17.もうひとつの放課後(2) ☆
「なんだ、神崎さん。まだいたの」
そう言いながら教室に入ってきたのは、この秋も深い季節だというのに、半袖のTシャツを肩まで捲り、グレーのスウェット姿をした……
守屋君だった。
「守屋君……」
そう口に出して呟きながら、彼の姿に目を奪われている。
「何してんだよ、今頃まで」
「え、まあ。ちょっと……。でも、守屋君こそ、まだクラブなの?」
「ああ。試験前は自主トレってことになってるけど、ほとんど半強制的にね」
とんでもねえクラブに入っちまったもんだよ、と呟きながら、彼は自分の机の中に手を伸ばしている。
そして、そこからふと目を上げた彼の視線と、私の視線とがぶつかってしまった。
「帰らないの……? 神崎さん」
例によって、低く囁くようなテノールの声をして、彼は再び私に問いかけてきた。
「守屋君は何しに戻ってきたの?」
しかし、私はそう答えをうやむやにした。
内心の本音を悟られたくはなかった。
「俺はこれ取りに戻ったんだよ」
「お弁当箱……?」
彼が私の目の前に掲げて見せたものは、長方形の紺色の包みだった。
「そう。これ忘れると、明日昼飯食いっぱぐれるもんでね」
「何で? 予備のお弁当箱なんていくらでもあるでしょ」
「実はうち、家政婦さんが弁当作ってくれるんだけど、その人がさ。にこにこしながら、説教するんだよ。臭いがつきますとかなんとか。挙句の果ては、弁当なし!とか言うんだぜ。参るよな、まったく」
そのいつもの彼らしからぬ雄弁な語り口に、私は思わず笑みを漏らしてしまったものの、何故か涙まで溢れてきそうになり、慌てて横を向いた。
笑いが途切れる。
……沈黙。
「気にすんなよ、あんまり……。みんな、物珍しがってるだけさ」
一言、そう呟いた彼の言葉に、私は胸を衝かれていた。
ああ、守屋君も知って、いたの……
今度の事件がどのくらい広まっているのか、本当はものすごく気にしていた。
舞、お杏、浩太朗君は勿論のこと、多分浦田君でさえ、誰も彼もが口を閉ざしていたはずなのに、何故か全く関係のない子らまでが知っている。
ひそひそ声がする度に胸が痛み、二、三の男子から取り沙汰された時は、限界だと思わざるを得なかった。
けれど、それでも前を向いていた。
それだからこそ、平然と過ごした。
いつものように。
「でも。強いよ、神崎は」
「え……?」
静まり返ったその場の空気を変えたのは、私の予想もし得なかった彼の一言だった。
「フツーの女子だったら、みんなの前でこれみよがしに泣いてさ。そして、周りの女どもがこれまた、ブって慰める、てのが一般的なパターンだろ」
守屋君、何言ってるの……?
「あいつらから何か言われた時も顔色一つ変えなかったろ、神崎は。あの時、泣くかな、と思ったんだけどね、俺は」
「……違う。そんなんじゃない、私」
「ちょっ、神崎さ……」
やっぱさすがだよ、という彼の言葉を、私は両手に顔を伏せながら聞いていたのだ。
「すごく悲しかった。私、辛くて、堪らなくて……」
ああ、私は何を言おうとしているの。
守屋君を相手に……
「泣きたかったの、本当は……。でも、泣いたらいけない、て思って。ここで泣いたら負け、なんだって、思って……。だから、私……」
一雫でも涙が溢れ落ちると、後は連鎖反応だった。
ずっと一日、張り詰めていた神経が急激に緩むともう元には戻らない。
胸がいっぱい。
本当に、限界。
時折、嗚咽の声が漏れて教室中に響き渡っているような気がする。
「泣くなよ。……な」
たった一言。それだけだった。
泣きじゃくり、下を向いたまま。
けれど、私には彼が今、どんな顔をしているかわかる。
はっきりと感じる。
今、ここにいるのは、あの時の守屋君。
あの夜、「HEVEN」で肩を貸していてくれた守屋君なんだ。
そして、私の肩を抱いてくれていた……
作中イラストは、管澤稔さまに描いて頂きました。
管澤さま、素敵なイラストをどうもありがとうございました!