9.「お兄さんを労いたくて」
「大衆酒場?」
「うん。今日の夜行くから、準備して待ってて」
元気よく頷いたバーミリカに、イノセントは目を据えて付け加えた。
「絶対、家の中で大人しくしてて」
「なんだかお兄さんに監禁されてる気分です」
「返事は」
「はーい!しょうがないですねえ」
日光が煌びやかに窓枠から差し込んできて、目を向ける度に細めてしまう晴天の日。街の喧騒が鳴り響く前の静けさに、イノセントの家では食器の動く音だけが幅を利かせている。
やれやれと肩を竦ませたバーミリカは、朝食を食べ終わるとすぐに席を立った。まだ新品同様な衣服に身を包んだ彼女は、気分よく一回転してスカートをふわりと浮かせる。濃紺と白、黒を基調としたブーナッドにも少し似ているワンピースで、胸元には控えめだけども可愛らしい紅色のネクタイが備わっていた。
先日の騒動の後、家に帰るやいなやそこには荷物が置かれていた。バーミリカが両手で抱えきれる限界の箱が1つ。照れたようにはにかむ彼女を一瞥して中身を調べると、衣服や生活必需品などよりどりみどりの物品が詰め込まれていた。彼女曰く、「散歩中に貰いました!ここは良い方々ばっかりですねえ」だそうだ。しかし、依然胡散臭さは拭えない。
「似合いますかお兄さん!」
「さっきもそれ言ってた」
「聞いても答えてくれないから言ってるんですーっ」
「なんだ、わかってるんじゃん」
「お兄さんのイジワル」
もーいいですっ、と頬を膨らませたバーミリカはテレビの前のソファに腰を掛けて静まった。朝のニュース番組に面白い要素など少ないだろうに、やることが無いんだなあとつくづく思わせる。
皿洗いを済ませて一呼吸おくと、そのまま仕事へ向かうべく準備に取り掛かる。髪のセットをそれとなくしながら歯を磨けば、段々と見られる姿が整ってくる。
「それじゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃいです」
テレビからパッと視線をこちらに向けて見送るバーミリカに、イノセントも笑みを返した。
°˖✧◇✧˖°
「ただいま」
「おかえりなさいお兄さん!」
夕暮れも終わる頃合い、カラスの鳴き声が耳によく馴染む。ゴミ捨て場のネットはちゃんとかけたよな、なんて回想しつつ扉を開けたイノセントは、直後硬直する。
「お風呂にしますか?ご飯にしますか?それとも……」
「まま待った待ったどうしたの何があった」
一瞬裸エプロンとも見間違える彼女の出で立ちに、仕事中以上の汗がイノセントを包む。楽しげにちらりとエプロンをめくったバーミリカは、笑いながら彼の問いに応じた。
「流石に裸は恥ずかしかったので、ビスチェとロングガードルは身につけてます!」
「ビス、え何?」
「要するに下着ですね」
「それでバーミリカは本当にいいの、少しは恥じらえよ乙女!」
必死に口を動かす男性の姿に、彼女はのんびりとした口調で言い切る。屈託もない笑みもセットだ。後ろ手を組んで、少しだけ腰を曲げて前のめりになる。無い谷間も丸見えだ。
「今日、ずっとテレビ観てたんですよ。色んなの観てたんですけど……バラエティか何かでコメディアンが、男性は裸エプロンにグッとクると言ってまして」
「だからって実践するなよ」
「お兄さんを労いたくて」
「からかいたくてじゃなくて?」
とりあえず、と自身が羽織っていたコートを掛けてやり、ぐいぐいと脱衣所の方へ彼女の背を押す。思った効果が得られず不満げな彼女を、疲れた顔で見下ろした。
「今朝着てた服着てきなよ。せっかく可愛いの手に入れたんだから、まったく」
「え」
「えじゃないからもう」
何故か唖然としたかのように目を丸くさせたバーミリカをムッと睨めつけていると、何故か頬を赤らめ始めて目をそらされた。
「ここで言うとかズルいです」
「何が」
「普通なら見た瞬間に喜びのあまり発狂したりコメ欄にその思いの丈を簡潔に綴って弾幕するのに」
「君が観てたのは本当にテレビなの?」
軽く流されては肩透かしを食らったような気がして、つくづく食えないなと吐息を零す。そんな彼の反応に満足したのか、割とあっさりとバーミリカは着替えに行った。ぴょこぴょこと跳ねるアッシュブロンドの後ろ髪を見送ると、結構落ち着いてきたかもしれない……下の方はともかく。
バーミリカと居ると本当に疲れる。正直、仕事以上に。だからこそ早くあの子を何とかしたいし、何とかすることが彼女の為にもなる。と思っている。
今日大衆酒場に2人で向かうのは、それが大きな理由だ。
イノセントは脱衣所から届く衣擦れの音も我関せず、口元を引き締めた。今後、バーミリカの居るべき場所を探る為に。
°˖✧◇✧˖°
ガランと鐘の音が鳴る。扉を開けるやいなや、鼓膜を大きく震わすのは楽しげな人々の声とぶつかり合う杯の音ばかりだ。「隠れ家」という己の店名に勝ちまくったような賑わいを見せるここはメインストリートのほぼ中央に位置し、イノセントの家の近所でもある。女店主が1人で客を捌く中、明朗快活に顔をこちらに向けた。一瞬大きく目を開き、イノセントが頭の上にハテナをうかべる前に元に戻る。
「いらっしゃいな!おや、カフェん所の坊やじゃないか!久しぶりだねえ」
「どーも」
客はめいめいの話に花を開かせて、酒に酔わされている。がははと豪快な笑い声が聞こえる折、イノセントは背中側に身を潜めたバーミリカに笑顔を作って口を開いた。
「ねえバーミリカ、ちょっと耳塞いであっち向いてて」
「やっぱり笑顔下手くそですね」
「うるさい。とにかく、言われた通りにやって」
「仕方ないですねえ……」
大袈裟に「どっこらせ」と言いつつ、きっちり耳を塞いでそっぽを向いたバーミリカ。イノセントは更に彼女の耳に手を添えてガードする。周りの音が聞こえなくなるくらいに。女店主は苦笑をたたえて一瞥すると、ちらっとイノセントを覗き込んではしたり顔をしてみせた。検分するような目付きで彼の頭からつま先までぐるりと視線を一巡させた後、口を開く。
「笑顔、そんなに下手かね」
「やっぱり下手ってほどでは無いですよね。此奴の見る目がないだけで……」
「どういう風の吹き回しかは知らないが、そこの嬢ちゃんも一緒に”奥“に連れて行くんだね?さ、合言葉言いな」
イノセントの言葉を遮り、話を続けた女店主____ポスコ・アディントンに、顔を真剣に改めた彼はより一層両手に力を込めた。今のところバーミリカに、ここの合言葉を教える気は毛頭ない。
「『酒を育てたいんだ』」
「……OK、入りな」
「? ???」
ポスコは従業員専用と書かれた扉を薄く開いて招く。周りの喧騒で、客達はこちらに気づいていないようだ……若しくは、グルなのか。イノセントは彼女自身の耳を塞ぐ手をポンポンと叩いてやり、不思議そうに見上げてくる顔に手を外していいと伝えた。音が戻ってきた直後、バーミリカはポスコとイノセントの顔を交互に見やる。
「何の話をしてたんですか?」
「ヒミツ」
「……ああ、破廉恥なお話ですか。痴話?」
「くく、嬢ちゃんも見かけによらず言うねえ。丁度いい、あたしも少しあちらの様子見がてら一緒に行こうかね」
大人の対応、軽く受け流されたバーミリカは面白くなさそうに眉をひそめるも、それ以上は言及せず。そういう扱いもアリなのかとイノセントが隠れて感心している間に、通り抜けた扉がキイ、と甲高い音を立ててしまった。バーミリカは静かに歓声を上げる。
案内された向こう側、“奥”。そこはさっきまで居た場所とほぼ変わらない酒場だった。しかし、一つだけ異様だとすれば。
全員、裏社会に通ずる連中だということである。