20.思索の夕べ(2)
時計の針はいつの間にか午後七時を廻っていた。
外は月も出ていない闇夜だった。
やっとベッドから身を起こし、西側の窓のブラインドを閉じた。
脱いだ制服をハンガーに掛け、再びベッドに腰掛ける。
溜息ひとつ。
私、やっぱり浩太朗君のこと好き、なんだ……
今日、あんなことになってみて、今更ながら私は自分の気持ちを認める気になった。
打ち上げの夜、はっきりと思い知らされたはずのことなのに、それでも私は心のどこかでそれを否定しようとしていた。
けれど、結局はただ自分を偽っていただけ。
彌生に対する反発心や、自分の中のコンプレックス。
そして何より、済陵祭が終わってもまだ平常心に戻れない焦燥感から、彼にのめりこんでいく自分の想いを無理矢理抑えていただけだったんだ。
もうひとつ軽い溜息をつくと、ベッドから立ち上がり、部屋の隅のピアノの前に座った。
そして、譜面台には目もくれず、おもむろにキーを叩き始めた。
ショパンの「幻想即興曲」。
ちょっと俗っぽいけれど、何も考えたくない時はこれに限る。
勝手に指の方から動いてくれるから。
それでも、ふとした瞬間、指が止まる。
噴き出し、押し寄せ、雪崩れ込んでくるような思考の渦に巻き込まれ、それ以上は進めない。
最悪のパターン……
学校、行きたくない───────
椅子に背もたれながら、切実に思う。
浩太朗君に顔を合わせられなくなった。
せっかくオトモダチ雰囲気でうまく乗り切りかけていたのに……
それにしても。
彼の好きな女の子って、一体どういう娘なんだろう……
今度は、同じくショパンの「ノクターン 第一番 Op9-1」を弾き始める。
叙情的でいかにも哀しげな旋律は、今の私の心境を吐露しているようだ。
浩太朗君がどこの誰を好きかなんてことは、どうでもいい。
そんなのはたいした問題じゃない。
でも、一体どんな女の子なの……?
彼から。
明るくて、名前の通り朗らかで心優しいその彼から、あれほど真剣に想われる女の子って。
やっぱり、無邪気で天使のような愛らしいタイプの女の子、かなあ。
私とは違う……
誰にも言わずに、大事に胸の奥にしまっている浩太朗君。
彼の心の中にいる女の子。
羨ましい。
ううん、違う。妬ましいんだ。
私。見ず知らずの彼女に嫉妬している……!
顔も知らない、名前も知らない。
何もわからない。
けれど、私、浩太朗君のその「彼女」に。
その幻影に苛まされる────────
また、曲の中途にして指を休めた。
左手で右手の手首を覆う。
アルペジオも弾かずに無茶弾きしたから、手首に負担がかかったんだろう。
両手の手首を動かしながら、私は依然として思考を巡らせている。
考えなければいけないことは、まだまだある。
言わずもがな……守屋君。
一体、どういうつもりなの?
考えれば考えるほど、不可解としか言いようがない彼の言動。
一度ならずか二度までも。
私は……
あの時────────
夕陽の落ちる寸前の薄暗い教室。
異常なほどの静寂に支配された。
その中で、私は泣いた。
彼の、守屋君の胸の中で……
いつのまにか私は額を彼の胸に押し当てていた。
私の肩を抱く彼の温かい掌の熱を感じ取って。
そして、ほんの一瞬。
抱きすくめられたように感じたのは、私の錯覚だったというの……!?
思い返せば、夢としか言いようのないSCENE。
あの時の覚醒感を。
「HEVEN」で肩を抱かれていた時のあの感覚。
生まれて初めて感じた、躰がとろけるような、あの……
私は未だそれを忘れられないでいる。
つくづくまともじゃない。
それでも彼は相変わらず。
無口で、無愛想で、ひっそりとして。
女の子になんか目もくれず。
私に対しても……
どういうつもり?守屋君……
打ち上げの夜にしろ、今日の放課後の出来事にしたって、人に話せば溜息の出るようなシチュエーションだろう。
実際、勉強も何も手に着かないくらい舞い上がっているのは事実だけども、でも……
心の奥底ではどこかで醒めた自分がいる。
彼は私だからあんなことしたんじゃない。
私だけにあんなことをしてるんじゃない。
結局、答えはそこに帰着するから……
確証も何もない。
けれど────────
そして、今日の「キス事件」。
考えれば考えるほど泥沼化していくばかりなのは目に見えているのに、それでも尚、考えずにはいられないこの性分。
いい加減、自分でもやってられないよ……