6.ここは何処 彼は誰・・・!?(2)
「メニュー見せて下さい」
ボーイが茶色い革張りのリストを手渡す。
固定された脚の長いスツールに座り、それに目を通していると、隣に誰かが座った。
「……守屋君」
まるで見計らったかのように、彼は再び私の目の前に現れた。
「何、飲みたい?」
彼は、やはり何気ない口調でそう言葉をかける。
「ん…カンパリオレンジ」
雑誌の知識だけで知っているそのドリンク名を私は言った。
「馬鹿言うなよ。それ以上飲んで、どうする気だよ」
「だって」
「ダメ。お前、ほんとに帰れなくなるぞ」
「……いいもん。帰れなくたって」
何を血迷ったのか、私はそんな言葉を口にしてしまった。
彼は瞬間、言葉を止めた。
そして、私の顔を見つめる。
私は反射的に目を逸らした。
何、馬鹿な事言ったの?! 私……!
自分の言葉に私は自分で顔を赤らめている。
「いいこだからレスカにしとけよ、な」
しかし、張り詰めていた空気を彼はそんな言葉で破ると一瞬、私の頭に軽く手を当ててきた。
その時、髪の毛がくしゃりと音を立てた気がした。
な、なに、何よ……?!
誰が「いいこ」よ、誰が。
自分は、しっかりダイキリなんてオーダーしてるくせに!
よくは知らないがきっと強いカクテルに違いないという気が、何故かした。
自分ばっかり大人みたいな顔、してくれて……。
そんなことを思いながらも私は、それまで以上に優し気だった彼の仕草に結局、モノも言えずにいる。
彼はまるで、妹を諭すような目をして私を見ているから……。
静かな瞳。
それはいつもと変わらないのに、普段学校で見せている彼の姿とは180度違うと言って良い彼の言動にただ驚くばかり。
程なく、グラスが目の前に置かれた。
炭酸の細かな気泡が上がってくるその透明な液体を、ストローで一口飲んでみる。……美味しい。
「少しは酔い、醒めた?」
ややあって彼が静かに口を開いた。
「うん、だいぶね。でも……」
まだ半分ほど残っているグラスを見つめながら、私は言葉を続けた。
「私、もっと。酔いたかった……。そして、何もかも忘れてしまうくらい」
実際そんなことになれば困るのは自分なのに、そんな理性を捨ててしまえば、それが私の本音。
足腰が立たなくなるくらい酔っているのに、気分はまるで浮上しない。
どんどん沈み込んでいくばかり。
あの時感じていた気分の良さなど、もう影も形も見当たらない。
「馬鹿だな。そんなになるまで飲んだら吐いちまうぞ」
けれど守屋君、口調が優しい。
どうして……
私、涙溢れてきそうよ。
守屋君の肩にそっともたれかかる。
「気分悪い?」
「ううん、そうじゃない。ないけど」
言おうか言いまいか、一瞬躊躇った後、口にした。
「お願い。もう暫く肩、貸してて……」
やっぱり、まだ酔っているのかしら。
こんな台詞がすんなり口を突いて出る。
けれど守屋君、何も言わずにすっと左手を私の肩にかけた。
この人、女の子の扱い方が上手いんだ。
どことなく慣れてる、て感じの。わかる。
付け焼刃なんかじゃない。何か信じられない。
学校じゃ全然そんな風には見えないのに。
まるで、別人。
どういうつもり?
一体、何を考えているの……。
この人は私にだけこんなことをしてるんじゃない。
私だから、こんな風に優しくしてるんじゃない。
その時。
何故かはっきりとそう感じた。
理由なんてわからない。
強いて言えば、「女の勘」とでも言うより他ない思いだった。
なのに、快い感覚が全身を包んでいる。
彼の手の、躰の温もりを感じて。
気分いい……。
浩太朗君と一緒にいた時と同じ類の感覚かもしれないが、どこかが違うと思う。
だって。
これは……。
守屋君は自由な右手で、私のグラスの底に残った氷をストローでかき混ぜている。
私はずっとそれを眺めていた。
***
「純。もう大丈夫なの?」
どこからかお杏が姿を現した。
「うん。もう平気」
「彼はどうしたのよ?」
「守屋君? 踊ってるわ」
そう言うと、私はフロアを指さした。
カウンターで、どのくらいああしていただろう。
ようやく彼から離れる気になって、彼から身を起こした私を彼は元いたソファへ連れ帰った。
そこでも肩を貸してくれようとしたが、私は断った。
今度こそ大人しくしていると約束すると、彼は再び踊りに行き、私はその姿を眺めながら一人酔いを醒ましていたのだ。
「そ、か。うん。わかった」
「ちょっと、お杏?」
どこ行くの?と言おうとした時にはもう、お杏はくるりと向きを変えていた。
そして、お杏が向かった先は、守屋君のところだった。
お杏が傍に寄ると、彼は踊るのを止めた。
二人で何かを話している。
そして、再びお杏は戻ってくると私に言った。
「私、ちょっと用事があるから先に出るけど、純の事、守屋君に頼んでおいたから。彼、私ん家ちまで純、送ってくれるって。どうしたのよ? 今夜はうちに泊まる約束じゃない」
事も無げにそう言うお杏。
「お、お杏はどうするのよ?! 今頃、用事って」
「彼が車でそこまで来てるのよ」
お杏はそれだけ言うと呆気に取られている私に、
「See you ! 」
なんて言いながら、あっという間に姿を消した。
まったくあのこは行動するのが本当に素早い!
***
「ほんとに。本当にごめんなさい。今日は」
向き合っているけれど、まともに守屋君の顔を見上げられない。
「ごめんね、ほんとに」
馬鹿みたいに何度もそう同じ言葉を繰り返す。
けれど、守屋君は、
「いいよ。気にしなくて」
と、ただ軽く受け流している。
お杏のマンションの12階のエレベーターの前。
エントランスのところでいいと言ったのに、エレベーターの中も危ないからと、彼はここまで附いて来てくれた。
「じゃ、今夜はゆっくり休めよ」
「うん……ありがと」
彼がエレベーターに乗った。
守屋君、行ってしまう!
何か言わなきゃ。最後に一言。何かもう一度。
けれど、ああ、でも。
「守屋君!」
声を振り絞って、そう呼んだ。
「おやすみなさい」
そう言い終わった時に、ドアが閉まった。
赤いランプが、12……11……と、順に移り変わってゆく。………1。
それ以上、動く気配がないのを確かめて、その場を離れた。