36.衝撃(3)
「ほらほら、無理しないで」
男がすかさず私の肩に手を回し、私は再びテーブルへと連れ戻されてしまった。
躰に力が入らない。
男の手を振り払えない。
すこぶる危険な状態だ。
身の危険を感じながらも、けれど私にはどうすることも出来ない。
「ほら、水飲んで」
男がミネラルのグラスを口許まで持ってくる。
ごくりと一口、飲み込んだ。
「胸、開けた方が楽になるぜ」
そう言って、彼は私のブラウスのボタンに手を掛けてきた。
やだ!!
やめて。
必死で頭を振る。
胸元の第一ボタンを外されかかった。
その時。
「悪いな。そいつ、俺の連れなんだ」
頭上で声がした。
低い、くぐもったような聞き覚えのあるテノール。
「……なんだよ、浩人。お前の女かよ」
「悪ぃが離してくれ」
男はチッと舌打ちすると、もう一人に目で合図して消えた。
「守屋君……」
「何飲んだんだよ」
瞬間、ビクリと躰を震わせた。
すこぶる不機嫌そうな彼の声。
「ピンクパンサー……」
「馬鹿! アレは脚にくるんだ。女が一人で飲む酒じゃない」
「ごめんなさい……」
大粒の涙が溢れ始めた。
「泣くなよ。もう大丈夫だから」
低く、囁くように……彼の優しいテノールの声。
あの時と同じ。
あの場面を再び。
もうひとつの顔をした守屋君が今、私の隣にいる。
私はただ泣きじゃくっていた。
***
「浩人ぉー! 何してんの……」
近くで女の子の声がした。
彼女だ……!
私は一瞬、身を固くし、守屋君の胸に伏せていた顔を恐る恐るゆっくりと声のした方へと向けた。
そして私は、プラム系のアイシャドーにルージュ、長い睫毛、大きな茶色の瞳にさらさらのロングヘアをしたとびきり可愛い例の彼女に、はっきりと顔をあわせてしまったのだ。
その時。
彼女は一瞬、顔色を変えたような気がした。
何かを呟いたようだったが、私の耳にまでは届かなかった。
そして彼女は、穴のあくほどまじまじと私の顔を見つめた。
「浩人。……その娘、誰」
「クラスメートだよ」
彼女の問いにも彼はいつもの如く、無表情で答えた。
「クラスメートって……だって。その娘……」
彼女は明らかに動揺している。
そのまま言葉に詰まった彼女は、つややかなその茶色の長い髪を鬱陶しそうに右手でかきあげた。
「もう立てるだろ」
彼女の出現にも顔色一つ変えないまま、守屋君はそう言って立ち上がった。
「大通りまで送っていくよ。ここら辺はガラが悪い」
「浩人! だって、私の約束はどうなるのよ!? 今日は一晩つきあうって言ったじゃないっ」
「すぐ戻ってくる。……ほら、神崎さん。行くよ」
その声で慌てて立ち上がった私を、彼女は嫉妬というよりは憎悪に近いような目をして睨みつけた。
「浩人……!」
その声を背に受けながら、私は彼に連れられ店を出た。
まだ少しふらつく。
それを知ってか、彼は私の肩を抱くようにして歩く。
暗い路地。
けばけばしいHOTELのネオンだけが辺りを彩っている。
道行く人が見れば、親密な恋人同士に見えるんだろうか。
彼と私も……。
「何であんなとこ来たんだよ」
初めて守屋君が口を開く。
何も答えない。
言えるわけがない。
女の子連れた守屋君の姿にショックを受けて、後をつけてきたなんて。
自分でも何でそんなことしてしまったのか、わからないのに。
「いつも、あんなとこで……遊んでるの?」
今度は彼が答えなかった。
「あの娘、綺麗ね」
そう呟きながら、私に脳裏には彼女の姿が蘇る。
一見、コーコーセイには見えなかった。
今の守屋君と同じ。
いかにも遊び慣れた風で。
あの店の情景にも難なく同化してた。
綺麗にメイクして、さらさらの茶色い長い髪を持つあの娘……。
「寒くない?」
「え…う、うん。ちょっと……」
「コート持ってくりゃ良かったな」
そう呟きながら、彼は一瞬、私の肩を抱き寄せた。
「守屋君……」
「何」
「あの娘……彼女?」
言ってしまった。
守屋君の顔、見つめる。
「どうしてそんなこと、聞くの?」
静かな声。
優しい瞳。
思わず目を逸らした。
そんなこと聞いて何になるというの。
関係ない。
彼は私に同情しただけ。
彼の優しさは他の女の子を通して身につけられたもの。
他の女の子にも向けられるもの。
私に対する特別なそれじゃない。
それなのに。
私は……。
「どうして……どうしてこんなこと、するの!?」
予期せぬ言葉が私の口から滑り出ていた。
「彼女いるくせにどうして私の……」
肩なんか抱くの……。
「優しいの……何故」
絞り出すように呟く。
彼の右腕掴みながら。
「神崎……」
私を見つめた。
微妙な表情。
心を裏切るかのように、私の瞳にはまた涙が溢れ始めていた。
暗闇の中。
ぼやけたHOTELの灯が揺れる。
「ごめん……」
彼が呟く。
片手でそっと私の背を抱き寄せながら。
「俺は……」
それ以上の言葉はなかった。
守屋君、何言おうとしたの。
どうして私を、見ないの。
守屋君、どうして……。
気分が昂ぶる。
どうしていいかわからない。
自分が何をし、何を言ったのかもよくわかっていなかった。
ただ私には、彼の言動も自分の感情をも不可解だった。