58.冬の日の図書室のKISS(3)
その放課後だった。
「神崎。帰ろうぜ」
彼は当然のように、私の席にやってきた。
「私はピアノがあるから、お先にね!」
いつも一緒に帰るお杏は、含み笑いをしながら、先に帰って行った。
「神崎。今日、今からちょっとつきあってくれないか」
「え?どこに」
「ORANGE・HOUSE」
「お茶しに行くの?」
「そう」
***
そうして、私達はカフェ「ORANGE・HOUSE」に来た。
ここは、いつもデューク・ボックスから洋楽が流れている。
MADONMAのレトロな「LIKE・A・VIRGIN」に耳を傾けながら、私はどこかオドオドしている。
「何がいい?」
彼は、二つ折りの白いメニューを私に見せた。
「えーと……カプチーノ……」
遠慮がちにそう言った。
男子と二人きりでカフェに来たことなどない私は、まるで借りてきた猫のようだ。
「そんなにビクつかないでくれよ。取って食いやしないんだから」
「だって……」
私は下を向いた。
「俺だってほんとはキンチョーしてるよ。何せ憧れの「マドンナ」を前に、今からお茶するんだから」
そう言って笑うと、彼は黒服のウエイターを呼んだ。
そして、カフェラテ、カプチーノ。
それに、苺のショートケーキを二個オーダーした。
「私、ケーキ頼んでない!」
「いいから。ダイエットの邪魔して悪いけど、今日は食べてくれよ」
そう言う彼のまなざしは優しくて、それ以上は何も言えない。
そして、程なくオーダーが並んだ。
「神崎は将来、何になりたい?」
早速、ケーキにぱくつきながら、おもむろに彼が問うた。
「う、うん。同時通訳か、翻訳家……夢のまた夢だけどね」
「そんなことないだろ! 神崎、英語も学年トップじゃん」
「私程度の実力で通用するほど、甘くないわ」
私は言った。
「吉原君は?」
「俺はさ」
彼が、フォークの手を止めて言った。
「芸人目指してる」
彼の目の色は真剣だった。
「神崎は芸人なんて、興味ないかも知れないけど、お笑いの世界も奥深いよ。俺はいつも家でネタを考えてる」
彼は言った。
「俺は、いつか「ダウンタウン」を越えるような芸人になりたい」
それから、彼は熱くお笑いのことを語った。
普段、バラエティ番組をほとんど観ない私には、彼の話がよく理解できなかったけど、彼の芸に対する熱い想いは充分過ぎる程、伝わって来た。
カフェで私達は、一時間以上、語り合っていた。
それは、不思議に温かく、穏やかな時間だった。
***
「やだ。雨が降り出してる」
カフェを出た夕刻、空は曇天で、雨がぱらついていた。
「神崎。入れよ」
彼は鞄から小さな折り畳み傘を出して、私にさしかけた。
「で、でも。こんな小さな傘……」
「小さいから、俺に寄り添って歩いてくれよ」
彼は、穏やかなまなざしでそう言った。
ドキドキしながら、彼の隣を歩く。
雨は小降りだったけど、彼の右肩はぐっしょり濡れている。
彼は私の方にばかり、傘を寄せてくれるから……。
吉原君……。
カフェとは違い、私達は無口に歩いていた。
しかし、その傘の下の空間は、カフェの暖かい空気と同じくらい私には温かかった。
***
結局、彼は私の家まで相合い傘で私を送ってくれた。
「今日はサンキュ!」
門の所で、彼は言った。
「実はさ……」
彼は、急に照れくさそうに顔を背けた。
「今日は俺の誕生日なんだ」
「誕生日?! 十七歳の」
「そう」
「言ってくれれば、私がお茶を奢ったのに……」
彼は、私の分までお茶代を出してくれていたのだ。
「いいよ、そんなの。好きな女の子と一緒に誕生日にケーキを食うなんて、それだけで男のロマンさ」
彼は、八重歯を見せて笑う。
「じゃ、また明日もよろしく!」
そう言って、彼は背を向けた。
しかし、角の電柱の所まで来た時、急に振り返った。
私が、彼の後を見送っているのを確かめて、彼は嬉しそうに笑った。
***
その翌日からも、私は彼と行動を共にした。
朝、一緒に登校し、教室移動、休み時間を一緒に過ごし、共に帰宅の途についた。
「純と吉原君がつきあい始めた!」という噂が瞬く間に拡散したのは言うまでもない。
私は、彼の作戦にまんまとひっかかったのではないか、と思う。
これだけ噂が広がれば、「これは一週間だけの試行期間」と言っても、誰も信じないだろう。