52.魅惑の夜(3)
作中、飲酒場面が出てきます。未成年の方は決して真似しないでください。
しかし中を一目見て、私は躊躇ってしまった。
そこはかなり気の利いたバーだった。
そう広くはないが、静かで雰囲気が良い。
客は社会人か、女子大生ですといったお姉様方ばかりで占められている。
私は、何故彼がこんな場所に、よりにもよってこの少女じみた服を着ている私を連れて来る気になったのかわからなかった。
「嫌い? こういうとこ」
「え…そうじゃなくて。私なんか入れてくれるかしら。こんな、ガキっぽい服着てるのに……」
「俺が大学生くらいに見えるから平気だよ」
そう言って彼は、躊躇っている私の肩を抱き、ボーイの案内するカウンター席へと座った。
彼がメニューを開く。
「何がいい?」
「ん……カルーアミルクかな」
内心ドキドキしながら私は、雑誌の情報でしか知らないそのカクテルの名前を口にした。
「珈琲好きなの?」
「日に二杯は飲むわね」
そんな会話を交わしながら彼は、バーテンダーに私のオーダーと共にマルガリータの名を告げた。
「こんなとこ初めて?」
「お杏の話はよく聞くけど。お杏の彼、大学生だから」
「お杏さんか。そうだろうな。女であれだけ飲めたらたいしたもんだよ」
「守屋君だって……」
「俺が何」
彼女といつも遊んでるんでしょ、と言いたかったけどそのまま口籠った。あの時の話の蒸し返しになるのが怖い気がした。
「それ、何?」
「え……?」
瞬間、私はドキリとした。
彼が私の左耳へと突然、手を伸ばしたから。
彼の指が、私の耳の下で揺れている赤いピエロのイヤリングに触れていた。
「ピエロか……」
彼は呟く。
「かあいいじゃん」
彼は珍しげに、耳元でイヤリングを弄ぶ。
私はその間中ずっと鼓動を早くしながら身を固くしていた。
「珍しいね、ポニーテイル。久しぶりだな」
ややあって、彼はそう言った。
「寒くない?」
「うん……」
「テイル似合うよ、神崎は。いつもの髪型でも可愛いけど」
そう言うと、目の前に出されたグラスを手に取った。
どうして。
彼は、こうも女の子の気を引く仕草や台詞がうまいんだろうと、学校での彼からは想像できない「もうひとつの顔」をした彼の痩せた横顔を私は見つめている。
「クリスマスも終わったし、正月には早いけど取りあえずは乾杯……」
「……かんぱい」
彼と私のグラスは軽く触れあい、カチリと小気味のいい音がした。
カルーアミルクは甘ったるい味がした。
本当にミルクコーヒーのよう。
口当たりがとても良い。
あの夜……ピンクパンサーのような得体の知れないカクテルを飲まずに、従って私が彼の知り合いから絡まれることもなかったらどうなっていただろうと、そのブラウンの液体を口にしながら私は思う。
それよりも、彼女を連れた守屋君の姿を見かけなかったら……。
私は案外すんなり彼を忘れてしまえたのではなかったろうか。
それとも、それは虫の良すぎる推測だろうか……。
「今日は暗かったじゃん」
彼が二本目の煙草に火を点けながら、そう言った。
「誰か好きな奴でもいるの」
彼が呟く。
「どうしてそんなこと聞くの?」
あの夜の彼の台詞を今夜は私が口にしていた。
「聞いたら、都合でも悪い?」
「変よ……」
「こだわりすぎだぜ」
「私がこだわるとしたらそれは守屋君のせいよ」
どうして。
私は彼を前にするとこうも余計なことばかり口にしてしまうんだろう……。
「……こんなとこ、彼女に見られたら困るんじゃない?」
「彼女って、誰」
「誰って…あの娘。この前の……」
「カノジョじゃないよ」
右肘をつき、グラスを見つめながら、彼は確かにそう言ったのだ。
「彼女じゃないって……」
どうしてと言おうとしながら、言葉にはなっていなかった。
「だ、だって。あの娘、私に……」
「逢ったの?」
「昨日ね、偶然に」
「それで」
「愛してるって、言ったわ。守屋君のこと。そして。浩人も私を愛してるて……」
彼は何も言わなかった。
ただグラスを傾けている。
「彼女、私にこうも言ったわ。私のこと「玲美」の身代わりだって」
その時。
初めて彼は、ゆっくりと私を振り返った。