◇◆サフィニア・ニュルンベルスの過誤◆◇
抜刀灰色熊の飼い主。誰が言い出したのか知らないが、気がつけば僕には大変失礼な渾名がついていた。それというのも、僕、サフィニア・ニュルンベルスの婚約者であるエレミア・テューリンガ・ブラートウルスト王女は、女の癖にウルスト学園の武術訓練で学生兼現役の騎士達を腕の一薙ぎで打ち倒し、教官と互角に時に圧倒する実力を見せつけて最強の名を恣にしているから。
初めて会ったのは3歳の時、その夜には婚約者となったと聞かされて驚いたけれど、その時は別にそれで良いと思っていた。ライラックの髪に紺碧の瞳、やや生真面目そうだけれど、僕を顔を合わせた瞬間、可愛らしい顔を真っ赤に染めてぴょこんと頭を下げる。王女に先に頭を下げられてしまったので、少し慌てたけれど父様の真似をして臣下の礼をとりつつ手を取って指先に唇を寄せれば、耳も首も真っ赤になった。
あの時はとても可愛かった。まあ、3歳で可愛くなかったら、それはそれで大問題だけど。
「抜刀灰色熊、試験も毎回首席とか、どうなってんだよ」
「あれじゃね、王女だから一人だけ特別に簡単な試験になってるのかもな」
「有り得るな。灰色熊、魔法実技では初級魔法と肉体強化しか使わないしな」
「あれだろ、初級しか使えないんだろ」
「でもさ、初級の肉体強化だけであれだけ強いんだぜ?どうなってんだよ」
「ははは、サフィ、お前食われるんじゃないの?」
好きで婚約した訳じゃない。僕の父、ニュルンベルス辺境伯の領地は魔獣を生み出す荒野と森が含まれるが、鉱石や輝石が産出される鉱山がある。不可侵条約を結んでいるとはいえ価値のある物の生産地で、隣国ゲンヴァルデを牽制するのに重要人物である王女を迎えるのは良い手段だ。政治的に考えれば。
けれど僕にとってエレミアは悪夢の様な存在になって来た。あいつが可愛いと思えたのは初めて会った時だけ。月に一度交流として城に呼ばれるけど、二回目の時には既にあちこち擦り傷を作っていて、僕と会う寸前まで剣の稽古をしていたと言う。
は?何で?
当時三歳、辺境伯の後継である僕ですら、まだ何の手習もしていないのに。
「さひにあさまはへんきょーはくになられるのですよね。わたしもゆーじにはいっしょにくにをまもりますわ」
有事に一緒に国を守る。確かに、武家の夫人であれば有事の際に地域の国民の安全な移動の指揮を取ったり、戦場に出ている夫の為に事務的な手続きを代行する事もある。けれど一緒に戦場に出る事は無い。通常は王都若しくは実家に子供が居れば共に戻り、帰りを待っていればいい。
三歳の僕はここまでは考えていなかったけれど、父様が危ない仕事をする時には、母様と僕は屋敷で待っていたし、いつも綺麗にして父様や僕に微笑んでくれる母様が武器を取るなんて想像も出来なかった。
「エレミアさまがたたかうひつようはないですよ?」
僕の言葉は当然受け入れられると思った。だって女の子が剣を持つなんておかしいから。ちょっとした勘違い、国を守る辺境伯という事を聞いて試しに稽古をしてしまったけど、僕の言葉を聞いて直ぐに分かったと言ってくれると思ったんだ。なのに。
「できないよりできたほうがいいですよね。あんしんしてくださいませ、さひにあさまのたいせつなひとは、わたしがぜんいんまもりますわ」
唖然とした僕は、その後数年の交流で何を話したかもよく覚えていない。エレミアのレディらしからぬ奇行は侍従が止めても聞き入れないし、親である両陛下もエレミアの妹である愛らしさの塊の様なリアンナ王女殿下に入れ込んで、エレミアがしたいのなら自由にさせれば良いとほぼ行動制限を設けなかった。
僕の母様は先ず父様の意見を聞いてそれに従う。領主夫人としての活動も全部父様に許可を得ている。父様が気に入らないと言えば止めるし、父様がやれと言えばやる、そんな関係だから、僕の勧めに従わないエレミアが全く理解出来なかった。確かに、母様だって完全に父様に従っていたわけじゃない。でも、それは新しいドレスが欲しいとか、可愛い子犬が飼いたいとかいった、政には関係無い家族の中の事。王家は違うのだろうかとも思ったけれど、エレミアが得意げに『王都の警備配置と、その改善案』をテーブルで広げた時、侍従達の慌てた態度で彼女だけがおかしいと理解した。
七歳頃からだろうか、交流のお茶会に二つ年下のリアンナ殿下が参加する様になった。まだテーブルマナーを習っている途中だと言って、辿々しい手つきでカップを滑らせてしまったり、ケーキをお皿から押し出してしまったりと、失敗は多いものの「失礼しました」と僕に向かってにこりと微笑み、時には可愛く舌先をちょっとだけ出して「難しいよお」と戯けてみせる。
そんな時、エレミアは軽く視線を向けて直ぐに逸らす。妹の失敗に気がついていない振りはレディのマナーとしては正しいけれど、場を和ませるリアンナ殿下を無視するのは良くないと思う。
「姉様、リアにごめんなさいしたでしょ。リアがそれを許してあげる代わりに、リアもニュルンベルス様をサフィニア様って呼びたいな」
エレミアがリアンナ殿下には少々難しい話をしたので、僕がこうやって三人で会っているのだから全員がわかる話をすべきだと注意して、それを受け入れたエレミアが僕達に謝った後、リアンナ殿下が可愛らしく首を傾げて言った。
「それは問題があるわ」
「どうして?姉様はサフィニア様って呼ぶもん。私と姉様は姉妹だから一緒でしょ?」
「サフィニア様は私の婚約者ですし、リアンナより年上です。将来、私がニュルンベルスに嫁したら、王女のリアンナは私をニュルンベルス夫人と呼ぶ様になるの。立場を考…」
「姉様、また難しい事言って、リアを困らせようとする。ずるいずるい」
「でもね…」
「エレミア、リアンナ殿下は僕の義妹になるのだから、名前で呼んでも良いだろう。そうだ、リアンナ殿下の立場を気にするのなら、エレミアを姉様と呼んでいるのだから、僕を兄様と呼んで貰うのはどうかな?」
「それは…」
「そうする!サフィ兄様、ね?」
僕の名前を愛称で呼ぶリアンナ殿下の満面の笑みに、僕の胸がキュッとなる。なのに、エミリアが咎めるような視線を一瞬だけ僕らに向けて、また控えめな微笑みに戻った。気に入らないのなら言葉に出せば良いのに。エレミアはいつも人形の様な微笑みだけど、気に入らない事があったら少し位ワガママを言っても良いのに。そうしたら僕は余裕を見せて許すのに。
「じゃあ、サフィ兄様は私の兄様だから、リィの事をリアかリィって呼んで」
「リアンナ、流石にそれは」
「どうしてー、どうして?どうして?妹だもん、父様も母様もリアって呼ぶもん」
「リアンナ殿下、僕は陛下の臣下であ…」
「ヤダヤダヤダ!あ!良い事思いついた!サフィ兄様、父様が王様だから気になるんでしょ?父様が良いよって言ったら良いのね?じゃあ、今から父様にお願いしてくる!」
こうして、エレミアとの交流会の筈が、毎回リアンナ殿下、殆どリィが僕と話をして、偶にエレミアが口を挟む形になってしまった。リィは気にいらない事があると直ぐに陛下にお願いしに行って、大概それは思い通りになる。呼び方も、リアだと直接過ぎるけれどリィなら年下の愛称なので大丈夫、という有り得ない理由で通ってしまった。
そんな関係が続いて、僕は同じ王女ならエレミアではなくリィと結婚したいと思い始めた。
「それはダメだ。我が家は辺境伯であり私は侯爵位を賜っているが、陛下だけでなく宰相や大臣達も認めた婚約を違えるなどあってはいけない」
「でもリアンナ殿下は僕の事を兄と慕ってくれています」
「城には歳の近い相手がいないから、毎週の交流で会えるお前に好意を持っているだけだ。リアンナ殿下は両陛下のお気に入りだから誰とも婚約をしていないのであり、臣下達から良き相手の進言は常にされている。エレミア殿下は王立学園就学前だが、家庭教師達の話によれば何事にも大変優秀だと聞く。何が不満なんだ?」
「本当に優秀なのですか?家庭教師が王女を悪く言えないでしょうし、エレミアとは話も合いません」
「それはエレミア殿下のせいなのか?お前の研鑽不足では無いのか?」
「そんな事はありません!僕の家庭教師から学習内容をご存知では?」
「何にしても、エレミア殿下には全く瑕疵が無い。ただ話が合わないと言うのであれば、お前から話しかけて殿下の興味がある事を聞き取って、次回の話題にすれば良いだろう」
「でも」
「でもじゃない。ああ、そうだな、王立学園に入学したら年に一度学年も関係なく行われる武術大会で優勝すれば、陛下から希望の褒美を賜れる。そこで婚約の白紙撤回を申し出ればあるいは」
「年に一回?それも上級生もいるのに?」
「年度末の学年首席にも褒美が出るな。こちらは同学年のみだから、殿下相手の婚約破棄は少々難しいかも知れん。魔術系の研究や成果で特別に表彰される事もあるが、お前はそちらの方は飛び抜けて優秀という訳では無いからな。学園に通えば毎日殿下とお会い出来るから、婚約していて良かったと感じるだろうさ」
僕は父さんの言葉に少しだけ納得したものの、それは見事に裏切られた。十三歳で王立ヴルスト学園に入学して直ぐ、エレミアは女生徒は誰も選択しない武術科の入科試験を受け、試験試合相手を務めた上級生を一瞬で訓練場に沈めた。流石に上級生の油断であると考えられ、その後五人と対戦したがそれも瞬時に決着をつけたエレミアに対し、試験官である教師が相手をする事になり、善戦し規定の時間を見事耐え切って首位の成績で合格した。
ここからエレミアの言動は僕を更に悩ませる事になる。
エレミアは国内のあらゆる状況を網羅しており、女生徒必須科目であるダンスや刺繍も素晴らしく、初級魔法までしか使わないものの魔術体系や研究を良く修め、教師達は彼女を褒め称え、婚約者である私にもっと勉強をする様にと苦言を呈する。
学園で出来た友人達は、男子生徒のものである武術科に所属し対戦相手全員に土をつけるエレミアを抜刀灰色熊と呼び始め、その婚約者の私を抜刀灰色熊の飼い主と揶揄う。練習試合で誰もエレミアに勝てないのは、王女相手に無意識に力を抑え本気が出せないからと言い合っていたけれど、初めての武術大会でエレミアは十八歳の最上級生すらも下して優勝した。
褒美として陛下から意匠も美しい名刀を授かったエレミアは、受け取った次の日に私に贈り物として渡して来た。突き返したいけれど、剣に罪は無いし下賜されたそれは本当に素晴らしい品で父上ですら同等の物を所持していないから受け取る事にした。
その後エレミアは年度末の筆記試験の全ての科目で首席を取り、私を追い詰めた。
学園に入ってから一つだけ、でも物凄く大きな良い事があった。エレミアが通学の手間を無くす為という理由で寮に入ったのだ。朝から晩まで何をしているのか知らないが、日々忙しくしているエレミアから刺繍入りのハンカチや王都で有名なお菓子等が贈られて来るが、本人とゆっくり話時間は無い。明け方から希望者に行われている修練に出ているのは知っているが、あんなの自分で出世を掴もうとする平民の生徒の為のものだろう。
「あれだよな、サフィは抜刀灰色熊に愛されてるよな」
「は?どこをどう見たらそうなるんだよ」
「だって、サフィの事を見ている時いつも嬉しそうだぞ」
「あれって、サフィをいつ食おうか考えてるんじゃないか?」
「ありうる。サフィ、気をつけろ」
「フザケんなよ。あんまりふざけてると不敬で捕まるぞ」
「ははは、灰色熊様はこんな軽口なんか気にしないさ。俺らよりも豪気なんだからな」
エレミアとの交流は学園でとなった為、リィに会えなくなったが入学して一ヶ月もすると私と話をするのが楽しいから遊びに来て貰いたいとリィが妃殿下に訴えたそうで、妃殿下とリィと私という三人でのお茶会が週に数回行われる様になった。婚約者であるエレミアが居ないのにと始めのうちは陛下が少し難色を示されたそうだが、リィの機嫌が頗る良く歓迎される様になった。
そのうち二年経ち、リィも入学して来たので城でのお茶会は無くなったが、私の友人達とリィの交流が始まった。
そして私とリィはお互いを思う気持ちを深めていき、やはり幼い頃に感じたエレミアが婚約者であるという違和感は正しかったのだと確信した。確かに、エレミアは私に好意を持っている。私だって自分に向けられる好意を感じられる人間だ。でもエレミアのそれは私の心に響かない。なんで自分が負けた武術大会の賞品である名馬を、女であり私を負かせたエレミアから恵んで貰わないといけないのか?
エレミアは常に私の上にいる。そして慎ましやかな微笑みを浮かべつつ、決して私に頼らない。難なく多くの事を一人で成し遂げていく。
「武術大会で優勝したら姉様との婚約を解消して貰えるのよね?」
可愛く問いかけるリィに私は自分が嫌になった。私は愛するリィに勝利を捧げる事が出来ない。
「それだけど、私はエレミアには勝てないんだ」
「サフィ兄様は優しいから、姉様に遠慮しちゃってるのね。えっと、じゃあ、別の方法を考えたら良いんだけど。えっと、姉様が一位を独占しちゃってるから、姉様は優勝しちゃダメっていうのはどうかしら?」
「リアンナ殿下、それは無理です。優勝者を無効にしては生徒の士気が下がりますから」
「そうですよ。でも、ちょっと待って下さい。これなら、あるいは」
悪友がクスッと笑う。エレミアの事で私を揶揄ってばかりの悪友達は素直で可愛いリィにはとても優しい。
「リアンナ殿下から陛下にお願いして下さればサフィも優勝出来ます」
「そうなの?何て言えば良いの?」
「国の為に武術にも力を入れているエレミア殿下が毎年武術大会の優勝をされていますが、やはり王女殿下が出場されていては生徒達が遠慮してしまい、優秀な生徒が活躍しづらくなってしまいます。ですので新たに男子の部としての優勝者を決めて欲しい。といった所でしょうか」
「んー、ちょっと長くて覚えられないかも」
可愛く眉を顰めるリィに私達がついつい笑いを漏らすと、馬鹿にされたと頬を膨らませる。その姿も愛らしい。
「書いてあげるから、それを写して陛下に渡すと良いですよ。そのまま渡すとリアンナ殿下の提案だと思われませんからね」
「わかったわ。写すのがちょっと大変だけど、サフィ兄様も優勝出来るものね。それから、提案してくれたお礼に私を殿下じゃなくてリア様って呼んでも良いわ」
「リィ様ではダメですか?」
「リィはサフィ兄様だけの呼び方なの」
くすくす笑うリィに、私は明るい未来しか見えてなかった。更にリィとの仲は深まり学園の王家専用サロンで、妃殿下との茶会の後に勉強を見る為移動したリィの私室で、友人の騎士達に護衛を頼んで出掛けた城下散策の休憩の宿屋で、私達は真実の愛を育んだ。
なのに。一体何が間違ったと言うのだろう。
学園の武術大会表彰式で私はエレミアとの婚約白紙撤回を願い、それを受理されただけでなくリィの嘆願もあり、多少の反発はあったが第二王女であるリィと婚約を結ぶ事が出来た。
表彰式会場を飛び出したエレミアには、学園で王女らしからぬ行動を取り、リィを虐げ、学生に無体を働いたという罪で王女の地位を剥奪、証拠を確認中貴族牢にて謹慎させ、後の身の振り方を検討するという事になったが、自室に差し向けられた近衛騎士達の股を執拗に狙い逃亡した。
そして味方になると思ったのかニュルンベルス領方向へ逃走したが、手配を察知したらしく隣国のゲンヴァルデに向かう商人の馬車に同乗し、魔獣に襲われて死亡した。
私の友人達が私の婚約撤回の為にと学生の証言を集めてくれていたのもあり、撤回後直ぐにエレミアを確保する流れとなったが、私としては長年の情もあり追撃を逃れようとして死亡した事を聞いた時は胸が痛んだ。
友人達も死亡の連絡が入るまでは、エレミアの事を恐怖のナッツクラッカーと呼んで面白がっていたが、亡くなったと聞いてからは話題にも出さなくなった。
リィと婚約を結び、侯爵位と辺境伯は弟が継ぐ事になった。私は城に入りリィとの息子が生まれればその子が次代の王になるし、娘だけならリィが女王で私が王配となり、婿を迎えるといった予定がたった。
結婚式の準備中にリィが次代を希望を宿している事がわかり、予定を前倒しして私達は結婚、ブラートウルストを繁栄を象徴するかの様な輝くブロンドにサファイアの瞳を持った王子が誕生した。
そんな中、父上が陛下に前々から狙っていた、領主不在の隣国ゲンヴァルデのブルーメン領に侵攻する提言を行った。それを見越して数年前から魔獣使いを集めブルーメンに魔獣を放ち効果を出している事とブルーメン領主が不在で統率に穴があると思われ、今が攻め時だと判断したのだ。
ニュルンベルス主導でブラートウルスト軍が鉱山を多数有するブルーメンを攻め取れば、我が辺境伯家の権威も上がる。大将軍となる現地領主のいない辺境軍など、まともに力を発揮出来ない。そう思って出陣した。簡単に武功を立てられると腕に自信のある学園の生徒も多数出陣した。
まさか死んだ筈のエレミアが副師団長として立ちはだかるなんて。学園の武術科を修学した者は全てエレミアの怖さを知っている。エレミアは騎士団の訓練に混ざっていた。だから、中央から派兵された騎士達もエレミアの強さを知っている。
そしてエレミアは顔見知りに対しても容赦が無かった。
「ふーん、君があの、ニュルンベルス卿なのかー。ふーん。エレミア嬢は色々褒めてたけどね、やっぱり欲目ってあるよねー」
戦線崩壊したブラートウルスト軍は多くの将兵の身柄を抑えられた。私も狭い個室の牢に入れられて、鉄格子の向こうにいるゲンヴァルデの男から不躾な目を向けられている。
「お前が誰か知らないが、私はサフィニア・ニュルンベルス。ブラートウルストの王女の婚約者だ。失礼な扱いは今後お前の首を絞めるぞ」
「へー、そんな大切な事言っちゃうんだー。地位があるからこそ、利用されるって思わないのかな?」
「何だと⁉︎大陸には捕虜の扱いについての共通認識があるだろうが!」
「そんなのどうとでもなるよね。ま、名乗って貰わなくても君の素性は知ってるし、ゲンヴァルデの大切な人に何をしたかよーくわかってるよ」
「ゲンヴァルデの大切な人?」
目の前の男は薄気味の悪い笑顔を浮かべた。柘榴色の目が細くなり笑顔なのに剣呑な空気が漂う。
「名乗られて返さないのは礼儀に反するね。私はアルフレッド・フォルコン・ゲンヴァルデ。ゲンヴァルデの第五王子。残念ながら剣の才能は然程無くてね、それでも師団長位はしていたんだよ。そしてね、エレミア嬢はうちの師団の副師団長だよ。わかるよね、ゲンヴァルデはエレミア嬢の能力も性格も全部気に入って受け入れているんだよ」
「エ、エレミアを呼んでくれ!色々誤解があるんだ!」
「誤解なんて無いよ。君が彼女を貶めた。君が彼女を傷付けた。君が彼女を見誤った」
「話せばわかる!僕らには真実の愛があるんだ!」
「それって、君が妹姫に誓った愛でしょ?真実の愛ってそんなにたくさんあるものなのかなあ」
「僕らには僕らの歴史と、愛の形があるんだ!エレミアの愛は広くて深いんだ!僕も、リィもそれを知っている!」
「僕らの歴史と愛の形があるエレミア嬢を裏切った二人でしょ。今更だよね」
「ぼ、僕らには息子がいるんだぞ!エレミアの甥だ!家族を愛し、慈しむべきだろ⁉︎」
「その家族から追い出したのは誰なのかな?」
「か、家族の更に大きな単位が国なんだ!エレミアはその王女なのに、裏切って愛すべき自国民に刃を向けたんだ!わかったぞ!以前よりお前達がエレミアを誑かし、通じ合っていたんだな⁉︎」
「ははは、そうとでも思わないとやってられないのかな?エレミア嬢は正々堂々とした裏表の無い誇り高き王女だからね。どちらにしても、ここにエレミア嬢は来ないから護送されるまで静かにしててね。これからブラートウルストと人質交渉があるから、それが終わるまでごゆっくり」
嫌味ったらしく去っていったゲンヴァルデの第五王子。エレミアはあれに騙されているに違いない。確かに私とリィはエレミアを裏切ったけれど、あれだけ国を大切にしていたエレミアがブラートウルストの利益を邪魔するなんて。
結局、私を含む人質全員は帰国し、陛下から様々な罰を与えられた。ニュルンベルス領は半分近くゲンヴァルデに奪われ、爵位も子爵に下げられ、今後の様子も観察される。私がリィの夫だから陛下の判断が甘すぎると、我が家への風当たりは強い。ニュルンベルスが必ず勝てる戦いだと言ったのに、と毎日何度も聞かされる。
エレミアが叙爵されブルーメン辺境伯に赴任したせいで、ゲンヴァルデに対してみな及び腰だ。
「サフィ、皆んなして私達を悪く言うのよ。サフィ達はブラートウルストの為に領地を広げようとしたのに、姉様の意地悪で失敗するなんて良くないわ。だから私ね考えたの。私が姉様に会いに行って、もう意地悪しないなら父様に頼んで王女に戻してあげるって言ったら、喜んで帰って来るわよね」
「それは難しいんじゃないかな」
「どうして?姉様は私のお願いを聞かないといけないのよ?それに姉様はサフィが好きでしょ?サフィと私は真実の愛で結ばれているから、サフィを譲ってあげる事は出来ないけど、私とサフィの可愛い赤ちゃんを見たら、きっと跪いて騎士の誓いを立てると思うの。そうしたら、父様が姉様に騎士爵を授けて、ブルーメンはニュルンベルクの物になるんじゃないの?」
リィの考えは随分と甘いけれど、確かに戦場で囚われてからエレミアに一度も会っていない。やたらとエレミアに肩入れしている第五王子にエレミアと話す要求を却下された。まだ私を愛するエレミアが、ゲンヴァルデを離れると危惧していたのかも知れない。
結局、あの時我が軍が浮き足立ったのは、死んでいると思っていたエレミアが生きていて、司令部の若い者達が過去に練習試合とはいえど負けた者が多かったから。
エレミアがこちら戻れば、ゲンヴァルデは功労者の裏切りで荒れる。そうなればブルーメンを攻め落とすのは難しくない。
「それにね、私はブラートウルストの王女で、姉様の妹なのよ。妹が姉に会いたいって言うんだから断るのはおかしいわ。王女のお願いは断れないでしょ?」
リィのいう通り、隣国の王女からの要請とすれば会談要求も通ると思われる。
早速父上に相談すると、リィの短慮な所は気になるが、王女の面会要請は断れないだろうという事で、私がリィの発言をきちんと抑える事と忠告されたが、ニュルンベルス家からとして陛下に話を通してくれた。
リィも直接陛下に頼み、確かに今までエレミアが両陛下とリィの願い事に意を唱えた事はないと認めたとの事。学園に入って五年間、寮に住んでいたエレミアは必要最低限にしか王宮に出入りしていなかったけれど、甥も出来た事だし家族の暖かさを知れば直ぐにでも戻りたくなるに決まっている。
ーーーーーー
「どうして姉様が居ないんですか?どうしてアルフレッド様は意地悪するんですか?」
ブラートウルスト第二王女が姉であるエレミアに会いたいという公式書簡を送った所、ブルーメンの領主館にその場を設けると返信が来た為、わざわざ足を運んで来たというのに、応接室に現れたのは第五王子のみ。
本来なら隣国の王女に対して宮殿で歓待の宴を設け、最大のもてなしを行い、王女に相応しい場所で再会といった形であるべきだ。ブルーメンはブラートウルストから直ぐ隣で移動時間も少なくて済み、エレミアが領主であるから、リィを軽んじているとも言えるこの待遇を飲み込んだというのに。
挨拶をしたのち、席に着いてもエレミアは入って来ず、私が所在を聞く前にリィが質問した。
「私は姉様に会いたいってお願いしたの。ゲンヴァルデは王女の要請を断るんですか?」
「第五王子殿下、リアンナ殿下の願いを聞き届けて下さるという事で話が通っているかと思います。エレミア嬢の同席を願います」
「えー、嫌だよ」
「なっ!失礼ですわ!姉様は私に会いたい筈です!」
「リアンナ殿下もニュルンベルス卿も知らないのかな。エレミア嬢はここブルーメンの領主、ブルーメン辺境伯に着任したよ。先の戦いのせいでエレミア嬢は忙しくて、今日も…」
「まあ!素敵!じゃあ、姉様がブラートウルストに戻ったら、ブルーメンもブラートウルストの物になるのね。それならみんなも姉様を悪く言わないわ」
「リィ、それは…」
「何その考え?ま、エレミア嬢は戻らないから関係無いけどね」
「戻るもの。姉様は私がお願いしたら何でもしてくれるの。私がブルーメンを欲し…」
「リィ!第五王子殿下、リアンナ殿下は、エレミア殿下を大変慕っておられ…」
「へえ、リアンナ殿下は随分面白い考えをするんだね。エレミア嬢はゲンヴァルデの騎士爵を得ている。ブルーメンはゲンヴァルデの国土だ。ゲンヴァルデの王子である私の前で、リアンナ殿下がエレミア嬢に会いに来たのは、エレミア嬢に謀反を唆す為なんだね」
「殿下、それは違います」
「謀反って?何でそうなるの?姉様は私の姉様で、お願いを…」
「君達は随分とゲンヴァルデを甘く見ているんだね。よーくわかったよ。リアンナ王女殿下、口を挟まず最後まで聞いて頂きたいのだけれど、宜しいですか?」
貼り付けたような笑顔をすっと消して、剣呑な光を漂わせた瞳をリィに向ける王子。これだ、牢屋で向けられたこの目。リィがぐっと息を飲むのを感じる。室内で待機しているリィの護衛騎士達の緊張も一気に高まった。
「ブラートウルストの王女である、リアンナ・テューリンガ・ブラートウルスト殿下は、我が国のエレミア・ブルーメン辺境伯に対して離間の策を行う旨を、私、アルフレッド・フォルコン・ゲンヴァルデの前で発言された。この発言は、ニュルンベルス卿、ブラートウルスト護衛騎士、ゲンヴァルデ騎士団が同席して聞いており、証人となす事が出来る。発言に前述の様な意図は無いと否定されても、此度の訪問にブラートウルスト王陛下よりの添状にて公的な訪問の上での発言とさせて頂く」
「第五王子殿下、お待ち下さい!リィ、リアンナ殿下にはその様な意図は一切無く…」
「え?何?何で急に難しい話になってるの?」
「唯実際の言葉を両国に伝えるだけです。失言される上にそれを全く理解しない純粋無垢な奥様をお持ちで、ニュルンベルス卿には心よりご同情申し上げます」
「エ、エレミアを呼んでくれ!エレミアは僕らを誤解している!僕らには愛という絆が」
「ですから、ブルーメン辺境伯はお忙しいと申し上げましたよね。それと…」
私の必死な言葉に、王子は軽く手を振って無表情のまま一気に紅茶を飲み干した。
「エレミア嬢を呼び捨てにするの止めてくれないかな?確かに君は元婚約者で王女配で侯爵子息、ああ、子爵子息になったんだっけ?、だけど、エレミア嬢はゲンヴァルデの騎士で辺境伯なんだ。どう言ったらこの気持ちをわかって貰えるのかなあ、物凄く不愉快だよ。エレミア嬢は君達の事なんてもう何とも思ってないよ。以前好きだから、今も好きとか無いから。魔獣を利用したり、無辜の民を苦しめたり、不可侵交渉先に侵攻したりする人は敵だってさ」
「あ、貴方に何がわかるんですの⁉︎姉様はリィを大切にしてくれたのよ!大切な家族なんだから!リィとサフィは姉様の事を何でも知ってるんだから!」
「知ってる?何を知ってるの?唯姉妹として生まれただけなのに?唯婚約者に選ばれただけなのに?私はね、エミリア嬢の事は何でも知っているんだ。好きな物、好きな色、好きな歌、苦手な物、苦手な色、生活サイクル、今興味のある物、似合う色、可愛らしい姿、日焼けをしても陶磁器の様な肌、正義感が強くて慈愛に満ちてる事、凄く努力家な事、天武の才能を持っている事、刺繍が上手いのに剣を握りすぎて指先が固くなって針を使いにくくなっている事、ハイヒールも履けるけど低くてヒールが太いシューズの方がより美しく踊れる事、まだまだ幾らでも知ってるよ」
「な!勝手な事を言わないで下さいませ!」
「お前、何なんだよ……」
目の前にいるゲンヴァルデの王子を名乗る男は、うっとりとした表情でエレミアを褒め称えている。あの、常に薄ら笑いの、女のクセに剣を振るう、非常識なエレミアを。ブラートウルストではまともなレディ扱いもされず、両親からも可愛げが無くてつまらないと放っておかれたエレミアを。
「何って、君達が敗北した、ゲンヴァルデの、王子、だよ?君達には感謝しているんだよ。エレミア嬢を手放してくれて。二度と戻れない様に居場所を奪ってくれて。唯、どうせならもっと早く手放して欲しかったし、尊厳を傷付ける様な手段はとって欲しく無かったし、己の無能さと不甲斐なさを心底詫びながら地面にエレミア嬢に到底及ばない貧弱な頭をめり込ませて、自害する位して欲しかったなあ。あ、だめか。目の前で自害なんてあの優しいエレミア嬢が許す訳無いよね。彼女の知らないとこで死んでね?」
「お前…。い、良いからエレミアを呼んでくれ!」
「嫌だよ。君達が今後エレミア嬢に余計な手出しをする可能性を見極める為にわざわざ会談を受け入れたんだから。ねえ、約束してくれないかな。今後一切関わらないって。君達がエレミア嬢を突き放したんじゃなくて、エレミア嬢が君達に幻滅して離れたんだよ。まあ、こう言っても君達は低脳だから都合の悪い事は忘れてエレミア嬢を利用しようとするんだろうねえ」
こいつ、絶対関わったらいけないヤツだ。じっとりとした目付きが恐ろしいのに、視線を外したらその瞬間に襲われる様な、悪寒と震えが止まらない。
「なーんだ、もう反論出来ないの?困ったらエレミア嬢に助けを求めるの?自分達が追い出したのに?」
「そ、それ、は…」
「リアンナ殿下は大切な婚約者を奪い、冤罪を着せ、追手を掛けられても家族だったら愛せるの?更に仲良くなった人を魔獣で襲わせても?やっと居場所を見つけたと思ったらそこに攻め込まれても?」
「わ、私はそんな風にならないもん」
「そうですね、でもなった方は愛なんて消し飛ぶよね?ねえ、君達も言ってたんでしょ?エレミア嬢が王女だから武術大会で手加減されてたんだって。だったらそれってニュルンベルス卿にもあったんじゃない?第一王女の許嫁だから、第二王女のお気に入りだから。実際は、戦ってみてわかったでしょ?エレミア嬢の力は実力。君は、ねえ…。そんな夫の敗北を妻が失言で悪い方に後押しする、と」
リィが私の袖をぎゅっと掴んだ。水色の瞳が潤んでいる。私もリィの手を撫でてあげる事しか出来ない。
「わかったでしょ?もうエレミア嬢に近付かないでね?しつこくするならゲンヴァルデ全部が君達の敵にまわるよ。さっきの離反の唆しの件も、ゲンヴァルデ中央全員で共有するから、少しでも変な動きをしたら更に追加制裁させて貰うからね。さあ、ブラートウルスト王女殿下と、王女配殿のお帰りだ。お見送りして差し上げて」
私達に向かって優雅なボウ・アンド・スクレープをしたのち、笑顔で扉を指し示す王子。唇を噛み締めるリィを促して、退室する。
いつか必ずこいつらに目にモノを見せてやる。
ーーーーーー
リィの失言で、私達は城の離宮で謹慎となった。リィの口からは不満ばかり漏れる。それでも、息子の相手をしている時は笑顔になるものの、息子が王位に着いた時、父親のせいで領土が減ったのを知ったらどう思うのかとか、意地悪をするゲンヴァルデが攻めて来たら戦えるのかと呟くので気分が悪い。
私は偽物の愛である名目だけの婚約を捨てて、愛し合う相手と結婚しただけなのに。純粋なリィが、近くにいると不安に感じるエレミアを幽閉するだけのつもりだったのに。
陛下が崩御し息子が王座に着きリアンナが王太后になって、幼い頃からリアンナにゲンヴァルデとの確執を吹き込まれ続けた息子はブルーメンに侵攻した。私は全力で止めたのだが王太后配としての発言力は低く、息子の周囲を固める側近や大臣達はゲンヴァルデと戦った経験が無い者ばかりだった上、年々豊かになるブルーメンは元々ブラートウルストの物だったと決意も士気も高く攻め込んでいった。
結果は惨敗。
予想通りといえば予想通り。ニュルンベルス領全てと隣接する土地をゲンヴァルデに差し出さねばならなくなった。出陣前に臆病だと言われた私を含む侵攻反対派の者達は、結果を聞いて黙ってため息をつくばかりだった。
戦場に現れたライラックの髪の辺境伯の左右には、プラチナブロンドの小さな姫将軍と、ライラックの小さな将軍が控えていたと聞く。後ろに控えたゲンヴァルデの王子が指示を飛ばし、飛び出して来る三人を必死に呼び戻していたとか何とか。
もし私が、婚約撤回をしないでエレミアをニュルンベルスに迎え入れていたら、今頃豊かなニュルンベルスとなっていたのだろうか。ゲンヴァルデとも良い関係を築けたのだろうか。
せめて婚約撤回してもブラートウルストに留めて置く方法は無かったのだろうか。
いや、私とエレミアは縁が無かったのだ。エレミアが隣にいる未来も思い描けない。だから、私は愛する家族の為に、出来る事をやっていくしか無いのだ。