34.衝撃(1)
「神崎さん、そうじゃありませんよ。もっとゆっくりと構えて。そうそう。はい、そこでお客様の方に向き直って。茶杓はそっと置く……」
薄い障子窓から明るい木漏れ日の差し込む土曜日の午後。
礼法室で学生服の中に一人だけ、品の良い藍色の和服に身を包んだ高齢の女性がいとも優雅に声を掛ける。
済陵高茶道部を指導して下さる喜多先生。
この地方に伝わる「久麿古流」という流派では、最も権威のある先生だ。
久麿古流は歴史が深く、裏千家の創立以前から伝えられているという。
また、茶を点てる際、「引き」「切り」「置き」「取り」という裏千家にも表千家にも見られない特殊な動作があるのも面白い。
「不調法でございました」
握り拳を握るように両側に親指をつき、深々と礼をする。
そっと襖を閉め、水屋に退出した。
ああ、冷や汗かいちゃった!
急に「お道具拝見」なんて言われると、参ってしまう。
済陵祭以来、練習してなかったからね。
あの頃だって、どうせ一般客でお道具鑑賞するお客様なんていやしないと思って、練習もそこそこしかやっていなかったけど。
中三の時、「済陵祭」に来て、何気なくお茶席に出た。
その時の茶道部の部長さんというのがすこぶるつきの美人さんで、私はその人に憧れて済陵茶道部に入部したようなもの。
憧れの先輩に手づからお作法を教えて頂いた時は、感激して手が震え、思わず柄杓を落としそうになったのを今でも覚えている。
今はその先輩も卒業し、三年生も引退して、私達二年生が部を率いる立場。
けれど私個人に限って言えば、去年の済陵祭以降暫くの間ちょくちょくサボっていたから、お濃茶の点て方はあまり知らないし、お薄の方も冬場の点て方は忘れてしまっている。
この分では、また近い内に喜多先生からしぼられることだろう。
花嫁修業という気はないけれど、好きで入ったクラブなのだし、来年はもっと真面目に取り組んでみようかなどとお茶碗を洗いながら考えた。
***
部活が終わり、私は早々と礼法室を後にした。
いつもなら練習が終わった後も、残ったお茶菓子をつまみながら長々と続くお喋りに私も参加しているけれど、今日は彌生がまた模試の点数について声高に喋り始めたから退散することにした。
自分でも彼女に対するこだわりは度を過ぎているとわかってはいるけど、現に虫酸が走るのだから仕方がない。
つけいる隙を与えまいと無理に平静を装うのも、これまた精神衛生上よろしくない。
結局、無視して立ち去るのが一番。
しかし、こんなことが後一年続くのかと思うと、難儀なことではある。
幾つも並んでいる私の背丈以上の大きな靴箱の一つに来て、私は足を止めた。
制止。
一瞬の間を置いて、再び動き出す。
手早く靴を履き替えると急いで外へ出ようとした。
「神崎さん」
その声を背に受けながらもどんどん歩く。
「待てよ。逃げないでくれ」
私の前に立ちはだかった。
「話があるんだ」
「私は話なんてない」
「この前は悪かったよ。ごめん。でも俺、本当にあんなつもりじゃなかったんだ。ただ……。俺、あの時、君の後ろ姿見て……ただ、無我夢中で」
改めて私の瞳を見据えて言った。
「ごめん」
「話、それだけ? 私、気にしてないから」
「待てよ。本当に悪かったって思ってるから」
そう言いながら性懲りもなく、また右腕を掴んでくる。
「そう思うなら離してよ、手」
「離すと逃げるだろ」
「私は早く帰りたいの!」
「そんなにビクビクするなよ。何もしやしないから」
「手、離してよ。……話って何」
帰るのを諦めた私の気配を察したのか、ようやく手を離した。
───────佐田君。
「俺、やっぱり君が好きなんだ。忘れられない。だから……俺と。つきあって欲しい」
足下にあった彼の視線が段々と上がっていき、私の瞳を捉えた。
「つきあってくれないか」
暫しの沈黙。
「悪いけど。あなたとつきあう気はないわ」
「どうして?」
「どうしてって……」
「俺のこと嫌いなの?!」
佐田君の目に険しさが表れた。
私はその時、はっきりと口にしていた。
「……好きな人が、いるわ」
一瞬の後、
「守屋が、好きなのか?」
瞬間、目が遇った。
息を呑む。
「そうなんだろ?!」
「そんなことあなたに関係ないっ」
「あいつは、やめといた方がいい」
真剣な目で私を見つめた。
「あいつには、女がいる」
その場の空気が硬直、した。
彼はまた私の腕を掴み、真顔で迫ってきた。
「君は中学時代のあいつを知らないだろ。今だって何やってるかわかりゃしない。あいつは相当な……神崎さん!」
駈けだしていた。
ただひたすらに走る。
走って、走って……。
息が切れて立ち止まり、ブロック塀に手を掛けた。
まさか。まさか、ああ、でも……!
中途にして終わった彼の言葉の先が、私には見えるような気がした。
だからこそ。
守屋君を思い浮かべる。
好きだと思うこと自体が不思議なのに、妙に固執する想いだけが残っていた。
どこかで彼のこと意識している自分がいる。
私は打ち上げの夜の、夕暮れの教室で私の肩を抱いた守屋君を、未だに忘れていない。
彼に彼女がいることくらいわかっていた。
「HEVEN」で肩を抱かれながらも私は、どこかで他の女の子の影を薄々感じていた。
女の勘は男の嘘を見破る為に働くもの。
“好きな人が、いるわ”
何故、あんなこと口走ったんだろう。
私が誰を愛しているというの。
みんな皆、無関係だ。
私は夢を見ているだけだ。
けれど、佐田君の言葉は私の胸にくっきりと楔を打ち、疑惑の嵐が私の心に渦巻いてゆく。
そして。
その日の内に、私は彼の言葉を裏付ける場面に遭遇することになる──────