53.魅惑の夜(4) ☆
「……玲美、か」
そう言うと、彼は再びマルガリータのグラスに自分の瞳を重ね合わせている。
「玲美」って誰?!
私とどういう関係があるの……。
そう問い詰めたい想いを私は辛うじて抑えている。
その秘密に触れることによって、ひょっとしたら繋がっているかもしれない彼との絆を断ちたくなかったから。
彼と私の間に存在する「玲美」。
私が彼を知らない時に、彼女と彼の間にはどんなドラマがあったというのか。
それにしても「身代わり」とはどういう意味だろう。
けれど彼女は、あの茶髪のロン毛の女の子以上に守屋君の心の奥深くへと入り込んでいるのは必至のように思える。
私は知らず知らずの内に空になったグラスを両手でぎゅっと握り締めていた。
***
「DIE」を出たのは十時を回った頃だった。
昼間晴れていたから空には星が出ているはずだけれど、ネオンの光でよく見えない。
「酔った?」
「う、うん。ちょっと……」
「大丈夫?」
「……もう少しゆっくり歩いてくれる?」
その私の言葉に、彼は長いストライドを私に合わせてくれる。
こうして彼と知らない夜の街を歩くのは何度目だろう。
彼は実に入り組んだ繁華街の裏通りを良く知っている。まるで自分の庭を散歩するかのように我が物顔で歩いている。
彼はいつもこんな所をあの娘こと二人歩くのだろうか。
“彼女じゃないよ”……彼の言葉が蘇る。
それでは、あの娘は彼にとってどういう存在なのか。
あの娘の口ぶりからいって、彼と彼女はもう他人ではないように思える。
彼は彼女のことを本気では愛してないというのか。
それでは。
私のことは一体何と思っているのか……。
「翠道町の方に出るんだろ?」
「え、うん。そう」
「じゃ、こっちの方が近い」
そう言って、彼は大きな公園へと入っていった。
昼間通ったことはあるけどこんな時刻は初めて。
街中だというのに深夜の公園は、実にひっそりとしている。
そして時折、暗がりに乗じてアベックが抱き合っている光景に出くわす。
今出てきたバーと同じく、私の知らない世界だった。
店を出て五分ほど歩いたろうか。
次第に夜風が肌を刺すのを感じている。
やはりコートを着てくるべきだったと思いながら、無意識に背中を丸め腕を組んだ。
「寒い?」
「え…うん。ちょっとね」
彼の顔を見上げながら、答えた。
すると、彼はおもむろにコートを脱ぎ始めたのだ。
「ちょ、守屋君……?!」
「……はい」
私の肩に彼は、私には足首までもきそうな彼のロングコートをかけた。
「どう?」
「う、うん。あったかい……」
その大きなコートの襟をそっと両手で握りながら、結局はそう答えた。
「守屋君……?」
彼は歩き出す気配もなく、じっと私の瞳を見つめている。
私は彼のその淋しげな瞳に釘付けになった。
守屋君……!?
そして彼は突然、コートを上から両手で私を抱き締めたのだ。
息が出来ない。
動けない。
それでも、小刻みに震える躰を意識しながら私には、彼の両手を振り払えない。
彼の「男」の気を私は初めて感じていた。
狂おし気な彼の息遣い……。
そして、私の身の内を迸る感覚。
私は、自分が「女」であることを生まれて初めて認識した。
「どうして、こんなことするの……」
彼の腕の力が緩まって、私は呟いた。
「ごめん……」
彼は私を腕から解放しながらそう言った。
「私…私は……」
彼の顔、見つめる。
「私は「玲美」じゃないっ……!!」
そう叫んだ瞬間、私は彼を見なかった。
しかし、私は彼の雰囲気が一瞬変わったことを見逃さない。
二人、ただ暗闇の中、立ち尽くす。
息詰まる時間が流れてゆく……。
「キスして……守屋君」
驚くほど乾いた声を私は発していた。
彼は何も言わなかった。
ただ私を再びそっと抱き寄せ、そしてゆっくりと私の口唇に、触れた。
軽く舌を感じたけれど、それはそれはソフトなキスだった。
彼は何度も私の口唇を覆う。
私達は長いこと口づけていた。
その間中、私は一人醒めていた。
時折うっすらと目を開け、彼の顔を間近に見る。
そこには私の知らない彼がいた。
私は今この瞬間だけ自分が玲美ではないことを確信していた。
初めての口づけは苦い煙草の味がした。
作中、イラストは汐の音さまに描いて頂きました。
汐の音さん、美麗なKISSシーン♡を本当にどうもありがとうございました!(^^)