10、雨の日の不審者
白い湯気に包まれ、のんびりとした時間に全身の力を抜いた。肩のところで揺れるお湯の匂いが、余分なものを緩めていく。
そんな感じがするから、温泉というものが大好きだった。
「……うん?」
ふと、予感のようなものが生まれる。あと少しで、なにかが起こる気がして。ゆっくりと空を見上げた瞬間、ドッボーン!! と。温泉の中に見知った影が落ちた。
頭からお湯を被って、ブルッと顔を振った。
「こんにちは、アグナ」
「おう! めっちゃ久しぶりだな黒龍!」
「たった四日だというのに、あなたは大袈裟ですね。もう少し、古龍としての振る舞いを身に付けるべきでは?」
人間に化けたアグナと違って、温泉を囲う岩場に下りたバレンティアは、少しばかり苛立ってるようだった。
「大丈夫でしたか、黒龍。この馬鹿が飛び込むもんだから、怪我をしてないか不安です」
「あ? 馬鹿じゃねぇし! ていうか、俺も人化したんだから大丈夫だろ。なぁ、黒龍」
肩のところで切り揃えられた青いおかっぱから、ぽとぽと水滴を落としてるアグナに、「僕よりアグナの方が危ないんじゃない?」と返した。
「空中での人化は、耐久力が低くなるから骨が折れやすくなるよ」
「……それはあなたもでしょうが」
呆れた口調で僕を見るバレンティアに、こてんと首を傾げる。そしたら深いため息をつかれた。
「まったく、黒龍というのは全員そんな感じなのでしょうか? それとも、あなただけが特別なのですかね……」
「俺はこいつだけだと思うぜ!」
バチンと、アグナに背中を叩かれた。でもまったく痛くない。嘆かわしいと呟いた白龍は、人化しないのかな?
「にしてもいいな、温泉! 次の世界にもあってほしいぜ!」
「大地と水があるなら存在すると思いますがね」
「なぁ、黒龍。次はどこ行く?」
「んー、南にしようかな」
なんとなく、行かなきゃいけない気がするのはそっちだった。
世界から世界へと渡るための狭間。そこに道というものはなく、虚空に浮かんでいる大樹の幹へと触れることで、僕らはそこに存在する世界へと入る。
「俺、枯れた木はやだぜ」
「こら、古龍であるならば好き嫌いは止めなさい」
「嫌なものは嫌ですー。滅ぶ世界を蘇生させるのはほんと面倒。やるならバレンティアたちだけでやってよ」
「ほう? ならばあなたは、精霊を見捨てると?」
「……白龍、てめぇ」
アグナは人間よりも精霊が大好きな龍だから、それを言われると折れるしかないんだよね。
恨めしげな目を向けられ、バレンティアはにこやかに微笑んだ。とても、楽しかった記憶だ。
あの日から、千年以上の時が流れた。この世界へと渡った二百年後に、カムラと出会って。彼を失って。僕も、殺されてしまった。
カムラ。僕の、大切な番。君はまだ、生まれてないのかな? 生まれてないといいなぁ。
もしアーリャたちの街にいて、死んでしまってたら。
――僕は、僕を許せないよ。
強い雨だった。魔力で薄い膜を作ることで濡れることを防ぐけど、寒さだけはどうにもできない。「キュウ……」とサクラが鳴いた。
森の妖精と呼ばれることが多い魔獣――フェリシア。その赤ん坊であるサクラは、まだ寒さに弱い。着物の中で震えてるサクラをしっかりと抱えて、山の中を歩いた。
シズたちと別れたあと、小さな村を見つけて一泊した僕らは。バティリアン王国の兵士に襲われた。
どうも姉君が、僕のことを悪魔として他の国々に伝えたらしい。イタズラではすまないほどの悪意だった。徹底的に僕を潰す気なんだろうね。
僕が誰なのかを知らないまま、人間を相手にしてると思ってる彼らには同情するよ。
べとべとになってる地面を凍らせて、滑らないように進みながら、今日の野営地を探した。サクラのためにも、風を防げる場所がほしい。あと、体を洗いたいから。水がある洞窟、もしくは――。
「……温泉ってないのかな」
雨が降ってるけど、すごく入りたい。昔みたいにのんびりとしたい気持ちが湧き出て、精霊たちに聞こうとした時だった。
「えっ?」
人の声を聞いた気がして、横にある急斜面へと顔を向けた瞬間、誰かが転がり落ちてきた。
「……ルアル?」
「おや、弟を知ってるのかい? なら話は早い。私はアレク。ルアルの五つ上の兄だ。ピンク色のフェリシアを連れた古龍よ。どうか私をお供にしてくれないか?」
僕の目の前に落ちた男は、驚くほどによく似ていた。声が彼よりも高くて、髪の毛が三つ編みになってなかったら。ルアルと間違えていたかもしれない。
にこりと笑う男に、背筋がゾワっとした。
「……話が早いっていうのは、どういうことかな? 僕らは初対面だと思うんだけど」
「うん、そうだとも。初めまして、こんにちは。今日はとてもいい雨だね。じゃあさっさと行こうかお姫様」
「いや、あの……」
「アレクだよ、アレク。ルアルの兄さ。ルアルは私の弟なんだ。だから私はアレクだよ?」
楽しそうな笑顔を貼り付けたような、そんな異質さを感じて緊張する。この人、かなり怖いんだけど……。「キュ……」小さく震えたサクラに、守らなくてはという意識が出る。ルアルの兄だというのは信じよう。彼はなにも嘘を口にしてない。
「……どこに行くの?」
「うん? そりゃあ、安全な場所に決まってるだろ? ルアルは違うけど、私はあれだからね。あ、そうだ」
今度はなにを言う気だ? と構えたら。「温泉好き?」と聞かれた。