑え込む。ここから一歩も、動けなくなる。このままアーリャを見守るか、それとも人として終わらせるか。それは、君たちに任せるよ」
古龍の掟に従い、僕は一よりも十を選ぶ。生命の母体である星が死んでしまったら。もうなにも、生きれないからだ。
「僕は、本当になにもできない」
「……キュウ」
服から出てきたサクラを抱えて、この子とシズたちに加護を与えた。
「愛しい子供たち。罪を犯した妖精の子らよ。どうか、悔いなき選択をしてほしい」
シズたちが去ったことで、屋上にいるのは僕とサクラだけになった。不安がるサクラに「大丈夫だよ」と優しく声をかけて。冷たい月へと視線を向けた。
霧によって腐敗した建物が、崩れ落ちる音。凶暴化した魔獣の声と、人々の叫びが鼓膜へと届く。
すべてを狂わせ、無へと還す呪いを。ゆっくりと反転させた。
この世界まで、殺させはしない。
『…………黒龍?』
ふと繋がった意識。けれどすぐに彼は、眠ってしまった。どうやらアグナが、この星の命を繋いでいたようだ。
親友のためにも、頑張って仕事しないとだね。
「……カムラ」
もしもこの街に、君がいるなら。どうか僕を、許さないで。君を助けられない僕は――伴侶失格だ。
「僕を、愛さないで……」
✡ ✡ ✡
凶暴化した魔獣の前足を切り裂いて、そのまま前へと駆け抜けた。後ろで怒り狂った声が聞こえるが、構ってる暇がない。
「ルアル……」
「加護というのは、すごいな。あの呪いを無効にしてる」
遅れることなく後ろを走ってるシズに、ルアルはわざと加護の話をした。リーダーとして、仲間がやってしまった責任を取る。そのことを否定する気はないが、シズだけに背負わない。
視力を強化してる目で、薄い青色が混ざった霧の中を見通す。クロの加護を得たからか、はっきりとものの形を把握できた。
魔獣と、動き出した死体を避け。狂乱しながら殺し合ってる住人たちに、顔をしかめた。体が腐っていく痛みと、死への恐怖で。もう、正常な判断すらできないようだった。
「……シズ」
助けに入ろうとした彼女を止める。
手遅れだと分かってるだろ。
シズの手を強く握って、アーリャを探した。
「俺たちのやるべきことは、あいつの願いを叶えてやることだ。ホムンクルスはとっくの昔に廃止された技術で、俺たちの知識は小説で読んだ程度。あいつが、どんだけ生きたかは知らないが」
――せめて人として、終わらせてやりたい。
痛いほどに掴まれた手から、ルアルの気持ちを知る。だからやっぱり、彼には……。
「ルアル、あなたは一般人の避難を……」
「断る。俺も、フェアリーの一員だ。仲間が苦しんでるのに、背を向けることはできない」
「……でも、すごく辛そうだよ」
「それはお前もだろ」
命を預け合うほどに、絆を結んだ仲間だった。女の子同士で楽しそうにしてる姿を何度も見てきた。
『ルアルは、シズのことが好きなんでしょ?』
………。
思い切り自分の顔を殴った。
「えっ、ルアル!?」
「気にするな。……気合いを入れ直した」
――妖精。絵本の中で登場する、人間が作り上げた幻想。
クロはシズを、それに近い人間だと言っていた。
人間は人間だ。精霊や白龍たちのように、魔法を使うことができない。必ず言の葉を紡いで、願いの歌を乞わなくてはいけない。魔力で身体能力を上げて、襲ってきた死体を切り裂いた。
アンデッド。存在そのものが精霊への冒涜となり、聖職者がクソみたいになる原因。おそらく今も、あいつらの口からは罵倒が流れてるはずだ。ありがたい祈りの言葉はどこに消えた。
『罪を犯した妖精の子らよ』
「シズ。妖精の罪って、なんだと思う?」
「……罪は罪だよ。きっとすごく、悪いことをしたんだ。みんなが、苦しまなきゃいけないくらい……」
誰も知らない、妖精たちのこと。クロがあの黒龍で、アーリャが呪いとなり。この街が滅びそうになってる。
あまりにも現実味がない、馬鹿げた話だった。
(なのに、どうしても嘘だと思えない)
目に映るすべてが、たった一夜で消える悪い夢だったらいいのに、と。本気でそう思ってしまう。願いたくなる。
「……アーリャ」
ようやく見つけた彼女は、赤いものを握っていた。足元にはギルドマスターが倒れていて。アーリャが、人間の心臓に食い付いた。死にかけのホムンクルスが行う、生命維持の手段。
もう、時間がなかった。
「あ、ルアルだー。好き、シズも好き。みんな大好き。なのにみんな、彼を裏切った」
「アーリャ! お願いだからもう止めて!」
彼とは、誰だ? どんな裏切りをされたんだ? 自分に近付こうとしたシズを拒むように、強い風が吹いた。
「殺すよ、殺す。一人の狂気がみんなを狂わせた。みんなが許しても、妖精は消えなきゃいけない。じゃないと人が、潰される」
殺意を向けてきたアーリャに、剣を向ける。月明かりに反射する光が、まるで涙のようだった。