兄の帰り
それはまるで日常を引き裂くような雷鳴だった。
電話の音がこんなにも憎いと思ったことはない。
私の携帯かと思ったけどそれはお母さんの携帯の着信音だった。
「もしもし」
お母さんはなんでもないみたいに普通にその電話を受けて、
「え……」
顔を青ざめた。
はい、はい、とお母さんは丁寧に相槌を打って、
喜翔の心地よかった相槌はお母さん譲りなのかなんて考えたりした。
親譲りの何かを持っているということは元々家族だったということだと、
喜翔との血縁を思い出して吐き気がした。
お母さんはその電話を切ると、青ざめた顔のまま、リビングで本を読んでいた私の方を向いた。
「し、しの」
お母さんのこんなにも不安そうな表情を見たことがない。
お母さんは縋るように私の腕を掴んで言った。
「もう二度と飛び降りたりしないわよね……?」
お母さんがどうしてそんなことを訊くのか分からなかった。
きっと今かかってきた電話が関係しているのだ。
「なんの電話だったの?」
私はお母さんの質問には答えずにそう訊いた。
お母さんはゆっくりと、少し低い声で言った。
「おばあちゃんが倒れたの。もう喜翔の面倒を見る人は私たち両親以外にいないのよ。
まだ未成年の喜翔は私たちが面倒を見なきゃいけない義務があるの。……わかるわね?」
そういうことかーー私は絶望した。
「つまり、喜翔がこの家に戻ってきて、一緒に暮らすことになるのね?」
「ええ、そうよ……」
お母さんはとても不安そうな顔で私を見ていた。
「いい?しのが飛び降りた日の話をするわ」
お母さんは静かに語り始めた。
あの日、出かけてくると一言だけお母さんに伝えて、
お母さんはニアと会うのだと思って快く送り出したこと。
数時間後、病院から私が飛び降りたと連絡が入ったこと。
頭を強く打っていて目を覚ます可能性は限りなくゼロに近かったこと。
目を覚ましたとしても障害が残る可能性があること。
それでも両親は何度も相談を重ねて、私が目を覚ますことを信じて延命治療を行うことに決めたこと。
私が飛び降りた一週間後に喜翔が私に意地悪をしたことを両親に告白したこと。
それに怒ったお父さんが喜翔をおばあちゃんの家に置いてきたこと。
喜翔は何度も抗議したけどそれでも両親は喜翔を許さなかったこと。
三年後、喜翔は自分の手首を切って自殺を図ったこと。
それで私と同じ病院に運ばれて精神科に入院することになったこと。
その数日後に私が目を覚ましたこと。
「同じことを繰り返して欲しくはないのよ、しの。
これはお母さんからのお願いだけど、もう飛び降りたりして欲しくないの。
しのにも喜翔にも自分の命を粗末にするようなことをして欲しくはないのよ。
もうあんな気持ち、味わいたくないわ」
お母さんは目に涙を浮かべていた。
「怖いのよ、しの」
お母さんがどれだけ心配で不安なのか、その顔を見れば痛いほどにわかった。
「お母さん、私が飛び降りたのはきっと喜翔への復讐よ。
お兄ちゃんが手首を切ったのはきっとお父さんとお母さんへの復讐よ。
どうすればこの連鎖は終わるのかしら」
「あなたの中にはまだ喜翔への復讐心は残っているのね?
だったら喜翔がこの家に戻ってきてまたあなたに意地悪をしたらまた飛び降りるの?」
「分からない。同じ家で暮らすにしても、極力喜翔には関わりたくない。顔も見たくない」
私はまた叫びたくなった。もう小さい頃の仲のいい兄妹には戻れない。
あんな酷いことをされたら許せない。絶対に。
お母さんは更に不安そうな顔をした。
だけどどんなこと言ったってどう足掻いたって喜翔はこの家に来る。
私が住むこの家に。
「できるだけ喜翔とは関わらないように、ご飯も喜翔の分は部屋に運ぶようにするし、
部屋も離れたところに構えるわ。しのの部屋には鍵が付いてるし、
お母さんがパートで家を空ける時も大丈夫よね?」
「うん、きっと大丈夫」
お母さんがいない時間はイヤホンで音楽を聴いて過ごそう。
そうやって遣り過ごそう。できるだけ喜翔が家にいることを意識したくない。
自分にとって脅威だから。実の兄だけど、兄だと思いたくはない。




