5.「邪道です!」
美味しそうな匂いが鼻腔を掠める。何かを焼いている匂いだ。
次いで、野菜をリズミカルに刻む音が耳朶を打つ。シャキッと鳴るそれは葉物だろうか。
バーミリカはゆっくりと瞼を開けた。何回か瞬きすると、視界が開ける。真っ先に目に映ったのはパステルイエローに近いマイルドな配色の天井で、見覚えが無いものだった。
微睡みながらもなんとか上半身を起こすと、掛かっていた布団がずり落ちる。ぼーっと意識をふわふわさせていたが、イノセントの「あっ」という声で一気に感覚が明確になった。
「起きたんだ。おはよう」
「おはようございます!」
「あはは。朝から元気なことで」
よくは眠れなかったか、とリビングに繋がるキッチンから顔を覗かせたイノセント。彼こそ一睡もしてないだろうとバーミリカは目を瞬かせる。そして、寝る直前に見たアナウンサーに負けない笑顔で言葉を返した。
「元気が私の取り柄なん……」
ぐう、と腹の虫が鳴く。あら、とイノセントが笑みを零すのを見て、頬が熱くなるのを感じた。咄嗟に眉間に皺を寄せ、お腹を隠すように蹲って見せる。
「くっ、お腹が疼きます……きっとかつて裏社会の輩に斬られた痕が!」
「誤魔化し方が斬新」
厨二病ってお年頃なのか、と一人納得して彼は再びキッチンに戻る。カチャカチャと食器の音を鳴らしつつ、寝癖も相まってボサボサ頭のバーミリカに言った。
「服、洗って破れたり解れてた所は直しといたから。取り敢えず着替えて髪整えてきなよ」
「お母様ですね」
「誰がお母様だ」
すいません、と反省の色どころか能天気に笑って洗面所に駆けていくバーミリカに、イノセントはやれやれと肩を竦める。第一、身元も知れない子だ。両親の事なんかは結構配慮すべき話題じゃないのかと眉を寄せつつ、彼女の底抜けに明るい笑みを思い浮かべては目を伏せる。
お母様属性なんて欲して無いけれど、職業柄か何かの影響か。世話を焼く気質はどうにもイノセント自身に根付いている。
長所か短所か、と定期的に自問する答えの曖昧な文言は、料理の盛りつけに集中し、意識の底に沈め込んだ。
「目玉焼きにトーストにサラダ! あっ、ウインナーもある!」
「いいでしょ。運ぶの手伝って」
早速身だしなみを整え参上したバーミリカ。イノセントは簡単にあしらうと、彼女分のお盆を差し出した。いつも以上に瞳が輝いて見えるのは、それほど空腹だったということだろう。今にも涎を垂らしそうで、「待て」と言われた犬みたいだ。最奥に笑みを忍ばせて、彼自身もリビングの食卓へお盆を運んだ。
バーミリカはイノセントが席に着くまで待ち、着いたと判断するや元気に両の手のひらを合わせはにかんだ。何処かの少年漫画の主人公に居そうな面持ちで、それでもテーブルマナーを破らないように淑やかに、フォークをウインナーに差し向ける。
イノセントはその様をじっと見ていたが、どういう訳かフォークの動きが止まった。脳内に疑問符を浮かべつつ、「どうしたの」と問いを投げかける。
彼女はさっきと打って変わったように神妙な顔をして、フォークに刺されたウインナーとイノセントを交互に見比べた。
「あの……今更というか、不躾なんですけど」
「何」
「私が居候で邪魔、とかで……ど、毒とか盛ってたりは……」
「……」
暫く、二人の間に沈黙が流れる。刻刻と彼女の手には汗が握られる中、イノセントはにっこりと微笑んだ。釣られて彼女も口角が上がる。
「失礼な」
「ああっ!?」
ひょいっとイノセントが彼女のフォークを食み、ウインナーを自身の口内へと搔っ攫う。バーミリカは盛大に目を瞬かせた後、げんなりと肩を落とした。その姿が少し愉快で、イノセントは笑みを優しくする。
「その点は大丈夫。結構美味しく焼けたと思うんだけど」
「うう……そうですか」
まあ自業自得、と悔しげに唇を噛んだ彼女はころりと気を取り直し、勢いよく残りのウインナーを平らげた。真ん中に焦げのあるこんがりと焼けたトーストをちぎっては、立て続けに口の中に放り込む。ほのかにバターの香りが鼻腔を過ぎて、彼女は満足げに舌で唇の端を舐めた。サラダのシャキシャキとした食感を思う存分楽しんだ後、徐にイノセントに声をかける。
「そういえばお兄さん。目玉焼き用の胡椒はどこです?」
「何言ってるの。目玉焼きにはケチャップ一択でしょ」
解せない、と物を疑うような眼がバーミリカを捉え、確かめるような言の葉を紡いだ。え、と喉の奥で小さく声を上げた彼女は、眉を下げて弱く笑い出す。
「あはは、嫌ですねえお兄さん。冗談は良いですから、胡椒を」
「冗談じゃなく普通にケチャップ派なんだけど」
「邪道です!」
「あ?」
突然、戦いの火蓋は切って落とされる。
人は極力争い事を避けるケースが多い。しかし、まさに今、少女と青年の間でそれは確かに勃発していた。
背景にゴゴゴ……と見えそうな険悪な雰囲気。2人の顔には笑みが貼り付き、互いに譲る気は無い。
バンっとバーミリカが両手を机につき、前のめりになる。むっと引き結んだ唇は健康的な紅を伴っていて、敵対していれど接近する整った顔に、イノセントは居心地の悪さを覚える。
「ソースだとか醤油を使う人はよく見かけます。まあそれもちょっと意味が分かりませんけど」
「へえ」
「胡椒が一番です! ちょっとしたアクセントってやっぱり必要じゃないですか。必要ですよね?」
「そうかな。俺はケチャップの方が好きだけど」
少女の熱烈な意見をあっさりと躱し、目を細めて大人の余裕を醸し出した男。机に両肘をついて手を組むと、そこに口元を寄せた。さながら会議中の偉ぶった輩のように、鼻を鳴らしてから再度口を開く。
「人それぞれで良いけどさ、でもケチャップはいいんだよバーミリカ。気づけよアイツの有能さに。トマトだよ、野菜ですよ。健康にいいのとかって女の子は気にするんじゃないの」
「……しますけど。わざわざ目玉焼きを食べる時に摂取する必要性は? サラダがあるじゃないですか」
「そりゃ、オムライスにケチャップかけるみたいなモンでしょ」
双方睨み合って硬直。先に目を背けたのは、バーミリカの方だった。食卓の端に申し訳なさそうに立っているケチャップをちらりと見て、諦めたように吐息を零す。
「まあ、別に良いんですけどね。次は胡椒もあると嬉しいなと思いまして」
「善処するから、今回はケチャップでどう?」
「結構です。それよりお兄さん、時間は平気なんですか?」
ん? とトーストを食みつつ時計を見やると、店の開店時間までおよそ10分を切ろうとしていた。衝撃でトーストを飲み込むと喉に詰まり、むせ返りながらコーヒーを呷る。
騒がしく立ち上がれば手ぐしで髪を梳いて、クローゼットへと足を向けた。
久々に誰かと朝食を食べたもので、しかも何故だかしょうもない議論に白熱してしまった為か時を忘れていた。それを彼女に指摘されて分かったことが恥ずかしくなったのか、彼は少女に顔を向けずに礼を言う。
「あー、急ぐ。ありがとバーミリカ」
「いえ!」
途端ににこやかな笑みを浮かべて平常運転となった彼女は、未だに口を付けていなかったコーヒーを口に含む。先程コーヒーを呷った彼に釣られたのだが、直ぐに顔中の筋肉という筋肉が真ん中に寄せられていく気がした。
「滅茶苦茶甘えぐ酸っぱい……」
「俺特製ブレンドだから」
カフェでも売ってるんですか、と苦々しい表情のまま準備中の彼に問うと、肯定の頷きが返された。
こんなヘンテコな味は果たして売れているのか、なんて気になってくる。
「定番のも売ってるけど、俺こっちの方が好きだし」
「……まあ、その、不味いとは言いませんけど……」
仮にも居候、ただでさえ先程ケチャップ派を蔑ろにしてしまったが故に、これ以上出されたものに文句を言うと追い出されてしまうような気がして黙らざるを得なかった。色んな味が混ざったコーヒーをちびちびと飲んで、視線は何処か遠い彼方へと飛んでいく。
コーヒーは自分で淹れたい。
そんな自立心溢れる思いが芽生えた今日この頃だった。
目玉焼きにはソース派です。