55.恋なんて(2) ☆
口づけの前の抱擁の時──────
「男」の気を彼は、感じさせた。
そして。
私は、生まれて初めて自分が「女」であることを認識した。
守屋君……。
彼の心が欲しかった。
私はその夜、一晩中、朝まで泣き明かした。
この三日の間、私は自室に籠もり、妄想と狂気に苛まされていた。
彼を想う以外、何も手につかない。
あの夜の口づけが忘れられない……。
そんな自分に私は、恐怖した。
彼への愛に完全に目醒めてしまうことは、そのまま破滅を意味するような気がしてならかった。
そして──────
何もかも忘れてしまおうと、私は心に決めたのだ。
そんな回想に耽りながら、私はカフェ「ORANGE・HOUSE」まで来ていた。
このカフェは、この冬休みに入ってから初めてお杏と一緒に入ったカフェ。
ここは、髪通りから一筋入った路地の一角にあるロックカフェで、デュークボックスから、80年代に遡り現在に至るまでの様々な洋楽が流れている。
その重く黒い鉄の扉を開けたその時──────
私は、その正に予期せぬ出来事に遭遇してしまった。
私は、店を出ようとしている守屋君にでくわしたのだ……!
彼は、あの彼女を連れていた。
彼女は、その茶色い長い髪を綺麗に結い上げ、黒と金色の地に御所車の実に見事な大振り袖を着ている。
「あなた」
彼女は、敵意を剝き出しにした目で、おもむろに言った。
「そんな瞳をしても無駄よ。浩人は私とつきあってるんだから」
「よせよ。冴枝」
彼は、落ち着いて彼女を制する。
「何よ、浩人! この娘は玲美の身代わりなんでしょ!?」
彼女は、人目も構わず、大声で叫んだ。
彼女の茶色の大きな瞳には、大粒の涙が溢れている。
守屋君……。
私達は一瞬、見つめあう。
彼は、やはり目を細め、実に微妙な表情をした。
しかし。
「行くぞ」
それだけ言うと、彼は彼女の肩を抱き、店を出て行った。
守屋君……。
私は、呆然とその場に立ち尽くしていたが、
「お客様?」
と、黒いソムリエエプロンを着たやけにスレンダーなウェイトレスにそう声を掛けられ、慌てて彼女が案内する席へと座った。
「カプチーノとブルーベリーの生マシュマロムースケーキ」
そうオーダーを告げる。
それは、この前来た時にオーダーした品。
私はカフェで、夏はアイスコーヒー、冬は大抵カプチーノをオーダーすることが多い。
そして、そのムースケーキは生クリームや卵白不使用で、ブルーベリー独特の甘酸っぱく、さっぱりとした味のするとても美味しいムースだ。
オーダーの品を待ちながら、先程の修羅場が私の脳裏を駆け巡る。
守屋君の彼女。
激しい女性……。
人目も構わず、あれ程の激情を剝き出しにする程。
本気で彼を愛しているんだ。
羨ましい。
そう思う。
「愛すること」にあんなに素直になれるなんて。
ああ、何て素敵なことだろう……!
私は今。
彼への想いを否定しようとしているのに……。
その時、オーダーした品が運ばれてきた。
カプチーノは、とてもきめ細やかな泡立ちで、ハート型のカフェアートが施されている。
そのカプチーノに口をつける。
それは、とても舌に熱かった。
そして、ブルーベリーのムースケーキを頂いた時。
そのひんやりとした冷たい感触で。
不意に──────
守屋君とのあの夜の口づけを思い出したのだ。
彼には、玲美さんがいるのに。
私は身代わりでしかないのに。
私の黒い両の瞳から涙が零れ落ち、頬を伝い始める。
私は彼を愛している──────
それはもう、抑えきれない想いだった。
自分の心に嘘はつけない。
あの夜の口づけを忘れることなんて出来ない。
泣きながら、ムースケーキをもう一口頂く。
それは、あの夜の冷たい彼の口唇を思い出させるばかりで、私の胸は息苦しくなる。
こんなに。
こんなに辛い初めての口づけなら。
どうして恋なんてしてしまったんだろう……。
作中の挿絵は、管澤稔さまに描いて頂きました。
管澤さま、素敵なイラストを本当にどうもありがとうございました。