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和善かずよしくん、最近悩んでることってない?」

「えっ?」


 学校からの帰り道、僕は唐突にそんなことを聞かれたので、驚いてしまった。

 悩みなら、ある。それもかなり重大な悩みが。だけどそれを彼女に告げるわけにはいかない。


「別にないよ。どうしたの突然?」

「う、うん。ちょっとね、変な噂聞いたんだ」


 隣を歩く彼女は、声を小さくしながら俯く。するとその場に立ち止まったかと思うと、意を決したように言った。


「和善くんが……新堂しんどうくんたちにいじめられてるんじゃないかって……」

「……!」


 彼女の言葉に、思わず僕は息を呑んだが、寸前のところで平静を保つ。


「そんなことないよ。新堂くんはただのクラスメイトだよ。別に仲が良いわけでも悪いわけでもないさ」

「それなら、いいんだけど……」


 僕の言葉を聞いた彼女は、顔を上げる。わずかに茶色く染められた髪の毛先が揺れた。


「でも、もし困ってるなら私に言ってね? 私じゃ和善くんの力になれないのかもしれないけど、せめて相談くらいには乗れると思うから」

「うん、ありがとう、朋江ともえちゃん」


 朋江ちゃんの健気な思いに、僕も頼ってしまいそうになる。だけどダメだ。彼女を巻き込むわけにはいかない。


 いくら僕がクラスメイトの新堂文也しんどう ふみやからひどいいじめを受けていたとしても、自分の彼女である夏木朋江なつき ともえを巻き込むわけにはいかなかった。



 翌日。


「ぶぐっ! おええっ!!」


 僕はいつも通り、新堂とその取り巻きたちに呼び出され、男子トイレの大便器に顔を突っ込まされた。こうなるのは初めてのことではない。この高校に入学してから、何度もあった。

 だけど何度もあったからといって、便器に顔を付けることに慣れるわけがない。だから僕は気持ち悪さに耐えかねて、トイレの床に吐瀉物をまき散らす羽目になった。


「あーあ、汚ねえな。白田しろたよぉ、お前ゲロ吐くなら便器の中にしろよ。折角そこに顔を入れてやったんだからよ」


 見下しながら、新堂が僕を詰る。床を向いている僕にその顔は見えなかったが、ヘラヘラと笑っているであろうことは容易に想像できた。 床にへたり込んでいる僕の襟を新堂の取り巻きである勝浦かつうらが掴んで、強引に顔を上げさせてきた。


「新堂くん、白田のヤツ何か言いたいみたいだよ」

「おー、そうかそうか。白田くーん、何か言いたいことあるんですかー?」


 僕に目を合わせた新堂の顔は、やはり凶悪な笑みを浮かべていた。ヘアバンドで後ろに流した金髪に、アゴヒゲを生やしたいかにも不良といった容姿。

 しかしその顔で特徴的なのは、やはり左の頬にある大きな傷痕だった。鋭利な刃物で切り裂かれたように見えるその傷痕は、高校に入学する前にケンカで付いたものだと噂されている。そしてそのケンカで、顔に傷を付けた相手を障害が残るほどに痛めつけたという話も噂になっていた。


「ボーッとしてんじゃねえぞ白田ぁ!」

「うぐっ!」


 無防備な僕の腹に、新堂の強烈な前蹴りが放たれた。その痛みに耐えかねて、僕は再び踞ってしまう。


「俺はさ、『何か言いたいことがあるか』って聞いてんだよ。はっきり物を言えないお前にさ、ちゃんと自分の意見を言えるように練習させてるんだよ。それなのにシカトするとか、失礼じゃねえのかなあ!?」

「あ、あの……」

「あ? なに?」


 苦痛に耐えながら顔を上げて、僕はどうにか意志を伝えようとする。


「も、もうこんなことはやめ」

「クセえんだよ!」

「ぐっ!?」


 しかし言い終わる前に、僕の顔には新堂の蹴りがぶつかっていた。


「白田くーん。そんなゲロまみれの顔で何か言われてもさー。聞き入れる気になんないんだよね。ということで一度顔を綺麗にしてくれるかなー」


 そう言うと、取り巻きの一人である釜石かまいしが、勝浦と共に僕を立たせて、再び大便器に顔を近づけさせる。


「や、やめ、やめて!」

「顔を綺麗にしてやるって、遠慮すんなよ」

「そ、そんな、こんなの、汚いよ」

「今のテメエの顔ほどじゃねえよ!」


 有無を言わさず、僕の顔は再び便器の中に突き入れられた。


「がぼっ! ぐぼおっ!」

「よーく綺麗にしような。そしたらお前が何を言うのか聞いてやるよ」


 便器の水に混ざっている微かな塊が僕の顔にぶつかるが、それが何なのかは考えたくもない。だけど僕に顔を上げることは許されない。


「さーて、白田。お前は何を言いたいんだー?」


 新堂は僕の頭を掴んで便器から引き上げる。ようやく発言の機会を与えられた僕は、今こそはっきりと拒絶の意志を表そうとした。


「もう、こんなことはやめてください……」

「んー? 『こんなこと』ってなんだ? お前の顔を綺麗にすることか?」

「そ、そうです……」

「そうか、じゃあ汚くしてやろうか」

「え? いや、そうじゃな」

「遠慮すんなよ!」


 僕の言葉は聞き入れられず、今度は顔を床に散乱した吐瀉物に擦りつけられた。


「や、やめ、やめてぇ!」

「ああ? お前が『顔を汚してください』って言ったんだろ? 俺たちは親切にお前の言葉を聞き入れたんだよ。なあ?」

「そうだぞ白田、新堂くんの言う通りだ。俺たちは優しいだろ?」

「全くだよなあ」


 三人で自分たちの正当性を勝手に確かめ合う一方で、僕の正当性はこの場には全くなかった。これが今の僕の日常――白田和善しろた かずよしは、この三人によって地獄にも等しい日々を送らされていた。



 一時間後。


「う、ぐ……」


 新堂たちは満足したのかトイレから去って行き、僕は一人で汚れた顔を水道で洗っていた。

 なぜこんなことになったのか、僕は思い返してみる。この高校に入学して一ヶ月くらい経った頃、新堂からのいじめが唐突に始まったのだ。


『お前、今日からサンドバッグな』


 そんな言葉をかけられた直後に、突然取り巻きの勝浦と釜石が僕を取り押さえ、新堂が僕をサンドバッグに見立てて、殴る蹴るの暴力を振るってきた。

 当然ながら、なぜこんなことをするのかと問いかけた。しかしそれに対して、新堂はこう返してきた。


『お前が、俺の大切なものを壊したから』


 そう言われて、僕はその日の昼休みに新堂の消しゴムを誤って踏みつけたことを思い出した。当然その時に謝ったはずだが、どうやらまだ彼は怒っているらしいと、その時の僕は勘違いしていた。

 だから僕はもう一度謝った。しかし新堂は、こんなことを言い出した。


『あれさ、じいちゃんからもらった大切なヤツなんだよね。どうしてくれんの?』


 そう言いながら、新堂はさらに僕を殴りつけた。しかし僕の記憶では、新堂が持っていた消しゴムはどこででも買えそうな単なる消しゴムだ。そんなものがおじいさんからもらった大切なものであるはずがない。

 つまり新堂はただ単に僕をいじめる口実が欲しかっただけなのだ。しかしその時の僕は、新堂の怒りから逃れるために必死で謝った。だがそれがいけなかった。


『申し訳ないと思うならさ、お前俺の頼みを聞いてくれよ』


 それからというもの、新堂は僕に様々な要求を出してきた。ある時は新堂たちの昼食代を払わされ、ある時は万引きを強要された。


 そして今、僕は未だ新堂たちに逆らえずにいる。勇気がなかった。新堂の強さと残酷さに立ち向かう勇気がなかった。 

 だけど僕は思う。他人をいじめるようなヤツはクズだ。ましてや集団で一人をいじめて優越感に浸るようなヤツらはクズに決まっている。そしてクズが報われることなんてない。きっといつか、奴らには天罰が下るはずだ。

 そしてその時まで耐えきれば、僕の勝ちだ。僕は三人にいじめを受けている被害者だ。そのことが明るみになれば、きっと世間は僕の味方をする。


 僕はいじめる側の人間とは違う。あんなゲスな奴らとは違うんだ。


「おい、邪魔なんだけど」


 その時、トイレの入り口から僕に声をかけてきたのは、クラスメイトの七瀬克也ななせ かつやくんだった。彼は新堂の仲間ではないが、かといって僕の味方というわけでもない。僕がいじめられてから、大半のクラスメイトは僕に関わろうとしてこなかった。


「ご、ごめん」


 僕が身体を引くと、七瀬くんはトイレの中に入っていく。小便器の前で用を足しながら、彼はこちらを向いた。


「お前さ、なんか腹立つよな」

「え?」


 突然の言葉に、動揺してしまう。まさか彼も、僕をいじめようとしているのだろうか。


「ご、ごめん」

「あー、腹立つ。本当は自分が悪いなんて少しも思ってねえのに、すぐ謝って済まそうとするところとかな」

「……」


 僕が黙っていると、用を足した七瀬くんは水道で手を洗い始める。


「びくついてんじゃねえよ。別に俺は新堂たちみてえなことをするつもりはねえ」

「え? じゃ、じゃあ」

「だからってお前を助けようとは全く思わないな。正直お前、ムカつくもん」

「な、なんで……?」


 手から水を払うと、七瀬くんはこう言った。


「『自分は可哀想ですよー』ってのが前面に出てるからだな」


 僕を侮蔑するような視線を向けた後、彼はトイレから出て行った。


 なんでだ、なんでここまで言われないといけないんだ。そもそも僕が何をしたっていうんだ。悪いのは全部アイツらじゃないか。


 だけどそう思いながらも、今はまだ耐えるしかなかった。

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