37.戸惑い
短調の叙情的なオーケストラの旋律が部屋中に広がっている。
第一楽章「アレグロ・マエストーソ」甘やかな響き。
ややあって、叩きつけるようなピアノの旋律。華麗な音階。そのダイナミックな冒頭楽想に続いて、甘美な叙情を湛えた第一主題の旋律がショパン独特の装飾音に飾られ、歌われてゆく。
真夜中だというのにボリューム全開で、ショパンの「ピアノ協奏曲第一番」を聴いていた。
私の好きなコンツェルトの一つ。
空調の整った広い洋間で、ヘッドフォンなしにクラシックを大音響で聴くのは、実に気持ち良い。これも完全防音設備のピアノ室を持つお杏のマンションならではの楽しみのひとつ。
焦げ茶色のソファに深々と座り、瞳を閉じたまま、華麗な音楽に耳を傾ける。
マルタ・アルゲリッチが「ショパン・コンクール」で優勝した時の録音盤。彼女は女性ピアニストらしからぬとても情熱的な演奏をする。リサイタルの時、赤か黒の衣装しか身につけないというエピソードも頷ける。私生活がなっていないという批判も聞くが、私は当代一流の名女流ピアニストの彼女の演奏は素晴らしいと思う。
ピアノが夜想曲風の主題をしっとりと歌い、オーケストラの管楽器がピアノともつれあって恍惚とした旋律を奏で、いつの間にか神秘的なピアノの装飾音を挟み、静かな終決を迎える第二楽章「ロマンス・ラルゲット」。
それを経ると、いよいよ第一楽章にも増してダイナミックな第三楽章「ロンド・ビィヴァーチェ」に突入する。とてもリズミックな旋律だ。
クライマックスの華麗な音色を聴きながら、私の心は暗澹としている。何も考えたくない。それでも、混乱する頭を持て余しながらも私は、自分の感情を分析せずにはいられない。
しかし、答えはようとして出てくるものではないということもよくわかっていた。
「純、もういいでしょ。ウチにくるなりこうして一時間も聴いてるんだから。そろそろ終わりにしましょう」
CDをケースにしまいながら、お杏が私にそう声を掛けた。
「何があったの、一体。八時には来る、て言ってたのに十時もとうに廻って、あんな赤い目して……。LINEにも出ないからそりゃ心配したのよ」
「お杏、私ね。逃げてきたのよ」
「え……?」
「守屋君に会ったわ、偶然に。綺麗な女の子連れてた。そして……」
そこまで口にして私は言葉を詰まらせてしまった。自分の台詞に胸を衝かれている。
そんな私をお杏は黙って見つめている。
深く大きな瞳。
静かに、けれど温かく。
いつだってお杏は私を追い詰めたりしない。
そうして、私はぽつりぽつりとその夜の事の顛末を語り始めた。
***
「─────いたたまれなかったわ。彼の胸の中で泣きながら、こんなことしてちゃいけないってことだけを感じていて。自分でも何で泣いているのかわからなかった。でも……躰が動かないのよ。涙が、止まらなかったのよ。それで……」
私は一息、息を吐いた。
「それでも私、やっと言ったの。彼女のとこに戻って、て……」
「それで?」
私は無言で頭を振るだけだった。
そして、私の脳裏にはまざまざとあの時のシーンが蘇ってくる。
何か、何か言って欲しかった。
言葉の続きが、彼の真意が知りたかった。
それなのに。
私を抱き締めることも突き放すこともしなかった彼。
何かに堪えるような目をしていた。
何かがひっかかっている。
その想いを私は徐々に深めつつあった。
守屋君の態度が不可解ならば、あの彼女の言動だってどこか不自然なものがあったような気がする。
しかし、それが一体、何なのかはわからない。
確かめることを私はしなかった。
私は逃げてしまった。
私を見つめた彼の視線にすら耐えられず、私は彼の手を振り払い、振り返ることもせずその場を走り去ったのだから……。
「珈琲、淹れましょうか? 純は、キリマンがいいでしょ。あ、それとも紅茶にする? 今日、買ってきたばかりなの。「HARRODS」のダージリンをね」
お杏は、抱えていたクッションを脇へと放ると、いつもと変わらない調子でそう尋ねてきた。
キッチンから優美な「MEISSEN」のティーセットを運んでくると、「たまには紅茶も悪くないわね」と淹れたてのストレートのダージリンを「BLUE・ONION」のカップに注いだ。
白い湯気が立ち上る。
「つくづく。色々あるわね。純と……守屋君、て」
いとも優雅にカップを指で弄びながら、お杏は呟いた。
「でも驚いたわね。彼がそんな遊び人だったなんて。まあ、打ち上げの時の様子からすれば、成る程さもありなんっていう気はするけど」
”遊び人”……佐田君が言おうとして、私が中途で遮った言葉はまさしくそれではなかったのか。
そして私自身が、否定したくても何故か一人でに予感していた事実。
「純は彼のこと好きだったのね」
その時。
お杏のその一言が、胸を貫いた。
弾かれるように私は、お杏の顔を見つめる。
「認めなさいよ。自分の心に嘘をついてもしょうがないじゃないの。それに……この私にもね」
「じゃあ……私の、浩太朗君への想いはどうなるの」
私が好きなのは浩太朗君だったはず。
だから、あれほど苦しんだのではなかったのか。
「でも純は。守屋君に惚れてるのよ。恐らくは、浩太朗君よりもずっと」
しんとした静けさの中で、唯、お杏の言葉だけが確かな重みを持って響いた。
認めなければならないというの。お杏。
それは新たな苦しみを生み出すものでしかないというのに。
私はこれ以上、自分を狂わせたくない!
それでもお杏、私にそれを認めろというの。
私はいつの間にかどうしようもない程、彼に惹かれていたのだと。
打ち上げの夜の、あの放課後の彼を忘れられないでいるのは、それが即ち恋、だからだと……。
「純は素直じゃないわ」
細く長い脚を組み直しながら、お杏が言った。
「すこぶるストイックなの。理性と感情の板挟みになって苦しんでばかりいる。見てらんないわ。純っていつも泣いてばかりなんだもの。もっと正直に生きることね。感情を抑え込んで自分を偽るなんて、あまりにも不幸じゃない」
そして、ゆっくりとお杏は、その言葉を継いだ。
「調べてあげるわ、私が」
「何を?」
「守屋君の過去」
私は一瞬、言葉が出なかった。
「彼、華陵中出身よね。確か。あそこの卒業生なら友達がいるから、多少のことはわかると思う」
何故、お杏がそんなことを言い出したのかはわからないけれど、ひょっとしたらお杏は、私自身でも気付かない私の想いを見抜いたのかもしれない。
守屋君の過去──────
齢十七にして既に煙草もお酒も飲み慣れていて、女の子のあしらい方に長けているいる彼。
一体、どんな中学時代を送っていたのか。
そして、あの彼女との関係……。
けれど、私が彼の過去を知ってどうなると言うの。
自分の気持ちがわからない。
自分自身が信じられない。
何より、守屋君の気持ちは……。
心は揺れに揺れていた。
私の意志とは関係なく、私の高二生活は波瀾含みの連続だった。