◇◆結婚式後の元王女は夫とデートする(後後)◆◇
ガタガタと小さく揺れる二頭立ての馬車はクッションを多めに積み、またサスペンションを使って振動を減らした作りだが、全ての衝撃を吸収する訳ではない。小回りが利かないので大きめの石を超えたり轍から外れたりすればガタンと揺れる。
「きゃっ、あ、ごめんなさい」
「エレミアさん、危ないから私に寄り掛かって下さい」
「大丈夫ですわ、これ位なら、きゃあっ」
「ふふふ、言った側からそんな事では怪我をしてしまいます。大切なエレミアさんに髪の毛一筋程の傷も負わせたくありません」
「そんな。でも心配されるのも良くありませんね。腕に掴まっても?」
「背中に手を回していただいた方が良いと思います」
キュッと抱きつくエレミアの背中を引き寄せれば、まるで2人の体温が溶け合うようで、不安に震える睫毛に彩られた紺碧の瞳に吸い込まれる様に距離が近付く。
「少々悪路が続くのでお気を付けて下さいませ」
「うわっ!痛っ!」
脳内桃色ぺんぺん草が溢れ出かけたアルフレッドは、馬車の揺れに負けて肩を強かに打ちつけて我に返った。
「大丈夫ですか?しっかり掴まっていて下さいね」
「いやあ、うちの坊ちゃんがぼんやりしてたんですよ。姫さんの手綱捌きは実に見事ですね」
「最近馬車を操っていなかったから丁度良い訓練になります。やはり、いつも同じ行程では体験出来ない事があるのですね」
「姫さんなら馬に乗れるから御者までやらなくても良いんじゃないですか?」
「やれる事がたくさんある方が選択肢が増えますわ。負傷者や馬に乗れない方がいらして、馬を操れるのが私だけという事もあり得ますし、襲撃された時に馬車を使えば乗れるだけの人数を逃がせますもの。多くの荷物を自分で運べるのも嬉しいです」
「そっかー。どうです坊ちゃん、帰りは御者、やりますか?孤独に馬車に乗っているよりマシなんじゃないですかね」
「う、煩い」
馬車という個室の中で2人はドキドキ急接新婚旅行ラブラブ大作戦、という頭悪そうな妄想を垂れ流していたアルフレッドは、御者の真後ろ馬車の進行方向にある窓から見えるエレミアの頸をうっとりと眺めて溜飲を下げる。乗り込む時、無駄に格好をつけて片足を馬車のステップに掛け、さあ!と愛しの女神に手を差し出したのに、当然の様に御者台に飛び乗って手綱を握りつつ「どうぞお乗り下さいな」と言われて渋々乗り込んで外の楽しそうな会話を羨ましいと思いつつ、それでもここからしか鑑賞出来ないエレミアを発見する執念深さ。
今の自分が御者台に座っても転がり落ちる予感しか無い。時間を作って身につける事リストとして記憶した。
早朝に出発し昼の休憩を取ってヴァイツェンから南東方向、一番近い商業が盛んな街ランイェーガーに到着したのは夜中近かった。町役場に併設された領主の為の離れを守衛に頼んで鍵を開けて貰い、エレミアはあっという間に就寝した。領主滞在用の部屋は一つしかベッドが無かったので、客室から運んだ毛布使ってソファに転がるアルフレッド。転がる前にソファをベッドの傍に移動させるのも忘れない。
早朝、目が覚めたエレミアは部屋にベッドが一つしか無かった為、当然客室を使っていると思ってたアルフレッドがベッドにピッタリつけて寝ているのを見て気遣いせずに先に寝てしまった事を申し訳ないと思いつつ、ベッドの移動という物音を立てられてたにも関わらず起きなかった自分の危機管理能力に首を傾げた。
「今までは無かったのに、私はアルフレッド様を信用しきっているのかしら?」
少なくとも、安全な場所でも物音がすれば一時的にでも覚醒していた自分が、しっかり寝ていたのだから。
何とも言えない気持ちになったエレミアは、アルフレッドをそっとベッドに移動してから、静かに部屋を出た。
アルフレッドが合流した時、既にランイェーガーの自警団の牢屋は満員御礼になっており、街一番の食堂を活動拠点としたエレミアは少女から老婦人までのレディ達に囲まれて、悠々と紅茶を飲みつつ役場員と自警団に指示を出していた。
髪には嘗てアルフレッドが贈ったガーネットと銀の髪飾りがキラキラと輝いており、首の後ろで無造作に結ばれた珍しいライラック色の髪は艶々した黒髪となっている。兎に角元の髪色が目立つので、普段使いに大活躍している状況を愛用と言って良いのかは分からないが、贈って良かった物ランキング1位と言って良いだろう。
「アルフレッド様、丁度良い所にいらっしゃいました。街の予算についてなのですが、こちらが現在の状況で、こちらが簡単な改善案です。今日はゆっくり時間を取って確認出来ますし、是非細かい調整をしていただけると嬉しいのですが」
「それは構いませんが、何故この状況に?」
「その何故がどの部分を指していらっしゃのか分かりませんが、朝目が覚めた時点でアルフレッド様はご就寝中でした。一人で役場を出ましたらトリスタン様が同行を申し出て下さいましたので、そのまま街を一周した所、商店の倉庫に辺りを窺いつつ荷車をつけていらっしゃる方々がおられたのでお声を掛けました所、攻撃されたので全員関節を外して自警団に引き渡しました。それから早朝からやっている食堂で朝食を摂っておりましたら、下卑た言葉で声掛けをして来る方々が居られましたので、関節を外して自警団に引き渡しました。勿論、私だけで無く他の方に無礼を働いた方も同じ処置を致しました。朝食後、役場に声を声を掛けてから、こちらの店長さんにお願いして食堂の一角をお借りして役場から運んでいただいた資料を確認しております。それと、移動中に見かけた失礼な方々も自警団に引き取って頂きました。後で纏めて注意勧告や懲罰等を決めていきたいと思います」
笑顔で答えるエレミアに見惚れつつも、何とかいや違うそうじゃない感を掘り起こすアルフレッド。だから、新婚旅行兼視察をしているのではなくて、視察兼新婚旅行をしている筈だ。しかも何故、夫である自分ではなく自分の護衛である筈のトリスタンが、女神と堂々と並んで作業してるのか?
「アレックスからも何か言ってくれませんか?トリスタンだけミアさんと一緒にいるのはおかしいでしょう?」
「見張りで寝る番だった俺から言う事は無いと思うけど、だってほら、寝てたし。起きてたスタンが安全優先でお姫さんに着いてくのは当然じゃ無いですかね?先ずは坊ちゃんも朝飯を摂りましょうよ。店の親父さんがランチの仕込みから分けてくれるって言ってるから。後、オムレツとかも食って良いって」
「エレミアさん、一言声を掛けて下さい」
「移動がそれなりにきつかったかと思いまして」
「置いて行かれる方が寂しいので次回は是非声を」
「そうですか?でも私の起床時間は早いですよ」
「知っています。知っていますから、大丈夫です」
「ねえねえ、エレミアちゃん。その人誰?」
「お姉ちゃんの恋人ー?」
「何だよ、今日は随分と男の連れが多いねえ。今日は仕事仲間連れかい」
「いやいや、違うだろ。一斉摘発の為の護衛さんだね」
元々エレミアは一人で領地内の街をまわっていたので、どこの街の住民もエレミアの顔を知っている。男女平等能力主義体制確立を目指すゲンヴァルデでも、弱者になりやすい小さな子供やお年寄り、体格差や子育て等がある女性が抱える問題は多い為、エレミアが相談や要望を聞く件数が多くなる。
その結果、エレミアはどの街でも話をきちんと聞いてくれて解決してくれる領主として好かれ、街に顔を出すと自然と人が集まって来る。特に助けられた女性が。
「坊ちゃん、もうちょっと顔を覚えられる努力をした方が良かったな」
「煩い。父さんと兄さん達が覚えられてたら良いんですよ。逆に覚えられていない方が有利な事も多いし」
「んでも、姫さんと結婚したんだから事情が変わっただろ」
「分かってるから」
「結婚って?エレミアちゃんが?このお兄さんと?」
「お兄ちゃん、王子様みたーい。キラキラ髪の毛かっこいいねー」
大盛り上がりでアルフレッドを追求するレディ達を気にせず、書類を片付け相談に来る相手に聞き取りを行うエレミア。何とかレディ達を落ち着かせたアルフレッドも、予算案を追加修正したり、エレミアには答えにくい相談を受けたりしているうちに時間が経ち、交互に昼食を摂りながら続く陳情受付をしていると陽が傾いて来た。
因みに、ある意味暇の出来た護衛のトリスタンとアレックスは食堂の外の噴水広場で街の子供に青空教室を開き、読み書き計算や危険な時の逃げ方等を教える仕事を受け持った。完全にアルフレッド達から離れる訳にはいかないので、同時に食堂のテラス席に移った『領主とその夫である王子による街の生活相談会』は、相談者だけではなく、病弱で余り表に出て来なかった第五王子鑑賞会にもなってしまった。特に絵本でお馴染み王子大好き小さなレディ達と、『ウチの子(孫)も小さい頃は病気ばっかりしてねえ』と親近感を持ったマダム達に大好評で、生まれて一番のモテ期が到来したと言って良いだろう。
口々に『お嫁さんにして』『お城のお姫様にして』と訴える小さなレディ達は、残念ながら全員振られてしまったが。その際「ごめんね、可愛いお嬢さん達。私は妻で領主の美しくて優しくて聡明で努力家で私の希望の女神のエレミア嬢を心から愛しているんだ」という断り文句で、周囲の空気が凍った。が、その女神とされたエレミア本人は引き攣った表情でアルフレッドを窺う相談者に「どうされました?話を続けて頂けますか?」とあっさり流し、エレミアの相談の列に並んだマダム達が「もうちょっと男心を理解してあげると良いかも」と訴えたが、「分かりました。後でアルフレッド様に男心を習いますわ」と返答し、アルフレッドに対する追撃となってしまった。
結局、相談は引きも切らず、そのまま夕飯も食堂テラスで取る羽目になり、役場に戻った時には宿直兼警備員の職員しかいなかった。
「前から言っておりましたが、エレミアさんにお願いがあります」
「はい」
入浴後の新婚夫婦が二人、ソファに並んで座わり手を握り、そこから始まる反省会である。改善を訴える側のアルフレッドは、至近距離というか既にゼロ距離(手を握っているので)の愛する妻の魅力に『遅くまで起きていると体に悪いので寝ましょう』とか、それなりには通じるものの、王女時代に培われるべきで無かった自己評価の低さが炸裂して、流されてしまう口説き文句を連ねたくなるのを堪えており、対するエレミアは自分の為に心を砕いてくれるアルフレッドの忠告を聞くべく、さあこい!と受けて立つ構えだ。
新婚感、というか、甘い雰囲気はゼロである。
「仕事のし過ぎです」
「やはりそうですか。そんな気がしていました。以前注意されて気にはしていたのですが、目の前に片付けた方が良い事があるとつい」
「急ぎの仕事はそんなにありません。ご自分以外の方の超過労働は解消するのに、皆の手本となるべき領主の貴女が堂々と違法労働をなさるのですか。もし過労で倒れたらどうするのですか?」
「過労と診断された事も、倒れた事もありませんが、その様な問題ではありません、よね。アルフレッド様にもご心配お掛けして御免なさい」
「私が心配する事までお分かりで、謝罪なされるのはエレミアさんがそれだけ周囲に心配りをされていると思いますが、お願いですからその心配りをご自分にもお向け下さい」
「はい。気を付けます」
「と、言っても、問題を目の前にすると、それに集中されてしまうんですよね。ですので、次からは時間を見て声をお掛けします。それから、食事や休憩の時は、緊急の仕事以外はやらないで下さい」
「でも、昼食や休憩は仕事時間のついででも「ダメです」」
しゅんと項垂れるエレミアに、危なく前言撤回したくなるのをグッと堪え、落ち込ませた自分は後で一人反省会開催と決めるアルフレッド。
「エレミアさんはご自分が間違っておられるのは分かっておられますよね。過重労働について罰則まで設けて規制しているのに、ご自分の労働時間は一切気にしない。そんな状況を見た時、周囲はどう思うでしょうか。貴女を大切に思う者は心配し仕事を調整する様に声を掛けますが、それでも調整はされず、しかし貴女の気持ちは分かると不甲斐なく思うでしょう。逆に貴女を利用して得をする者もいるでしょう。貴女に任せれば何でもやってくれるから楽が出来る上に、手柄の所在を気にしない貴女の成果を自分のものと偽って得をする事だって出来ます。そこから更なる問題が発生します。貴女に対しての気持ちが相反する者達の争いです」
涙目になったエレミアを抱きしめて背中を軽く叩くアルフレッド。エレミアもゲンヴァルデに来てから周囲の人達が、親切で心配してくれているのもよく分かっているのだけれど、お願いをしても邪険にされる事は無いが、自分が動かなければ何も始まらなかったブラートウルスト時代に構築された考え方の基礎を変えるのは難しい。
とはいえ、周りを心配させたり、動いてばかりの自分に合わせて周囲が休み辛くなってはいけない。
「ですから、お互いを高めあうって約束しましたよね。一緒にいる者が声を掛ければ良いんです。勿論、私は常に貴女の傍に居るつもりなので、その栄誉はほぼ私のものですけれどね。兎に角、明日は一日仕事は抜きで過ごしましょう」
「え?でもそれは」
「仕事はお休みです。公休です。公休を取らない領主に休暇申請を出す側になって考えてみて下さい」
「うっ…。では、や、やす、休みま…」
「休みを取るだけなのに、そんなに抵抗しなくても」
悪戯めいた顔つきでエレミアを覗き込むアルフレッドだが、腕の中で動揺してふるふる震え涙目で見上げてくる細マッチョ乙女に、あれやこれやの思いが湧き出て来ており、心中は全くもって穏やかではない。
「ここがチャンスだ、フルスロットバーストぉ!」と叫ぶ脳内自分。「女神を娶れた幸運を失う危険を冒してはいけません。先ずは完全な信頼を築くのです」な脳内自分。「可愛い可愛い可愛い可愛い(以下略」的脳内自分。
「では、休むを体験してみる、という事にしましょう。明日早朝に目が覚めても、役場の敷地から出ないで下さいね。事務所に仕事があるでしょうし、エレミアさんなら直ぐに処理出来るものだと思いますが、元々それはエレミアさん以外の仕事ですので手を出さないで下さいね。エレミアさんもご自分のお仕事を誰かがやってしまって、やる事が無くなったら困る…、いえ、エレミアさんは困らないで別の仕事をされますね。でも、他の方が終わらせてしまったら、内容やミスの有無を確認する必要がありますよね」
「はい。でも何をしていれば良いのでしょう?」
「そうですね、敷地内で鍛錬されていても良いですし、朝食をゆっくり摂られても良いですし、ランイェーガーで見たい所を調べてみても良いかと思いますよ」
ーーーーーー
やはり私にはこの手の才能が無かった。
エレミアは離れのキッチンの作業テーブルに突っ伏して撃沈してた。起床後、パン、干し肉、ドライフルーツで食事を摂ったのち、鍛錬、朝風呂をしたのち、新たなる挑戦に着手して完全敗北をした所である。卵を握りつぶし、全体的に部屋を粉っぽくし、謎の岩石の様な物体を錬成してしまった。本来であれば、ドライフルーツ入りのカップケーキが出来るはずだったのだけれど。
普段、野営で食事も作っているのだけれど、基本、ある程度不味く無くて栄養が取れれば良いというシンプルな方針なので、食べられる草と小麦団子の塩スープや、手に入った肉に塩を振って焼いた物で終わらせるのが普通になっている。経験上、ドライフルーツは体に良いというので、持ち歩いて積極的に採る様にしているが、多少酸っぱかろうが、味が無かろうが気にしない。
とは言え、今日は朝から時間があったので、何をしようかと考えて捻り出したのが、お菓子を作るという作業。嘗て、ヴルスト学園に在学していた時、女生徒が婚約者に手作りのお菓子を贈るのが流行っていた事があるのを思い出したのだ。通学時は寮で過ごしていたし、時間に余裕がなかったので作る機会も無かったのだけれど、ゲンヴァルデに来てからサロンのレディ達から新しい趣味としてお菓子作りを勧められてやってみた所、大量の炭が錬成された。その後数回ほど炭とやたら硬い物体を錬成したのち、自分には向いていないと判断し、これ以上食材を無駄にするのは良く無いとすっぱり諦めていた。
が、今日は時間が余っているし、落ち着いて時間と量と火加減と手順さえ合っていれば出来る、と言っていたレディ達の言葉を思い出してリベンジマッチを挑んだ結果が惨敗。とても美味しいものを作ろうなんて奢った事まで考えて無かった。可もなく不可もなく、無難な物が出来れば良かったのだ。きっちりレシピを守って作ったのに…。出来上がったのはやはり炭。明け方の見張り当番だったアレックスは炭錬成の一部始終を見守っていたのだが、何でもこなすエレミアが初めて見せる失敗に親近感を感じていた。成功したら主人が喜ぶし、失敗しても同じだからなー、とも考えていたが。
因みに、敗因は力強さとオーブンを開閉しすぎた、事だったりする。材料をざっくり混ぜる際、力を入れ過ぎて練り込んでしまい生地に粘りが出過ぎて硬くなった。焼いている間、仕上がりが気になってオーブンを開けて何回も確認した結果、中の温度が無駄に上下、決まった時間に出来なかったので、焼成時間を伸ばした結果、一気に熱が加わって焦げた。
レシピ通りではある。あるが、ざっくり混ぜるという言葉は初心者にはわかりずらいし、生地を入れたオーブンを開閉しないという基本は基本すぎて書いていない。
「やはり捨てるしか、いえ、食品を無駄にしてはいけません。これは私が責任を持って」
「姫さん、これは体に悪いから止めとけ。もう既にこれは食品じゃない。炭だ」
「す、炭…。しかし材料が無駄になってしまいます」
「あー、坊ちゃんなら大喜びで食べるだろうけど「アルフレッド様がお食べになったら体を壊され「私が何ですか?」きゃー!」坊ちゃん、姫さんお手製の、カップ、炭?」
「お、おはようございます」
「おはようございます。朝食はお済みですよね」
「炭っ⁉︎いえ、あの、済んでいます」
「今日は外出しましょう。下調べは致しました。先ずはパン屋に寄って郊外に足を伸ばします。午後は街に戻ってティールームでお茶です」
ギュッと唇を引き結び、目の前の錬成炭をそっと手元に寄せてハンカチで隠すエレミアの後ろで、ニヤニヤしながら口パクで『手作り』『菓子』と繰り返すアレックス。
アルフレッドは今朝の見張りがアレックスであった事を喜んだ。キッチンの状況を見れば何があったかは直ぐわかる。自惚れでは無いと思うが、エレミアが自分の為にお菓子を作ろうとしてくれたが、見事に失敗してしまったのだろう。もしエレミアの後ろにいるのがトリスタンだったら、失敗作を並べて落ち込むという状況になる前にエレミアを誘導して処理してしまうか、間に合わなかった場合、自分と一緒にキッチンに入って来たアレックスが『姫さん、その黒いの何ですか?』と雰囲気を読まずに発言していたに違いない。
「私は直ぐに出られますが、エレミアさんは如何ですか?」
「直ぐに動けますわ」
エレミアを誘導しながら然りげ無く数個のカップ炭を回収したアルフレッドは満面の笑みで小物用の袋に入れた。
ーーーーーー
ただ座ってぼーっと景色を眺める。ブランケットを敷いて座り湖を眺めながらぼんやりする。
「先日、農業用水の灌漑路の修繕が終わった報告を頂きました」
「それは良かったですね」
「用水路をより広げる為に…」
「寝っ転がって空を見ると、普段見ない角度で面白いですよ」
ごろんと隣で転がるアルフレッドにつられて、エレミアも横になる。土と草の香がほんのりと漂い、自然に口元が綻んだ次の瞬間、太陽に視線をやってしまい、目が眩む。
「眩しいです。陽の方向で方位を見たり時間を確認したりはしていましたが、真面に見たのは初めてです。目がモヤモヤします」
「目を瞑っていたら直に落ち着くかと。エレミアさんでもそんな失敗をなさるんですね。可愛らしいです」
「かっ…。いえあの、普段はこんな風に見上げる事は無くて」
「そうでしょうね。初めてのお休みに政務を完全に忘れる瞬間が出来て良かったです。今頃役所には、エレミアさんが滞在しているうちにお願いしたい陳情が集まっているでしょうね。それを精査して領主であるエレミアさんに上げるのか、部下の誰に任せるかを決めるのは所長の仕事ですよ。これからは溜め込ませないで、所長の仕事をしっかりやって貰いましょう。ベンジー兄さんから話を聞きましたよ。領主代理をやっている時は、各街の所長の仕事範囲はかなり広かったそうです。緊急措置だったそこまで戻せとは言いませんが、彼らの能力を発揮して貰って、きちんと評価してあげれば喜びますよ」
「そうですね。その方が良いですよね。皆さんを信用しているのに、お仕事を取ったらいけませんよね。アルフレッド様、アドバイスいただきありがとうございます」
未だ視界がぼんやりしているのか、瞬きしながら微笑むエレミア。
「エレミアさん、キスしても良いですか?」
「え?き?き⁉︎ええと、ええと、はい、大丈夫です、理解しました、反撃しません」
ぴょこんと起き上がり正座状態で両手をギュッと握り締め、さあ来い、とばかりに目を閉じるエレミア。小さく笑みを浮かべ、アルフレッドはエレミアの髪に、額に、頬に、そして唇に触れた。ただ触れるだけのそれは、エレミアにはとても長く感じられた。
「死ぬかも知れません」
エレミアから離れて寝転がったアルフレッドが口元を覆って、エレミアを見上げる。目は潤み耳まで真っ赤になっている。
「え⁉︎体調が悪いのですか?もしかして、小さい頃に患われていた病気が再発したとか⁉︎」
「違います。エレミアさんが好き過ぎて、エレミアさんが可愛過ぎて、そんなエレミアさんと結婚出来て、幸せ過ぎて、嘘みたいで」
「ええっ?そ、それは、ええと、私を過大評価されているとか?いえ、でも、そうとった場合、アルフレッド様の評価を私がおかしいと言っている事になりますし、ええと…」
「考え込まれると困りますね。エレミアさんが美しくて雄々しくて愛らしい女性だって事を、自覚して下さったら良いのですが、決して驕らないのがエレミアさんの魅力の一つですしね。こうしましょう、エレミアさんを心から愛している私は、幸せ者であり、愛するエレミアさんに対して自分の気持ちを嘘偽りなく伝えていると、信じていただくという事で」
『ふぇぇ』と謎の声を漏らすエレミアの頬に、起き上がったアルフレッドが口付けた。
「え⁉︎」
「はい?」
「今、エレミアさんが可愛過ぎて、つい許可も得ずキスをしてしまったのですが、反撃が無かったので…」
「え?あ、そうでした。何故でしょう?ええと、私がアルフレッド様を?好き?だから?でしょうか?」
驚きから極上の笑みを浮かべた後、『うわあ』と呟いて転がるアルフレッドの横で、真っ赤になってぱたぱたと手を動かすエレミア。
「あれ、何してるんだろうな?少年と少女の初恋か?」
「近付いたら、坊ちゃんからの恥ずかしい流れ弾に被弾しますよ」
距離を取り、安全確保に努める護衛騎士二人は『ここに領民が居なくて良かった』と心から思った。
ーーーーーー
「エクレアとチーズケーキがお勧めだそうですが、ミルクレープも季節のフルーツタルトも美味しいそうです。更に更に、ザッハトルテも絶品で、ハニーアップルパウンドケーキも人気だとか」
湖の辺りで出発時にパン屋で買ったサンドイッチの昼食をとったエレミア達は、馬でぐるりと近郊をまわってあちこち見学したのち、街に戻りカフェに入った。店員がカートに乗せて来た様々に工夫を凝らしたケーキを見ながら、エレミアは首を傾げてうむむと唸る。その隣には、嬉しさを隠しきれず笑みが止まらないアルフレッド。
向かい合わせに座った方が急な襲撃時にどの方向から来られても対応しやすい、というエレミアに対して「いやあ、オレ達いるんで、坊ちゃんの夢を叶えてあげて下さい」というアレックスと、早速座って『ここ!ここ!』と隣の椅子をぽんぽん叩く坊ちゃんの気持ちを優先した結果だったりする。
ゲンヴァルデに来るまでは、ケーキ類は摂取しても効率が悪いと思っていたのと、周囲から似合わないと言われていたので態々食べる事が無かった。無論、エレミアは恋する抜刀グリズリー細マッチョ乙女であった訳だから、女子生徒が学園のカフェでキャッキャウフフなティータイムという姿に憧れてもいた。しかし、一緒にお茶を飲む相手も居らず、勉強に鍛錬にと忙しい毎日だったので、横目で眺める程度に留めていた。
ケーキを食べた事は当然ある。学園入学前は婚約者だったサフィニアと城で定期的なお茶会をしていたし、王妃主催のティーパーティーにも参加していた。唯、サフィニアとのお茶会には妹のリアンナが参加して来て、サフィニアを見ながら二人の話を聞く事に集中してしまって味などほぼ分からなかったし、王妃のパーティーではもてなし側として警備の確認や茶菓の確認などをし、一通り挨拶後は飲食前に退室していた。
「そうですね、私が二種類頼むので一口ずつどうぞ。アレックスは三、トリスタンは五、いけるな?」
「あー、まあ、ソウデスネー。姫さんの分取ったらこっちのテーブルにまわしてくれれば大丈夫デスヨー」
「そんなご迷惑をお掛けするのは」
「私はエレミアさんに関する事で迷惑だと思った事はありませんよ。寧ろ、幾らでも頼っていただきたいと思っています。それから、トリスタンは甘党です。食べられなかった分は、また一緒に来た時に順番に食べましょう」
ずらりと並んだ10皿のケーキの一つを一口分切り取ってエレミアに差し出せば、カフェ中の視線が突き刺さる。昨日から『今日の領主は公休なので直接陳情禁止』という通達を掲示、通知しているので、近寄って来る者はいないものの、常識的な範囲であれば接近制限は掛けていないので、通常業務のカフェにエレミアとアルフレッドが入ったという事で、大量の見物客に囲まれている。
そんな中での『あーん』攻撃に、焦りながらも期待を裏切るのは宜しくないという判断で、しっかり受け止めたエレミアに対して見物客が盛り上がる。彼らにとって、治安維持の為に片手で人を吊り上げたり、地の利を生かして路地を逃げようとする相手を建物の壁と屋根を伝って追い詰めたり、レディ達の相談を真剣に受けたり、魔獣の死体を引きずって歩いているのが普段の日帰りでやって来る領主というものであったりする。
「アルフレッド様、自分で食べた方が落ち着くので、そうさせていただけませんか?」
「そうですか。残念ですが、しつこくして嫌われるのは嫌なのでお終いにします」
「?私がアルフレッド様を嫌いになる事はありませんよ?実は油断させて殺そうとしていると言った事があれば別ですが。あ、当然、アルフレッド様に全面的に信頼しておりますので、殺意とか害意は例えとして言っただけですのでご安心下さいませ」
「くっ!エレミアさんは私を喜ばせ過ぎです。幸せで死にます」
「幸せで人が死ぬとしたら、ゲンヴァルデで皆様に大切にしていただけている私は既に数回死んでますわ。勿論、皆様の中の一番がアルフレッド様です。いつも私の事を考えて下さって有り難うございます」
「そ、そうですか。こちらこそ有難うございます」
真っ赤になる二人は気が付いていないが、カフェは微妙な空気に包まれていた。恋愛初心者的な生き物は、ちょっと離れて見る分には面白いのだが、目の前でやられると胸焼けがする。
半月掛けて領内をまわってヴァイツェンの門に近付いた所で、遊んでいた子供達が気付いて寄って来た。何人かが街の中に走って行く。
「「「「「「お帰りなさい」」」」」」
「王子様が居なくて寂しかったよー」
「留守の間」オレ達が姉ちゃん達を守ってやったぞ!」
「お土産は?お土産は?」
「こらこら、馬に近付くと危ねえぞ」
「赤ちゃんはー?赤ちゃん出来たー?」
「領主のお姉さん、赤ちゃん作る旅行に行ってたんでしょー?」
「王子様の赤ちゃんは王子様ー?」
「お前らー、赤ちゃんの話はなー、結婚してからじゃないと話しちゃいけなんだぞ。そういうのは自分の母さんに聞いとけー」
「りょこー行くと、赤ちゃんできるんだよー」
「だよなー。うちのねーちゃんもりょこー行ったあと、赤ちゃんうまれたぞー」
子供達の話に、首を傾げるエレミアをゆっくりと領主館の方へ促すアルフレッド。
「旅行って、色々な効果があるのですね」
「そうですね。個人差もあるかと思いますが。エレミアさんは楽しかったですか?」
「ええ、とても。アルフレッド様のお陰です。今迄気が付かなかった事がいっぱいありました」
「そうですか。ではお礼を戴いても?」
「私に出来る事でしたら。でも個人的な資産は殆どありませんの。先に申し上げておきますと高価な物は無理ですわ」
「物ではなくて、言葉でお願いしたいのです。アルと呼んで頂けませんか?出来れば、この後、二人きりになった時に」
「え?あ、はい。頑張ります」
「頑張る必要があるのなら無理にとは言いませんが」
「いえ、呼べますわ。お任せ下さい」
「では、お任せ致します」
「はい!であれば、アルフレッド様、いえ、アル様も、私をエレミアと呼んでいただけますか?ミアでもエミーでもエリーでも結構です。ゲンヴァルデに来るまで、名前で呼んで来たのは家族だけでしたし、その家族の繋がりを失った私と結婚して下さったアル様に呼んで頂けたら嬉しいです」
「え、あ、が、頑張ります」
そう決まったのなら急がねば!留守の間の政務も把握して置きたいし、出先で気になった事も纏めたいし、とエレミアは大きく伸びをしてからアルフレッドに手を差し出した。
「一緒に帰られますか?それとも後からゆっくりいらっしゃいますか?」
リードするエレミアも素敵すぎる。と思ってつい頷いたアルフレッドは次の瞬間、見事にお姫様抱っこをされたまま、大通りを疾走される。盛り上がるヴァイツェンの景色が後ろに流れていく。
「移動で少々鈍った体も鍛え直さないといけませんわ!それと旅行に行った夫婦には赤ちゃんが出来るそうですから、出産の準備もしなくては!他の街の特色を纏めて、ブルーメンを観光地に!もう楽しみで仕方がありません!」
あ、これ、ダメなやつ。
そして、今回の旅行で赤ちゃんは確実に無い。
降ろしてもらうのを諦めたアルフレッドは、お姫様状態で運んで貰いながら、他の街や村の改善案を考え始めたが、子供に対するエレミアが持っている間違いを自分に正せるだろうかという大問題に頭を悩ませたのだった。あうあ。
そんなこんなでリリーアイボリーの女将を代表とするヴァイツェンのレディ達と、他の街のレディ達が、敬愛する辺境伯のデリケートな後継話に切り込み、最高の栄誉を手に入れるのはどこの街だ⁉︎と水面下での抗争もあったりしたが、エレミア24歳の時に娘が、25歳の時に息子が無事に産まれた。
エレミアの妊娠が判明した後、先ぶれ無しで王都から王妃に寄って派遣された、ゲンヴァルデ王女、セシリア公爵夫人による義娘保護大作戦は『私達の辺境伯の感動の立ち合い出産権を王妃様にとられた!』と領内のレディやマダム達を憤らせたが、セシリア公爵夫人の『出産後直ぐに魔法映像中継します』という言葉であっという間に収まった。誰も口には出さないが、エレミアの辞書には安静という言葉が欠落しているが、流石に王城では周囲の護衛や侍従に迷惑を掛けてまで通常運転しない筈だから、保護された方が安心だろう、と。
義娘保護大作戦はご丁寧に一番ごねるだろうアルフレッドが王妃の策によりヴァイツェンを離れている時に決行されたので、戻った時の絶望っぷりの表情と姿は街の芸術家達の心を震わせ、出産祝いには『絶望する男』の石像、銅像、油絵、水彩画、クロッキー画等が、領主館に届いた。
流石にエレミアの様に3歳で武術の基礎を開始、という無茶はアルフレッドが止めたものの、毎日強めの鍛錬に励んだり、出掛けた帰りに大型魔獣を引き摺って帰って来る母親を見た子供達はガッツリ影響され、無茶をした姉弟が「助けてー!叱られるー!」と街を逃げる姿が見られた。
因みに、追っているのはアルフレッドと護衛の二人で、エレミアは逃げる前に捕獲するので姉弟は「母上から完全に逃げられる様になる」という目標をたてた。その目標の為に、手段として街中に『異様に鬱陶しいが安全を考慮したブービートラップ』を仕掛けまくり、街の広場に正座させられ大人達に叱られるという黒歴史が刻まれたりした。
そして更に時が経ち、二人は領地をまわったり、出現する魔獣を倒したり、子供達に翻弄されたり、領民と手とりブルーメンを発展され、エレミアとアルフレッドは幸せに幸せに暮らしました……。