【クラティウス・ロイゼル・ブラートウルストの覚醒(前)】
可愛い息子、クラティ。私の希望の、クラティ。私達の大切な土地、ブルーメンは隣国ゲンヴァルデに奪われたの。ゲンヴァルデの人間はみんな悪魔よ。
資料には元からゲンヴァルデの領土と書いてあるの?それはね、貴方の曽祖父様が騙されたの。狡猾な手段で、不当な国境を認めさせられてしまったのよ。証拠もあるわ。古地図を見てご覧なさい、ゲンヴァルデの名前は無いでしょう?それにニュルンベルスとブルーメンは同じ輝石を産出する鉱山があるのよ。温泉だって同じなのよ。
だから貴方のお父様とニュルンベルスのお祖父様達が取り返してくれようとしたのに、あのブルーメンの幽鬼がそれを潰したの。その上、ニュルンベルスの土地を奪っていったの。
そうね、貴方が生まれる前の地図と、生まれた後の地図は国境が違っているでしょう。それがあの幽鬼に奪われたニュルンベルスの土地。私達の土地であるブルーメンを元に戻そうとしただけなのに、強欲で非情な幽鬼は多くのブラートウルストの勇敢なる騎士と兵を卑怯な作戦を使って恐怖に陥れた上で、貴方のお父様やお祖父様をも人質にとって強請りとった。
クラティはブラートウルストの王様になるのよ。そしてブルーメンの幽鬼から全てを取り戻してね。
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良いか、クラティウス。目に見えるものが全てでは無いのだ。お前の世界は大きく広い。年老いた儂と違ってお前は幾らでも学ぶ事が出来る。ああ、そうだな、そこまでの年寄りでは無いかも知れん。しかしな、少々疲れてしまってな。いつ倒れるかわからぬからな。
今になっても自分がどう間違っていたのかよくわからんのだ。儂の父も、祖父も、教師も、色々な事を教えてくれたが、未だにわからぬ事が多くてな。無論、自分でも学んだが、ブラートウルストの前例を紐解いても、全く問題は無かったのだ。
唯な、あの者に対しての評価は間違っていたのだろうな。王として人物の評価を間違えるのは大変な痛手に繋がるからな。クラティウスは良く判断力を磨き、己の気持ちを良く考えると良い。そして、他者の言葉を鵜呑みにしてはならぬ。かといって、提言や諫言を聞かないのも悪い。儂も未だに難しいと感じておるのだがな。
幸いな事に、我が国には政治に優秀な臣下が多い故、彼らの支えがあれば暫くは安定した治世を保つ事が出来ると思うがな、次代を支える者の育成が必要だ。そこで其方がどれだけ信のおける側近を手に入れられるかが重要になって来るのだ。
うむ、そうか。リアンナは未だブルーメンの事を。良いか、クラティウス。ゲンヴァルデに手を出してはならぬ。あそこには其方と繋がりのある者がいる。何時迄も拘っていては誰も幸せにならんのだ。名前か?それはいつの日かわかる事だ。儂らの蟠りを其方が解きほぐしてくれるやも知れぬ。だがそれは今では無い。今となって、儂が何故あの者を遠ざけ認めてやらなかった理由を理解出来るが、既に体勢が決まってしまった。儂があの者に掛けてやるべきだった言葉は、もう遅いのだ。
わからぬか。そうだな、儂の言葉は独り言の様なものよ。あの時してやらなんだ事を、掛けてやれなかった言葉を、認めてやれなかった事を、自分の中で整理しているだけに過ぎぬのだ。それにな、あの時に戻っても儂の言動は変わらないだろうな。儂のブラートウルストではあの者は異端で認められぬ者であったし、其方の母親である我が娘リアンナは我が国の理想の淑女であるからな。
唯な、其方の治世には其方の形があって良いのだ。嘗てのブラートウルストをなぞる必要も無い。気になる事があったら突き詰めていくのも良いだろう。其方にはまだまだ長い時間がある。王座に着いてからでは多くの柵で動けない事も多くなるだろう。自由に出来る有限な時間を大切にするが良い。
良いか、儂はリアンナのいうブルーメンの幽鬼については間違っていたと感じている。感じているが、それをどうするつもりも無い。全ては終わっているからだ。儂も王妃も、あれに関わる術を持たぬのだ。
其方は其方の目で、耳で、頭で、言葉で、答えを見つけていくのだ。
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クラティウスはプラチナブロンドの少女から目を離せないでいた。リーファ・セーリア・ブルーメンと名乗ったその少女は、勝気なガーネット色の瞳を手元の資料に向け、持参の用紙に色々と書き込んでいる。その隣には同じ髪色と瞳の父親が座っていて、場違いな娘を退席させる事も無く貼り付けたような微笑みを絶やさない。
ブラートウルストと隣国ゲンヴァルデの境にある鉱山について、現在の取り分と坑夫の割合についてという事で、ブラートウルスト王とゲンヴァルデのマクシミリアン王子の会議に参加させられたクラティウスは、外交なら担当大臣にさせれば良いのにと思い、その旨を祖父である王に提言したが、10歳ともなったら他国との付き合いもきちんと把握しておくべきだと返されてこの席にいる。
会議が始まる前までは、未だ10歳の自分が何故参加しなくてはならないのかと不満を持っていたのだが、会議室に入ってみれば相手方に自分よりも年下の姉弟が当然の様な顔をして座っていた。
外交担当の第二王子マクシミリアンと鉱山の地を収める第五王子アルフレッド、アルフレッドの娘のリーファと息子のリーフ。ゲンヴァルデは常識知らずなのか?と思ったクラティウスに対して、この場にいるのが当然といった様子を見せる姉弟。しかも、リーファは少年の様な服装をしている。一国の王に拝謁するのに、きちんとした正装をしないとはどう言う事だ。
「ブルーメンの子らは幾つになるのだ」
「お答えします、陛下。私、リーファ・セリーア・ブルーメンは7歳になりました」
「お答えします、陛下。私、リーフ・フォルコン・ブルーメンは6歳でございます」
「ふむ、しっかりとした良い子らよ。後ほど儂から贈り物をしよう。宜しいかな、ゲンヴァルデの?」
「ありがとうございます」
「「ありがとうございます、陛下」」
6歳のリーフは未だ許せる。10歳の自分が面倒だと感じた会議に堂々と出席しているのは、親であるブルーメン伯に連れて来られたからで、ゲンヴァルデでは後継としての教育を早期に開始するのだろうと考えられるから。けれど、女のリーファが同席するなど有り得ない。しかも、何を理解したつもりになっているのか知らないが、生意気にも分かった様な顔でメモまで取っている。
ぽん、と軽く膝を叩かれ、ハッとして祖父を見上げれば、小さく微笑んで頷いた。どうやらこの状況を許されている様だ。ついつい苛々してしまったと頬を撫でる。
リーファからリーフに目を向ければ、同じ様に資料を見ながら時々後ろに立っている護衛騎士と小声で話をしている。王を前に私語などとも思うが、お祖父様が態度を問わないというのであれば、自分が何かを言う訳にもいかない。
初めて見たけれど、本当に嫌な親子だ。
母様のいった通りだ。マクシミリアンは何やらふわふわとした物言いばかりするし、アルフレッドは王子とはいえ今はただの辺境伯でしか無いのに、場違いにも娘と幼い息子を連れて来ている。更に苛々する事に、リーフの髪は母様と同じライラック色。いや、あれは唯の薄紫だ。母様の美しい髪と同じ色のはずがないじゃないか。リーファに至っては問題外。
けれど、本当にこの男が母様の言うブルーメンの幽鬼なんだろうか。母様や騎士達の話によれば、ブルーメン辺境伯であるブルーメンの幽鬼は軽鎧を身に纏い、馬上にあれば己の背丈よりも大きな槍を振り回し、地上に降りればバスタードソードを自在に操り、敵に対して容赦無く急所ばかりを狙い、殺しても死なず血塗れになっては狂った様に笑い、領土を蹂躙していくらしいのだけれど。
どう見ても、黙って微笑んでいるだけで何を考えているか分からない得体の知れなさはあるものの、物腰の柔らかな子供に甘すぎる父親にしか見えない。
ふと視線が合ってしまい、慌てて逸らそうとしたその時、アルフレッドが目を眇めた。口元は笑みの形のまま、視線だけが観察する様にクラティスの様子を伺っている。時間としては数秒も無かったそれが終わった時、クラティスは自分が息を殺していた事に気がついた。雰囲気に呑まれた様な、よく分からない不安を感じた次の瞬間、視線を落としたアルフレッドがふんわりと優しく微笑んだのが見えた。
あれは一体?
何故笑ったのか、本当に笑ったのか。クラティウスの疑問が解けるのは数年経ってからになる。
「ではあれは辺境伯では無かったのですか?」
「あれと言う表現は宜しくありません。彼の方は、アルフレッド・フォルコン・ゲンヴァルデ第五王子殿下であり、ブルーメン辺境伯の夫君でいらっしゃいます」
「は?では何か?ブルーメンの幽鬼は女なのか⁉︎」
「その呼び方も表に出すものではありません」
「しかし皆が言っておるぞ!父上のニュルンベルスを卑劣な手口で奪った残虐な領主と」
クラティウスの教育係は困った顔で首を横に振った。
「私の口からは多くをお伝えする訳にはいきません。お父上、サフィニア公爵なら或いは」
「なら父上に聞く!」
「お待ち下さい、殿下。サフィニア公爵は大変難しいお立場です。どうぞ、よくお考えの上、お話下さい」
「分かった!」
ブルーメンの幽鬼と聞いたサフィニアは小さくため息をついて視線を泳がせたのち、小さく笑ってクラティウスの肩に手を置く。
「国境を見せてあげよう。ニュルンベルス領に向かう許可を陛下にいただくから、母様に許可を貰ってくると良い」
クラティウスの話聞いたリアンナは絶対に行かせないと言い張ったが、王と王妃の口添えもあり、クラティウスとサフィニアはニュルンベルス領を訪れた。勿論、クラティウスにとって父方の領地であるニュルンベルスへの訪問は、過去にも複数回行っている。にも関わらず、ブルーメンからの訪問者があってから、リアンナの言動は不安定になり、それに関わる話が出る度ヒステリーを起こす。
クラティウスとしては、母の心が穏やかになる方法を見つけたいとも思っているのだ。
領主館で祖父母のニュルンベルス侯爵夫婦と、叔父のシュトレンに会い、クラティウスに笑顔が増えた。最近特に不安定な母から離れ、辺境という余計な情報の入って来ない場所は開放感があって気分も良い。
そこから途中で宿泊しながら三日掛けて、国境に着いた。国を繋げる街道にはどちら側にも守備兵の為の建物があり、国境を挟んで直ぐ側にも関わらず両者は声を交わす事も無い。街道の両側から、高さ1メートル程のレンガの壁が延びている。子供でも軽く超えられるけれど、一瞬の足止めにはなる高さ。これのせいで母上が苦しんでいる、クラティウスは軽く舌打ちをした。
「クラティ、見えるかな。ブルーメンの奥の方に綺麗な緑色が並んでいるだろう。大きな畑が広がっているのだよ」
「畑が?国境近くに作ったら戦争になった時に」
「そうだな。戦争をしないという前提で広げているのだろうね。ブルーメン側からは戦う気が無いという表明でもあるのだろうな」
「ブルーメンの幽鬼は戦狂だって」
「それは違う。あれは、唯々己を高める為に邁進していける者だったよ。たった一人でも堂々として、人の気持ちを理解せず、正しい事を行える、ある意味化け物の様な。けれどそれは、あれを理解しようとしなかった私達もいけなかったのだと思う」
「父様は幽鬼を知っているのですか?」
「幽鬼、ではなく、ブルーメン卿だ。よく知っているとも言えるし、全然知らなかったとも言える。私からあれとの縁を切ったのだし、あの時以来、私はあれを見ていない」
「あの時とは?」
「ブルーメンとの戦いの時だな。ブラートウルストからブルーメンに侵攻した時、戦場であれを見たのが最後だ。ブルーメンからの交渉事に卿自身が出て来る事は無いし、伴侶である第五王子が接触を許さないからな」
「女の癖に辺境伯なのですね」
「ブラートウルストならそう考えるのが当然だが、ゲンヴァルデは違う。優秀な女性はその能力を発揮出来るべきだと考えているんだ。勿論、辺境伯は規格外の強さを持っているけれどね、政治も戦闘も。流石にゲンヴァルデでも辺境伯以外の女性で、寡婦以外の爵位持ちは居ない」
「どんな人物なんですか?」
「詳しくはシュトレンから聞くと良い。あいつは私よりも考え方が柔軟だし、唯一ニュルンベルスの人間であれと付き合いがある。分かっていると思うが、シュトレンから見た辺境伯はシュトレンの見解が入っているからな」
「はい、父上」
広がる緑の絨毯。遠くに見える鉱山。時々こちらに視線を向けるブルーメンの警備兵は、視線こそ合わせないけれど、敵意を感じるどころか微笑みを湛えている。彼らから見る自分と父はどういうものなのだろう。クラティウスは母の言葉を思い出していた。ゲンヴァルデの人間は全て悪魔だというけれど、悪魔は畑を作るのだろうか。
「ブルーメン辺境伯かあ。兄さんから私から話を聞いても良いって言われたのか?」
シュトレン・ニュルンベルスは困った様な顔で頭に手をやった。常にニュルンベルス領にいて滅多に会えないこの叔父は、城にいる周囲の者達とかなり毛色が違う。田舎に住んでいるせいなのか、言動も粗雑な所があるし、配偶者が表に出る様な真似をしても咎める周囲から庇う始末。父方の祖父であるニュルンベルス侯爵は、ブルーメン攻略戦で敵の卑劣な罠による捕虜という立場に立たされた所為で当主の座は譲っていないものの、実質領地を完全に管理している叔父には強く意見しないらしい。
あれもこれもブルーメンだ。
「叔父上から聞く様にと言われました」
「そうか、なら、俺が知っている事実を話す。勿論、俺が事実だと思っているだけで、実際は違う可能性もある。最後まで黙って聞いてくれ」
叔父の言葉にクラティウスが小さく頷く。
「ブルーメン伯は11年前にはブラートウルストの第一王女で、エレミア・テューリンガ・ブラートウルストと名乗っていた」
ブルーメンの幽鬼がゲンヴァルデに騎士爵を与えられた平民だったとしか聞いていなかったクラティウスが小さく呻くと、シュトレンが使用人が持って来た紅茶とクッキーをテーブルに載せた。紅茶を一気飲みして喉を潤し、驚きつつも約束通り黙っているクラティウスに優しく微笑む。
「ブルーメン伯がブラートウルストの王女だった事を知っている者達は口外しないように通達されているし、皆話題に出さないからクラティが知らなくても当然だ。
彼の人と兄さんは3歳で婚約をした。鉱山資源の多いこの地方は先代王が不可侵協定を結ぶまで、双方からの小競り合いが良く起きていたらしい。その協定をより強固にする為の婚約だな。不可侵協定といっても、得る物が多ければ破られる事もある。だがその地に王女がいたら、他の国からも強く糾弾されるから侵攻出来なくなる。
物心ついた時には兄さんは王都のタウンハウスで、俺はこっちで生活していたから、王都での二人の関係はよく知らない。ただ、彼の人は結構な頻度でニュルンベルスに来訪されて、現状把握や地域の特性を学び、女性が前に出るのを嫌う父さんに邪険にされながらも、ニュルンベルスの為になる施策を色々と提案してた。彼の人がこっちにいる時は、俺も一緒に勉強したり鍛錬したよ。
兄さん達がヴルスト学園に入学してから訪問頻度が減ったけど、俺の為に新しい本や武器を持って来てくれるし、義姉になるのを楽しみにしてたんだよ。だから俺が入学した時、彼の人が周囲から悪く言われていて兄さんに理由を聞いたんだが『あれは女として最悪だ』『お前もおかしいと思われたくなかったらあれに近付くな』の二つで話を切られたよ」
女は男の領分に手も口も出さない。それがブラートウルストの美徳だ。だから叔父が文武両道だと言う幽鬼が最悪でおかしいと評されていても当然だ。
「入学してから全ての教養課程で首席、13歳で18歳の最上級生を抑えて武術大会で5年連続優勝、そんな彼の人の実績を周りは『王女だから学園から特別な配慮をされている』『王女だから本気で戦えない』と言っていたけれど、国が優秀な人材を育てる為に創設した学園が、地位で配慮される事は無いとされているし、武術大会は下位貴族でも平民でも上位の者よりも優れた結果を出す事によって卒業後に良い仕事が出来る。勿論、高位貴族の子息なら、上に立って当然とされるから必死になる。本当に配慮や手加減があったのかはわからないがな」
シュトレンがふっと笑いを漏らし懐かしいと呟いて微笑む。
「リアンナ殿下から陛下に、彼の人が学園で専横を極め学生達を苦しめたと訴えがあり、それで彼の人は地位を剥奪され拘束されかけたのだが、近衛騎士の包囲網を突破して逃亡した。その後、ゲンヴァルデに逃れたが同乗した商人の馬車が魔獣に襲撃され死亡したとされた」
「死んで無かったのですね」
「ああ。再会の場があのブルーメンの戦いだった。ブラートウルスト軍には多くの学園卒業生と在学生がいた。当時ブルーメンには領主はおらず、辺境軍の師団長もたたき上げの平民ばかり。魔獣の襲撃も頻発していて、中央から派遣されていたのは実戦経験少ない第五王子だったから、容易く勝てると思われた。だから多くの貴族子息が経験と実績を積む為に参加していたんだが、彼の人は学生相手には常に勝利、教官相手でも引き分けだった」
死んでいた筈の無敗の元王女。それが目の前にいる。
「最初は分からなかったよ。突撃して来た女性騎士に一斉射撃を行ったら、それが彼の人に変わってそのまま突撃を受け、一気に数人が薙ぎ倒された。こちらの将校が混乱に陥って、後は分かるだろ」
混乱した貴族子息達、一斉射撃を受けても掻い潜って突撃をして来る死んだ筈の元王女。ブルーメンの幽鬼。
「父上と母上が結婚したから恨んでいたのか」
「さあね、俺には『悲しかっただけ』だって言ってたけどな。俺が学園に入学した時には彼の人は寮に住んでほぼ一人で行動していた。彼の人の婚約者である兄さんは、リアンナ殿下の希望で一緒に登校して休み時間を一緒に過ごし、王家の馬車で一緒に下校してたよ。おかしいだろ」
それはおかしい。幾ら相手が王女で将来の義妹になるとしても、婚約者がいる者に対してとるべき態度ではない。顔を顰めるクラティウスに、苦笑いしながら婚約白紙撤回の顛末を話すシュトレン。
「彼の人はニュルンベルス辺境伯夫人になる為に必要だと思う事を全て身に付けたけれど、ブラートウルストの淑女としては要らない能力だった。ゲンヴァルデはそれを受け入れた。淑女失格の彼の人を兄さんが捨てた直後にリアンナ殿下と婚約した。それだけだ」
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シュトレンから話を聞いたクラティウスだが、幼い時より母親に聞かされてた言葉から解き放たれる事は無かった。結局、ブルーメンの幽鬼に魅力が無くて、両親が結ばれた。ブルーメンの幽鬼は己の思い込みで非常識な行動を繰り返し、ブラートウルストの居場所を失った。
恨んでいないと叔父に言ったそうだけれど、現実はニュルンベルスの領地を奪っている。確かに不可侵協定があるにも拘らず侵攻したブラートウルストに非があるけれど、国を裏切り追手が掛かっているのに出頭せず、騙し打ちをした。婚約者に相手にされていなかったのなら、気に入ってもらえる様な言動をするべきだったのではないか。
クラティウスの周囲には、リアンナとサフィニアの仲を肯定する者しかいない。ニュルンベルス主導でのブルーメン侵攻も敗北はしたものの正当的な事だったとされている。実際に見たブルーメンの幽鬼の娘も異常だった。
ニュルンベルスの土地は取り戻さねばならない。祖父や父を侮辱されたままにしてはおけない。父は一人娘で王女である母の配偶者であるから、ニュルンベルス辺境伯の後継者にはならない。明るく屈託の無い叔父の事は好きだが、叔父が辺境伯となれば幽鬼に取られた土地を取り返そうとはしないだろう。
嘗てブラートウルストはブルーメンをニュルンベルスに併合しようとした。それを阻んだブルーメンはニュルンベルスの4分の1程の土地を奪った。そして10年。奴らはその代償を払わねばならない。本来であればブラートウルストに齎された富を奪っているのだから、ブルーメンの全てを返却すべきだ。それが次期王であるクラティウスに対して望まれている思いなのだ。
「たった1人の戦士が集団戦を制する事は有りません」
壮年のケーニヒ近衛騎士団長がクラティウスの問いに答えた。ケーニヒはブルーメンの戦いには参加していない。近衛騎士団長として、王都で王を守るのが彼の仕事であり、あるべき姿だ。
やはり、と頷くクラティウスに、ですが、と言葉を続ける。
「たった1人の戦士が集団戦の流れを変える事はあります」
「どういう事だ?どちらも同じ意味では無いのか?」
「全く違います。幾ら一騎当千と呼ばれる英雄がいても、軍隊は大きな一つの生き物の様なものです。1人が幾ら強くても、その周囲を薙ぎ倒す事が出来た所で、少し離れた所で味方が大量に倒されてしまえばいつかは英雄も倒れます。しかし、周囲に認められたたった1人の英雄がその武勇を見せつけ、味方の士気を上げ相手の恐怖を煽れば状況が覆る場合もあるのです」
「大して強くなくてもか?」
「強くなければ英雄とは呼ばれません」
それはそうだが。クラティウスは首を傾げる。自分はまだ10歳で学園も実践も知らないけれど、王女だった者が逃亡して1年足らずでそんな戦績を上げる事が出来るのだろうか。
「団長はブルーメン伯を知っているか?」
「殿下はあれを気にしておられるのですね。知っていますよ、あれは幼い時から近衛騎士団の訓練場で鍛錬していましたし、私も手合わせしております」
「そうなのか⁉︎それで、あれは皆が言う程強いのか?」
「実戦での姿を見た事がありませんので判断出来かねます」
「知っているだけの事と印象で良い」
「では、申し上げます。通常、近衛騎士団の見習い候補は8歳より訓練に参加します。そこから見込みのある者を選抜していき、15歳で見習いとなるのですが、3歳から訓練に参加していた彼の方は、5歳で8歳の新候補生を圧倒しておりました」
「3歳⁉︎まともに剣を握れるのか?」
「当然彼の方も無理でした。訓練場の端で軽い棒の素振りや周囲の体捌きを真似る所から始めて、5歳の時は短く軽い剣を使っていました。印象としては、才能ある器用な努力家ですが、ご自身の信念を曲げない様で、複雑な心情を持つ近衛騎士達が多かったかと
「ブルーメンの戦いを詳しく知りたいのだが」
「陛下より緘口令が敷かれておりますので無理かと。それが無くとも参加した者は敗北した側として口を開かないかと」
ブラートウルスト王は、たった1人の孫であるクラティウスに国王としての在り方を教えたが、保守的な内容に対して反論はしないものの不満が募る。現状を維持せよ、他国には手を出すな、内政に力を入れよ。当然、王の方針に表立って反対する者はいないけれど、話してみると革新的な考えや、好戦的な考えも言葉の後ろに見え隠れしている。
それ以上に、クラティウス自身が現状に納得していない。あの幽鬼の娘は女の癖に会議に参加していた。幽鬼の息子は母上と同じ髪色をしていた。祖国を裏切ったブルーメンの幽鬼は、隣国に取り入り母を苦しめている。
10年。小さな子供も大人になる時間。
実際にエレミアと対峙した事の無い者は、表立って敗者を嘲る事は無いが「所詮女。負けた者が話を大きくしていっているだけだ」「一度恐怖に駆られたせいで立て直せなかった弱者」などと考えているのは透けて見える。自分なら上手くやれる。機会があれば必ずという気持ちを抱えている。
エレミアと剣を交わった事のあるものも、10年経てば「どうしてあれ程脅威に感じたのか」「やはり王女という権威に対して無意識に怖気てしまったのでは無いか」「名誉挽回の機会が欲しい」と思う。
確かに、ブルーメンでの戦いはまともに戦う事も出来ず、多くの捕虜を取られてしまったが、たった1人の女がそこまでの脅威を持つ筈も無い。死んだとされていた元王女が、武装して馬に乗って槍を振り回していただけでは無いか。射かけられた矢の雨を全て避けたと見えたのは、ゲンヴァルデ側に腕の良い魔道士がいて、魔法で攻撃を防いだだけでは無いか。恐怖の存在といった演出をされたせいで指揮系統が乱れ、そこを漬け込まれたに違いない。
現在のブルーメンは唯々領地を富ませる事しかしていない。耕地を増やし、鉱山を掘削し、領主が住む街ヴァイツェンから来た行商人は果樹園が増えたとか、羊が増えたとか嘗て侵攻して来た隣国と接している緊張感の欠けらも感じられない話ばかりする。勿論、兵力はあるに決まっている。辺境に相応しいだけの兵力があってこその開発だろう。けれど、ブラートウルストで10年経って戦場で脅威に怯えた者達が立ち直ったのと同じ様に、ブルーメンが平和で気が緩んだのも事実だろう。
今なら国境を元に戻せる、いや、更に押し込んでブルーメンの地を奪う事が出来る。
侵攻についてブラートウルスト王に多数の奏上が入るが「儂の目の黒いうちはどこにも侵攻しない」の一言で終わっていたが、クラティウスが13歳になった年に状況が一気に変わった。王の崩御とクラティウスの王位継承。生前、王が伝えていた『ゲンヴァルデに手を出しても幸せになれない』という言葉は既に過去の物になってしまったのだ。