28.告白(3) ☆
何、なに……。
何なの、これは……!
がんがんと頭の中で鳴っている。体が熱い。
い……や、いやよ。
離して。
どうして……。
声が、声が出ない。
動けない……。
「離して」
ようやく振り絞るように発した言葉と同時に、金縛りが解けたように躰が動き始めた。
とにかく闇雲に逃げようとする。
泳げない子が水中でもがくみたいに。
けれど、逃げようとすればするほどに、抱き締められる力は強まって……。
何故……嫌よ。
こんなのって、ない。
誰か。
たすけて……!
いや。
こんなの、い、や……。
抗うことを止めた。項垂れて。
閉じた瞳から、熱いものが溢れて、落ちた。
「─────ごめん。神崎さん」
腕が離れた。
「俺、こんなつもりじゃ……」
反射的に身をよじり、顔だけ振り返った。
私の肩を掴もうとして伸ばされた手が、遣り場をなくしたまま力なく、宙に浮いて……。
「嫌! 来ないで!! 近寄らないで……」
見つめあう。
悲痛な表情。
─────怯えた瞳。
「本当に俺、そんなつもり……」
空白の瞬間が破られると同時に、無意識に鞄を取り、ぱっと駈けだした。
「神崎さん!!」
走る、走る。
わけもなく走る。
どうして、何故?! 佐田君……
何なの? 一体、あれは何。
誰か、誰か。
ああ……!
靴箱に来て初めて足を止め、ぎゅっと鞄を抱き締めた。
外は雨が降り出していた。
十一月の雨は冷たい。
濡れても……いい。
そう思った。
走るわけでなく、とぼとぼ雨に打たれながら校門まで歩いて来た時、
「純ちゃん、入れてあげよう」
背後から声がした。
「雄大……」
隣のクラスの織田雄大が、がちょう頭の柄をしたブルーの傘を片手に、私の隣に並んだ。
「泣いてるの?」
「泣いてなんか、ない。雨の雫よ」
「ウソツキ」
私は答える代わりにハンカチで顔をぬぐった。
「雄大、私ね。さっき教室でクラスの男子から好きだって言われた」
「それで何で泣くの?!」
「……抱き締められた。後ろから」
「やるなあ、そいつ。一体、誰だよ」
私はぷいと横を向いた。
雄大のあからさまな好奇心が憎らしかった。
「ごめん。気に障った?」
「大いに障った」
「でも、別に泣くことないじゃん。ふられる立場じゃなくて、ふる立場だろ。これも一つの勲章だと思って……」
「男だからっ!雄大は、男だから」
噛みつくように叫んだ。
私を見る。
「私の気持ちなんてわかんないよ……」
視線を逸らして、呟いた。
「男だったらさ」
雄大が穏やかに口を開く。
「誰でも。好きな女の子には触れてみたいって、思うよ。抱き締めたい、キスしたい、あわよくばそれ以上のことを……」
「聞きたくないっ! そんなこと」
「潔癖症だね。純ちゃん」
雄大はそれ以上、何も言わなかった。
私も何も言えずにいる。
雄大の一言が期せずして、私の心に波紋を投げかけた。
私は潔癖症なんかじゃない。
映画や小説のワンシーンのように、一度でいいから男子から力一杯抱き締められたいと思っていたのは、私。
現に私はあの時の、夕暮れの教室にいた守屋君を忘れられずにいる。
あの時、一瞬感じた感覚を再びと、狂おしい想いにすら囚われていたというのに。
けれど……。
いやよ。嫌だ。
あんなのって許せない。思い出したくもない。
残っているのは、恐怖と嫌悪の感情だけだ。
「純ちゃんはさ、可愛いから。男が放っておかない」
私は、雄大の顔を見た。
どういう顔してそんなこと言ってるの?
ジョークにしたってできすぎている。
可愛い……か。
そんなこと男子から面と向かって言われたのは初めてで何か、照れる。
つくづく私は男子に対して免疫がないと思う。
いつの間にか、大通りまで歩いて来ていた。
雨脚は一層早くなり、気がつけば雄大の右肩はぐっしょりと濡れている。
私はハンカチで、雄大の学ランの湿り気を拭き取った。
「雄大。今日は一乃本さん、どうしたの?」
「ああ、美樹はバレエの発表会のリハとかで、慌てふためいて帰って行ったよ」
十組の一乃本美樹さん。
一年生の時からの雄大の彼女。
告白したのは一乃本さんの方らしい。
けれど、雄大はいつも授業が終わると十組の教室まで一乃本さんを迎えに行く。
交際当初から学内公認のお似合いのカップル。
傍から見れば雄大と私、いかにも仲の良い高校生カップルの相合い傘の風景に見えるかもしれないけれど、幼稚園と小学校で何年間か同じ組だったっていう単なる幼馴染の友人関係に過ぎない。
けれど、私のことを「純ちゃん」なんて呼び方をする男子は雄大くらいのもの。
また逆に、私が「雄大」なんて"名前"で気安く呼ぶことが出来る男子も徳郎と雄大の二人だけ。
雄大から「純ちゃん」て呼ばれるのは悪い気はしないし、「ユウダイ」って響きも私は気に入っている。
加えて、雄大の数学のセンスには目を見張るものがあって、解けない問題を持っていくとすらすら解いてくれるから、私は大いに助けられている。
もっともその代わりに雄大は、私の英語や古典のノートをちょくちょく借りにくるけれど、それもクラスが隣同士という気安さのせいに違いない。
「あ、バス来た!」
突然、雄大が声を上げた。
見れば、グリーンと白のコンビをした車体のバスが、前方に停まっている。
「純ちゃん、傘持っていき」
そう言って、私の手にがちょう頭を押しつけた。
「え、だって。雄大は」
「遠慮するなって。あ、純ちゃん……」
急に振り向くと、
「GOOD LUCK ! 」
低く、耳元で囁いた。
呆気に取られている私を残して、雄大を乗せたバスは走り去ってゆく。
雄大……。
教室を飛び出した時、あんなにも昂ぶっていた感情が、嘘のように落ち着いていた。
これも雄大が、私のヒステリックな不安定極まりない感情を、黙って受け止めてくれたせいだと思う。
ゆうだいは、やさしい。
がちょう頭にはまだ、雄大の手の温もりが残っている。
「ぐっどらっく……」
小さな声で呟いてみたら、何だか少し元気が出てくるような、そんな気がした。