常世を描く霊性の翅
スラム街の地下バー・イエスにて。
霊性器官フィクトは、確かに生を手離すと言った。
「それは死にたいってことか?」
「いかにも。我が主は常世の王となって、終わりの無い生を味わっている。この世にもはや触れるべきスピリチュアルはないのだと知りながら、現実に屈し切れなかったがために死に損ない、そして浮世に触れるため我が生まれた。自らを殺してくれる者を探すために。しかし、それには大きな障害があった」
フィクトはあまりに妖精らしからぬ真面目な口調で語り、妖精らしからぬ真剣な表情でいた。
「ユートピアに、フィクトというスピリチュアルに触れられる者が居なかった。そして我が身を観測できるのは、同じく死にたいと思う者だけだった」
フィクトの言葉で、俺はクラウドのほうを見る。何も言わずとも説明を始めてくれる。
「恐らく理想による枷でしょう。理想世界では理想人の力は理想に依存しますが、それだけで理想を達成できるほど単純ではない。例えばユーサ、君の理想の力は、安楽死以外で死ぬことを拒否する性質。ですが、理想を捨てるか、安楽死がない限りは、永遠に死ねない」
ああ、なるほど。それはだいぶグロテスクな話だ。
つまり、理想とは遂げるか諦めるまでは終わってくれないものだということ。
自らの手によってしか、幕は下りないのだ。
どれだけその理想が叶わなくて、子供みたいに泣きじゃくろうとも、狂ったように笑おうとも、永遠にそれが続く。
理想に届く日が先か、心折れる日が先か――
いつ来るのかも分からない、その瞬間を待ち続ける。恐るべきグランギニョールだ。
「触れるべきスピリチュアルがない、という言葉から読み取るに、おそらくは生を手離すという理想以前に別の理想があった。そしてその理想が成就した結果、それはどうやら自分のイメージと違っていた」
「えっ、そういうのあるの?」
「理想自体が具体的でなく、曖昧なイメージだとそうなることもままありますね。僕も何度か経験しています。あのショックは本当に、全身に力が入らない」
理想を遂げたはずだったのに思ってたのと違うって、もうなんか詐欺の類なんじゃないかな。しかもそれがままあることとは。
「死にたいと思っている者にしか見えない妖精……」
「僕も見れますね」
「クラウドは救世主だし、俺の理想も理解してくれるあたり、例外的な存在なんだろうな……クラウドの救世理想があればフィクトも救われるんじゃないか?」
我ながら天才とまではいかないまでも、妙案であろうと思った。
「確かに、とはいえ今すぐにとはいきませんが」
「そういうわけでフィクト、お前の理想は叶いそうだ」
「……不思議な理想人」
「不思議?」
「他人の理想を叶えようとする。不可思議。自らの理想を最優先にすべきであるというのに」
なるほど、そう言われてみると自分でも妙だ。
クラウドみたいに他人の理想を叶えること自体が理想ならともかく、自分の理想がありながら、それを後回しにする。
とはいえ、俺の理想は現状誰にも奪えないし、誰も叶えられないのだが。
「最優先って言っても、クラウドの救世理想が完成するまで待つしかないし。それなら、ただ待ってるよりはクラウドの理想を手伝った方が俺の理想のためにもなるし、それに……その方が負い目が無い」
「ふふっ、まったく、変人ですねユーサは。兎角、僕たちは貴方の理想に協力しましょう、フィクト。貴方の理想は必ず救います」
クラウドは俺に言ったときのように、フィクトにも救済を誓う。
「……ユーサ、自らの死を望むオマエに、我が主は会いたがっている。常世への招待状を送る」
「招待状?」
フィクトは小さな妖精の身で、人間用の手紙を羽が纏っている光から取り出す。
俺はそれに受け取ろうと手を伸ばし――。
「ダメだユーサ! それを受け取ってはいけな――」
「もう遅い」
クラウドの弾けるような声が途切れ、フィクトの妖精とは思えない冷徹な声が響く。
薄暗いバーだった周囲の景色は、一瞬にして立ち並ぶ摩天楼へと変貌していた。
青紫色の夜空、一つとして光が点っていない街灯、無人の建造物、そして、それらに張り付いている大量の繭。
「ようこそ常世の繭へ。浮世から隔絶された隠世へ。繭におわすは常世神。理想の強さが仇となった、哀れな不死の神です」
「……常世神ってなに?」
「アゲハチョウの幼虫を神に見立てた、人が縋り、人を幸福にするために創られた神。常世は不老不死の理想郷。彼女は様々に思い描いた変容を、それぞれ可能性の繭の中に注ぎ、液状の夢として羽化の時を待っている。我が身もその一つ」
小難しい言い方をされて難解だが、つまりはこういうことか。
「常世神は、生まれ変わりたかったのか?」
「彼女は生まれ変わらせたかった。醜悪な自身を、残酷な現実を、美しい蝶にしたかった。フィクト・メタ・モルフォ……常世神となった彼女は、生まれ変わるが故に決して終えられぬ悲劇の少女。幾度生まれ変わろうとも、現実の象徴たる蜘蛛の糸に絡め取られ、食い殺される。そしてまた生まれ変わる」
理想人、フィクト・メタ・モルフォ……彼女の描いた夢はきっと、現実を覆すような架空。あの蜘蛛は彼女にとって現実の象徴で、それを返り討ちにするような非現実。
現実を覆したいという理想と、現実に終わらせて欲しいという理想。
相反する理想は拮抗して、叶いもしなければ潰えもしない永劫の時を生まれ変わり続ける。
ここにあるのは、もはや理想じゃない。理想を手離さなかった少女が辿り着いた袋小路。ただの悪夢だ。
「なるほど……これを終わらせて欲しいってことか。このグランギニョールを」
「どうか、希う。誰もが己の理想を叶えるこの世界で、交わることすらない常世に閉じ込められた少女の悪夢。終わらせ給え」
とはいえ、どうしたものか。俺は自分が死なないことで精一杯の常人だ。招待状はクラウドに渡すべきだったろう。
「救世主では彼女を理解できない。彼女に必要なのは救いではなく、理解者」
「俺はむしろコミュニケーションには向かない性格だが……まあやるだけやってみるか。確かに、死にたくても死に切れないところは似てるかもな」
俺は妖精に導かれるまま、ここから見える一番大きな繭に向かう。
ビルの隙間から、大小さまざまな芋虫がこちらを覗いている。軽く死にたくなるグロさだが、蜂や百足みたいな攻撃的なタイプじゃないだけマシだ。
ビルに入り、階段を上り、屋上に出る。
糸で編まれた橋を渡り、大きな交差点の上に出来た繭へと近付く。
「さて、繭の上に来たわけだが……」
「手を繭に」
言われたとおりに触れる。妙に暖かい。そう思った瞬間――繭を突き破って出てきた手に、手首を掴まれる。
「うおっ!? えっ、なにこわっ!?」
「我が役目は終わった。願わくば汝に、良き架空があらんことを」
糸は蜘蛛の巣のように粘り、俺の手足を捕らえ、身体は底なし沼のように引きずり込まれていく。
「ちょっとホラー色強すぎない?」
最後に大きく息を吸って、繭の中に沈んでいく。
深い霧の中に居るような視界、まるで水中に沈んでいくような感覚。
身動きを取るには重く、しかし呼吸に支障はなかった。
しばらくすると、真っ白な霧のなかで何かが映し出された。あれは……俺がまだ死にたいと思う前に抱いていた願望や欲望の数々だ。
優しい両親、裕福な家庭、信頼のおける親友や恋人。幸せな家庭、充実した趣味……そして安らかな最期。
俺の前世には、何一つなかった幸福の詰め合わせ。
それが目の前に浮かんでは消えていく。
どうやらシミュレーターメサイアと似たタイプの効果を持つ霧なのだろう。
それが終わると、いよいよそのまま、ずっと、何もない時間が続く。
沈黙に耐えかねて、俺の方から問うことにした。
「強引に招くだけ招いといて、お茶の一つも出ないのか」
「っ……」
微かな声が聞こえた。
すると、突風が濃霧を吹き飛ばす。
開けた視界には色とりどりの花が咲き誇り、一瞬にして周囲は花畑と化した。
そして、ひらひらと舞う蝶たちの中心に、一人の少女がいた。
闇夜を纏う様なドレスと、その中で輝く月の様に輝く淡い金の目と、長く垂れた髪。
胸元から肩まで大きく露出したドレスはだらしなく着崩されて、見るからにやつれていた。
「はじめ、まして……」
「フィクト・メタ・モルフォっていうのは……」
「ワタシのこと。ワタシの夢に、ようこそ……」
地の果てまで埋め尽くす花々、舞い踊る色とりどりの蝶々。
底抜けの青空と、穏やかに頬を撫でる風……。
「まあ、なんていうか、羨ましいな。まだそういう感性があるだけ、生きようはある」
「ボクは……ボクには遂げたい理想がある。でも、もう耐えられない。楽になりたいとも思ってしまう……キミは違うの?」
俺は首を横に振った。
「そもそも俺にとっては理想なんてものさえ余分に見える」
「どうして……そんなひどいことを言うの?」
「何が酷い?」
「理想は誰にとっても、絶対に譲れないもの……アナタなら、ボクのことを分かってくれると思ったのに……」
「凄まじい勘違いをされてるな。少し訂正させてもらうとだな……」
どうやらフィクトは俺の死にたいの意味を履き違えているようだ。
俺の死にたいが、逃避の肯定と見ている。だが、それは違う。
「俺にとって、これ以上生きることに意味はない。だから死にたい。それが俺だ。一方、お前はそうじゃない。死にたいのではなく、救われたいと思っている」
「っ……」
「もし違うというなら、どういう死に方を望むのか答えられるか?」
「それは……お花畑に囲まれて、妖精たちに看取られて……」
「それだ、お前は死にさえ幸福の理想を見出している。俺とは違う」
「じゃあ、アナタはっ!」
弱弱しい声に、微かな怒気がこもった。
「アナタは、なんで死にたいの……?」
「生きることに、意味を見出せなくなった」
俺はそれに対して、ただ正直に告白する。
「不幸はお前も知っての通り、身を刻み心を砕く。死が救いになるほどに。だが、手にした幸福もまた過ぎ去っていく」
「それが、常世の永劫だとしても……?」
「握りしめた幸福は、時間と共に朽ちてしまう。おそらくは永遠でさえも、心は幸福に飽きてしまうだろう。だから無駄なものは尽く切り捨ててきた人生だったが……」
どうせ死ぬのなら、どうせ飽きるのなら、飽きる前に死なせて欲しいと思った。
かけがえのない幸福をそのままに、幸福を感じられるまま死ねれば良かったのにと思う。
「でも、もう飽きた。幸福のために娯楽を貪るのさえ、億劫になってしまった。だから、幸福も、不幸も不要。こうなったらあとは安楽に死ぬこと以外に何を望めばいいのか……だがお前は違う」
「ワタシは……」
少女の心が揺れているのが分かる。繭の中に満たされた液状のフィクションが嵐の海のように荒れている。
「モルフォ。フィクト・メタ・モルフォ。こんな悪夢、さっさと手離してしまえばよかったんだ。常世だろうとなんだろうと、理想を手離せば潰えるのが理想世界のルールだと最初に聞いた。でも、お前はしぶとく理想にしがみついている……正直、死にそうなくらい羨ましいと思う」
「羨ましい? ワタシが、羨ましい……何も、何も理解していないくせに、知った風な口をきくなぁッ!」
怒声は液状のフィクションに響いて、衝撃となって俺の身体を打つ。
それも、俺の体質が掻き消した。
「少なくとも、お前には心が残っている。死ぬ以外の何かにしがみ付けるほどの力がある。理解されないと嘆き、悲しみに怒る気が湧くのなら、まだ間に合うんじゃないか?」
「間に合うって、何に……」
「死ぬよりはマシと思える理想を、叶える時間はまだ残されているってことだ。死ねないからといって、死にたいわけでもないんだろう」
こんな誰も触れられない常世、隠世とも言うんだったか……こんなものが未だに存在しているのが、理想の強さを物語っている。
「ひとまず俺が安楽に死ぬ際までは、モルフォが理想を遂げる手伝いをしよう。それまで死ぬのは保留にしてもいいんじゃないか?」
「アナタが、ボクの理想を……」
そこまで来て、俺はモルフォの理想を知らないことに気付いた。
生まれ変わってまで、生まれ変わり続けてまで、どんな理想に辿り着きたかったのか。
「って、考えてみたらまだモルフォの理想は聞いてなかったな。ちょうどいい、聞かせてくれ。どんな理想が、お前をそこまでさせたのか」
「ボクの、理想……ボクの、フィクト……フィクト、フィクト、ボクの大事なフィクト……」
繭の中の液体が荒れ狂う。
水中は緩み、霧中となって、幻のように光景が映し出される。これこそが、モルフォの心象だろう。
「ボクの理想は、この世ならざる世界を、見ること、だった……」
見えていても、手には届かない世界を信じていた。
見えないとしても、手に触れられる世界を信じていた。
夢の中、謳歌していたその世界を、私は現実だと思っていた。現実だと思っていたかった。
そして、望んでいた。いつかその世界の住民になりたいと。
虹のような色とりどりの魔法と、幻想に辿り着きたい。その一心で、胸に秘めて生きてきた。
きっと自分はこの想いを護り続けるだろうと。
いつからだろう、現実がボクを変えたのは。
現実はどこまでいっても現実で、憧れた夢は現実にはならない。
残酷な世界で、ボクが縋ったのは架空だった。
空に架けると書いて、架空。それは、非現実を自分の世界に産み落とす行為。
【霧中に夢中の常世彩幻、永遠なれ架空の隠世】
それが、理想。ボクの理想、だった。
そして叶えた。その先にあったものを知りもせず。
結果を言えば、ボクは嫌っていた現実そのものだった。
美しい世界に憧れていながら、それでも醜い現実はボクが生きるに相応しい世界だった。
夢を見ていながら、ボク自身は空っぽだったんだ。現実と同じように。
所詮は憧憬で築き上げた張りぼてのフィクション、ボクの心は磨耗して、愛することさえ出来なくなっていた。そしてそんな自分が醜くて仕方が無かった。
死にたかった。生まれ変わりたかった。
醜悪な自分を放り捨てて、架空に相応しい、理想の自分になりたかった。
もし、理想の自分になって愛を謳歌できたら、その時はきっと……。
すべきことは二つ。まずは自分が架空に相応しい存在に生まれ変わること。
そして、より多くのフィクトを浮世から集めること。
「そうやってボクは、理想のボクを夢見て、何度も、何度も……死に続けたんだ」