22.戦いすんで(2) ☆
「で、今は何やってるの?」
「最近は専ら、近代よ。プロコの「アンプロンプチュ」とかね。ようやくドビュッシーが一区切りついたところで」
そう言いながら、お杏は黒いビロードのカバーを取った。
中から漆黒の「STEINWAY&SONS」のグランドピアノが現れる。
「いつ見ても手入れが行き届いているわね」
専用のクリーナーで磨き上げられ、午後の日射し反射し、ピカピカに光るピアノを見ながら言葉をかけた。
書棚に何百冊と並べられた楽譜の中から、春秋社の「リスト集」を取り出すと、椅子に腰かけながらお杏が答える。
「このピアノは特別だもの。ママの……唯一の形見だからね」
そう言うと、もうお杏の目は鍵盤に吸いつけられていた。
高音部の透き通ったさざ波のようなメロディーが、防音設備が施してあるクラシカルな洋間いっぱいに広がる。
そして、独特の軽快なリズムに切り替わった。
お杏には母がいない。
お杏が十歳の時に病気で亡くなったそうだが、お杏の父は黙して語らぬ上、娘と二人暮らすには広すぎる家屋敷を手放し今のマンションに移る際、亡き妻の持ち物は一切処分してしまったせいで、お杏には母を偲ぶ物が何一つ残っていないという。
そんな中で、このピアノだけが遺された。
お杏の父にしてみても、妻が生前毎日奏でていた愛器はさすがに処分できなかったらしい。
何よりお杏がピアノに縋り、泣きながら頑として離れなかったそうだ。
それでも、書斎にお杏の弾くピアノの音色が聴こえてくるのを嫌った父が、部屋に防音設備を施したということだった。
おかげで朝でも深夜でもいつでも好きな時に好きなだけ弾くことができて、大助かりだけどね……。
ピアノを愛おしそうに見つめながら、そう語った時のお杏の横顔はどこか淋しげで、何も言えなかった時のことを今でも覚えている。
「どう? ご感想は」
曲の冒頭とは対比的に、華麗なクライマックスの最後の一音を弾き終わったお杏が、振り返りながらそう言った。
「相変わらずブゾーニ張りよね、お杏のリストは」
感嘆の溜息をつく。
大袈裟ねて言いながら、お杏がフフフと笑う。
音楽愛好家だった母の教育方針の下、幼少の頃から国内でも高名な先生に師事しているお杏のピアノは、未だバッハの三声あたりでもたついている私が聴くとまったくプロのピアニスト並だ。
「これで満足した?」
「今度はベトソナが聴きたいなあ。そうね、「悲愴」か「熱情」「テンペスト」!」(注・ベトソナ=ベートーヴェンのソナタ)
やれやれて顔をして、お杏が楽譜を取りに立ち上がった時、ドアをノックする音がした。
「どうぞ」とお杏が答えると、「失礼します」と声がして四十代半ばの痩せた女の人が入ってきた。
原さんという野瀬家の家政婦さん。
「いらっしゃいませ、純子さん。お茶が入りましたよ。ここらで一休みなさったら?」
原さんの手焼きと思われるクッキーに淹れたての紅茶のポット、茶器類をテーブルに並べながら、原さんがにこやかに応対する。
「どうもお邪魔してます」
と、軽く頭を下げると、お杏がやったとばかりにソファへ座った。
「さてと、純。ここらで話してくれてもいいんじゃない?」
原さんが出て行った後、おしぼりで手を拭きながら、何気ない調子でお杏が言った。
「何を」
「最近、純が心に思っていること。浩太朗君のこととか。それに、守屋君」
「守屋君は……」
別に、と言おうとしたが、何故か言葉に詰まった。
にわかにあの日の、あの夕暮れの教室に佇む彼の姿を、そしてその前で不覚にも涙を零してしまった自分の姿を思いだし、言葉にならない。
「お杏、私……」
紅茶を一口飲むと、意を決して口を開いた。
それまで胸につかえていたものが、関を切ったように溢れ出してゆく。
アーモンド入りのチョコレートクッキーをかじりながらもお杏は、黙って私の話を聞いていた。
***
「なんか。あったんじゃないかとは思ってたけど。まさかまた、守屋君とはね」
あの放課後のことを話し終え、それっきり黙り込んでしまった私に、お杏は言った。
「それにしてもやるわね、彼も。なかなかじゃない」
「そんな言い方よしてよ」
「だって、誰もいない夕日射す教室にふたりっきりで。泣き出した女の子の肩抱いて慰めるなんて、ちょっとドラマじゃない。で、それ以上は何もなかったわけ?」
「お杏!」
「ま、純にはそれだけで充分刺激的だったってわけね、要するに」
顔色一つ変えずにそう言うお杏。
私は返す言葉がない。
お杏の言う通りなんだ。
気分の高揚感。
あの打ち上げの夜に初めて経験した快い感覚を、再びあんな形で再現されて、私はそれを忘れられずにいる。
自分を狂わせて……。
守屋君の胸の鼓動、手の温もり。
何もかもが私の中に残って……。