考えられない部屋にて
どうにも私は顔に出るらしい。
ニキビの話ではない。表情の話だ。いつものっぺらぼうな表情をしていると友人は言っていた。毎朝、顔を洗うために洗面所に足を運ぶが、なにぶん目が悪く、自分の顔をまじまじと見ることもない。なるほど、鏡に写る私の顔は目鼻がはっきりしなく、口は頬と混じり合って奇妙な形をしている。のっぺらぼうと言われても仕方がない。
冗談はさておき、子どもの頃から両親に「人様に迷惑だけはかけぬ生き方をしなさいね」と言われてきた。そのためだろうか、あまり自己主張をせぬようになった。ねだることもせず、慎ましい生き方をすればするほど両親から褒められた。両親だけでなく、近隣の人様からも大人しい子とちやほやされるようになった。褒められて調子に乗らぬ子どもがどこにいるだろうか。しかし、調子に乗って騒ぎ立てれば叱られるのである。慎ましいという言葉をいつの間にか大人しいという言葉と同じ意味にとらえ、やがて物静かな子に育つのもそう遠くはない。私は両親の望む可愛い子に育ったのだろう。おかげでのっぺらぼうと同僚から言われ、それすらも慎ましい反応ができるようになった。
そんな私にも感情というものがある。爆発させることはこの歳になってもはやないのだが、その反動かいつの間にか顔に出るらしいのだ。鏡があれば見てみたいが、鏡の前に立つときはどうしたっていい顔をしているものである。そこで一瞬を切り取る写真に頼ってみた。友人に頼んでその一瞬を何枚か撮影してもらい見てみると、なるほど、どうもそこにいる私の表情は活き活きとしている。見ていて悪いものではない。だが、どういうわけかあまり見続けたいものではない。今まで築き上げてきたプライドというものがあるのだろうか。そんなものを今まで感じたこともなかった私だったから、抱いた感情に対してどう対応していいのかわからない。
「いま、すんごい表情しているよ」
そう言われて苦笑せざるを得なかった。
友人はそんな私を見て笑うのだった。
ある日、その写真を撮影して見せてくれた友人が、私の家にやって来た。見せたいものがあるからぜひ見てくれというのだ。
友人を家に上がらせると、友人は前に来たときと同じように口にした。
「いいなあ、こんな広い家に住めて」
そんなにこの家は広いのだろうか。私の実家はもっと広かった。この屋敷はもともと祖父の屋敷だった。三年前に亡くなった際に私が一人で継いでからというもの、屋敷には一人のメイドと私だけである。お互い同性なため変なことも起きないだろうと実家の者たちは要らぬ安心をしていると風に聞いたが、いい加減私のことに目配りしないでほしいものである。誰を愛したって、私の勝手だろうが。まったく。
応接間に友人を案内すると、ちょうどよくメイドが紅茶とパウンドケーキを運んできてくれた。友人はあっと驚いた。家では食べれないほどの高級品だと。私にはどれほど高級なのか分からない。そもそも家ではパウンドケーキを食べることもない。メイドに訊くと、いつものようにイヤミったらしく言われてしまった。
「お値打ちのわかる人にしかお出ししない主義ですので」
「ヒドイいいようだ。確かに私はケーキの値段など分からぬが、ケーキ以外の物を見る目は十分にあると思っている」
「では、腰かけているソファーがどれほどの値打ちがあるものかご存知ですか?」
「知らん」
「そうですか。今朝の広告にそのソファーが掲載されていましたよ。近くのホームセンターで売られているそうです」
「そうか。なかなか良いソファーを売っているんだな」
「はい。ですのでこの前みたいに紅茶をこぼして頂いても私に隠さなくて結構ですよ。慌てて掃除しようとしたせいか廊下のカーペットにまで水をこぼしたようですし」
「おい。汚したからと言って買いなおすことはないだろうが。掃除すればいいことだろう」
「買いなおす? おっしゃっていませんけれども。カバーの取り外しができるうえに丸洗いが可能なため、取り外して洗濯機に入れればそれで済むのです。それも知らずに慌てて風呂場に行き、バケツに水を組んで」
「待て。どうしてそれを知っているんだ」
「二人だけしかいませんからね。家のことをほぼ管理しているメイドの情報力を見くびらぬようお願いします」
「復職で探偵でもしたらどうだ」
「面倒な事件を解決するのは私に合わないと思います。それよりも、現場の掃除をする方が私には適任ですね。では、ごゆっくり」
メイドは踵を返し、エプロンドレスの裾をふわりとさせた。応接間から出ると、こちらに笑顔で一礼して、音を立てずに扉を閉めていった。
「いいメイドさんだね。話も面白いし」
「まあ、一緒にいれてうれしいよ」
血が繋がっていないが、私が中学生の頃から実家でともに住んでいたメイドである。身内同然だとも思っている。
身内を褒められて良い気分にならないはずがない。
表情に出ている、とまた友人に言われてしまった。
「それで、今日は見せたいものがあると言ってたな」
「うん、ちょっと待ってね」
そう言って紺色のトートバックから友人はA4クリアファイルを三つ取り出した。透明なクリアファイルにはどれも用紙が数枚ほど納められていた。
「一週間ほど前にさあ、新作の文房具のアイデアをいくつか話していたじゃん」
「学食でな。次の授業があったから途中で話が終わってしまったが、あれから話をしていなかったな」
「うん。三つほど盛り上がって」
「どれか一つアウトプットしてみようという話だったな」
「それでね、三つアウトプットしたの」
「三つ? 三つか!? それはまたすごいな!」
驚きと同時に笑ってしまった。別に友人をバカにしていたわけではない。私は相手に驚かされると、なんだか笑ってしまう癖がある。
友人も私の笑いに魅かれて笑うと、「だって、書いちゃった方が早いんだもん」と言った。
「書いちゃった方が早い?」
「いやさあ、三つとも二人で考えた内容でしょ。煮詰めるならまた話をした方がいいと思っていたんだけど、一週間ほど会えなかったでしょ。何やら忙しそうだったみたいだし」
「ああ、すまんな。父の政治活動を支援しなくてはいけなくてな。あんまし出たくないものだよ、知らない人ばかりのパーティーには」
「私には楽しそうに思えるけどなあ。カッコイイ人とか偉い人とかに会って話せるわけでしょ」
「まあな」
そう言って私はクリアファイルの中身を取り出した。自分から話を振ったくせに、これ以上この話を続けたいとは思わなかった。全くもって苦痛で退屈なパーティーという感想しか抱いていなかった。過去の過ちから私は話さないで笑顔でただいることにしている。どうせ私の話すことに彼らは興味を抱いてはくれない。ただ、私を手に入れようとは躍起になるらしい。
何を話せと?
「目がなんか虚ろになってるよ」
「あ、ああ、すまん」
「もしかしてダメそう?」
目線が受け取ったばかりのものに向いていたことに気付かなかった私は、友人に勘違いされまいと思いすぐに否定した。
「いや、まだ読み始めていない。その、さっき話したパーティーで少し嫌なことがあってな。それを思い出してしまっただけだ」
「そうなんだ」
「気にしないでくれ」
「イラストと説明文だけだけど、かなり細かく書いたから読みにくいし時間もかかると思うの。もし時間がなかったら読まなくてもいいけど、読んだら感想を教えてね。もし良いのがあったら来月のコンクールに送ってみるつもりだから」
私は快く返事をした。
それから三十分ほど友人と話をした。先ほど受け取ったものについての話はこれっきりで、来月末にある授業のテストについて話していた。お互いに余裕だよね、と言いあっていても、私は不安で仕方ない。そもそも出席率が私は低い。テストで満点を取れたとしても、出席点で落とされてしまえばそれまでのことである。
話はまだまだ続きそうだったが、友人はそろそろアルバイトの時刻だと言って去ることとなった。
応接間から廊下に出て右手にある玄関へ向かった。玄関の外まで友人を見送るつもりで私は友人の後ろを着いて行った。
「ねえ、きちんと授業でないとそろそろヤバいからね」
玄関口で靴を履きながら友人は言った。スニーカーはすでに踵が潰れている。つま先をとんとんと大理石の床に三度ほど打ち付けて、膝を折って座ることもせずに友人の足はするりとスニーカーに収まった。
「心配するな」
「それにしても本当に広い玄関だよね。私の部屋ほどあるでしょ。絶対に」
「そうかもな」
「ひっどいなあ。私の部屋の方が広いよーだ」
玄関口を出るとメイドが庭園の掃除をしていた。友人のお帰りに気づくとすぐに私のそばまでやって来た。
「応接間の電灯が点いたままです」
「ああ、すまん」
「消してきたら? 見送りはここまででいいからさ」
「そうか。じゃあ、また明日会おう」
じゃあね、と軽く挨拶をして友人は正門に向かって行った。敷き詰められたレンガ調の石畳をわざわざ歩かず、友人は端にある芝生を珍しそうに足元を見たり後ろを向いたりして歩いて行った。
見送りの際にメイドが言った。
「芝生がそんなに珍しいのですかね。わざわざ踏んでいくなんて」
「許してやってくれ。踏まれた芝生の育ちが悪くなることは私も知っているが」
「別に構いませんよ。すでに芝は根付いておりますから、早々に枯れることもありませんので。それよりも電灯の点けっぱなしをどうにかしてほしいですね」
「悪かったよ」と私は言って家に戻っていった。
友人から受け取ったものを読むために、私は書斎に籠ることとした。
書斎に行く前に飲み物として紅茶を持っていこうと思い、キッチンに行ったが私の蓋付きマグカップが見当たらなかった。先週も書斎で使っていたことを思い出し、慌てて行くと机の上には栞が挟まれた本が一冊、その隣に求めていた赤色のマグカップが置かれていた。
またやってしまった。
「なあ、蓋付きマグカップを貸してもらえないか」
メイドはリビングのソファーに座りビジネス週刊誌を読んでいた。私の声に気づくと少し気怠そうな眼差しでこちらを振り向いた。
「……また書斎に置きっぱなしでしたか」
「まあ、その通りだ」
「いいですよ。マグカップは水の中に浸しておいてください。後で洗っておきますから」
「すまんな」
「いえ。それよりも書斎は埃っぽくないですか?」
「大丈夫だよ。別にそこまで汚れてはいない」
「そうですか。それならば掃除は明日にでも致しましょうか。結局、お嬢さまはおやりにならなそうですから。私に見せたくないものは全て自室に退避しておいてください」
「手伝おうか?」
メイドは首をわざとらしく傾げて言った。
「なにを、でしょうか?」
「掃除、をだよ」
私が言うと、メイドは少し可笑しそうに笑った。
「ぜひ。では、机周りをお願いします。雑巾はいつものところにあります。お使いになる前に机の埃くらいは取ってからでないと、友人からの預かりものが汚れることになりますよ」
「ああ、ありがとう」
メイドは私の返事を聞くと立ち上がった。
「紅茶を入れて書斎までお持ちしますから、それまでに机を綺麗にして頂けると幸いです。お嬢さまの蓋付きマグカップは紅茶をお持ちした際に引き取ります。それでよいですか」
「ああ」
「それではお気をつけて」
机の上は思うよりも埃が溜まっていた。一週間、掃除をしないだけでこんなにも汚れるのかと思った。私がいないときも書斎を除いてすべて綺麗にしてくれていたメイドに感謝しなければなと思った。「なんなら帰ってこなくても良いですよ。その方がずっと綺麗なままですから」と冗談交じりに言うメイドの顔が浮かんだ。
机を綺麗にした後(とは言っても、机の上をただ拭いただけなのだが)、本棚に囲まれたこの書斎をぐるりと見まわした。北側に窓があり、窓の左側には机が置かれており、残り三方にある本棚にはぎっしりと本が収納されている。本はすべて祖父が集めたもので、私はいまだに書斎にある本の数も中身も知らない。
祖父の晩年は、この部屋で過ごすことが多かったそうだ。食堂で朝食を食べ終えたあと、面会の予定がなければこの部屋に籠っていたそうだが、祖父は私が幼いころから何者にも書斎への入室を禁止していた。そのため、祖父がこの部屋で何をしていたかは誰も知らないそうだ。幼かった私も祖父が何を読んでいたかはわからない。
一度だけだが、祖父と私がともにこの部屋にいたときがある。学校から実家に帰ることが嫌になり、逃げ込んだところがこの屋敷だった。今ではもういないが、その時は屋敷の門に守衛が一人いた。黒色の老兵と私は勝手に名付けていた。深く刻まれた皺と鋭い眼光、歳のわりに黒髪が多く、足腰はいまの私より強かったかもしれない。なんせ、五十メートルを八秒以内で走れていたのだから。
ちょうど黒色の老兵と私の祖父が守衛室で将棋を指していたときだった。呼び鈴も鳴らさずに私は正門を抜けて入ったものだから、老兵に怒られるかと思ったが、守衛室に入っても老兵は気にも留めずに将棋を指し続け、祖父は私と目が合うと、首を屋敷のある方へ振って屋敷に行ってろと合図をした。私は祖父と数度しか会っていないものだから、えらく不可解な心持ちになって屋敷の玄関を上がると、そこで出迎えてきた執事(今はもういない)が驚いた様子を見せてくれた。そのまま大して落ち着く様子こともなく、彼は汗を拭いながら居間まで案内してくれたのだった。
いまでも私は執事の反応の方が正しい気がする。当時、私の機嫌を損ねた場合はクビだったのだから。が、老兵はそんな私に対しても臆することなく対応することが多かった。そのためだろうか、老兵と祖父に私は親近感を抱いていた。老兵は私と似ているからなのだろうか、祖父は一応の親族のためだろうか、いまとなってはどうでも良いことだ。
その時の私は居間に案内されたのだが、驚くほどに私がやりたいことがまるでなかった。絢爛に装飾が施されたテーブル、座り心地の良いソファー、正面にあるモニターは当時の私が大の字に寝そべっても十分あまるほどの大きさだったが、リモコンが見つからない。仕方なくモニターまで寄り電源ボタンを押しても画面は点かず、両脇にある木製のスピーカーが側にあったので、その頭部をコンコンとなんとなしに叩くとどういうわけか内部でポコンという音がした。それが面白くて何度か叩いていたのだが、ついに飽きてしまうとすることがなくなった。
壁紙は白くところどころに花の刺繍が施されていたが、いまになっても何の花かは分からない。祖父が無くなる一年前に壁紙をすべて変えてしまい、いまではゴシック調の模様がところどころに描かれたクリーム色の壁紙となっている。
執事は戻って来ず、祖父も一向に現れない。屋敷のなかでほったらかしにされた私は、居間に居ろとも言われたわけでもなし、ちがう部屋に向かうこととした。キッチンにでも行こうかと考えたとき、祖父の書斎のことを思い出した。立ち入り禁止と言われたところに行きたくなってしまう性分は、今も昔も変わらない。変わったとすれば、昔の行動力が今になると失われてしまったことだろうか。
書斎に鍵がかかっていることをなんとなしに予見していたのだが、書斎のドアは開いてしまった。驚いたままドアを引いて覗いてみると、祖父がこちらをじっと見ていた。
「入るときはノックぐらいせんか」
「申し訳ありませんでした」
目上の方に対するいつもの言葉使いをすると、祖父は鼻を鳴らして言った。
「そんな堅苦しい言葉を使わんでも良い。それよりもどうしてここに来た」
「居間にいるのがヒマだったので」
なら家へ帰れ、と無理やり帰らされると思っていたが、返事はそうではなかった。
「そうか。それならば仕方ないな。実家に帰ろうとは思わんのか」
「今日はあまり、まだ帰りたくないです」
祖父は顎に手を当てて考え込むと、やがて納得した様子を見せてから言った。
「そうか。ならば気が済むまでここに居るが良い」
そう言われても、ここに居たいと思える部屋には感じられなかった。なんせ、本と机と窓しかない。この本棚が倒れてきたらぺちゃんこに潰されてしまうのではないかと思うとぞっとした。そして私はなんだか圧倒されていた。
「好きなの読んでもいいぞ。読めるならだが」
試しに一つ本棚から取り出してみたが、タイトルからして難しそうだった。それでも私はそれを読んでみることにしたのだが、全く面白いとは感じず、というよりも分からず、さっさと諦めて次の本に手を出したのだった。
次の本も、やはりだめで、次もダメだった。
本棚にも戻さずに床に置きっぱなしにして、ついに私は祖父に言った。
「ねえ、どうしてこんな本を読んでるの? 面白いの、これ?」
「そこにある本は読んだことがない、私もな」
「なにそれ。意味ないじゃん」
「見栄っ張りだからな。書斎のような場所を作りたかったにすぎんのだよ」
「なにそれ」
それから会話はあまり続かなかった。祖父が本を読み始め、私の呼びかけに返事をしなくなってしまったからだった。
私も面白い本を見つけようと思い何冊も取り出したがついに見つかることなく、その場に寝っ転がて、本棚が倒れてきたらどうしようかと考え事をしながら目を瞑っているうちに、そのまま眠ってしまったのだった。
この屋敷を継いだとき、祖父は一人になれる部屋が欲しかったのではないかと考えてみたのだが、それならば祖父がこの書斎のことを私にこう言ったことが理由つかず、今のところ、私は祖父の見栄だけでこの書斎は作られたのだと思っている。
「考えられない部屋」と祖父は言っていた。
私には祖父の真意は分からないが、確かにこの部屋で考えることができないかもしれない。
これだけの本があるというだけで、圧倒されて。
友人から預かった新作の文房具を売るならばどうすれば良いかを考えていたとき、書斎の扉をノックする音が聞こえた。
返事をするとメイドが入って来た。
「常務の方がお見えです」
「紅茶は?」
「こちらにお持ちしようと準備していたときにお見えになりましたもので」
そう言ってメイドはうんざりした表情をした。
なるほど、帰ろうとしないのか。
「分かった。応接間に行けばいいのか」
「ええ。それ以外の場所に案内する気もありませんので。紅茶は一番安いものでよろしいですか?」
「ああ。ついでに言っておくとケーキは要らない」
「食べたばっかりですからね」
机の引き出しに預かりものを仕舞おうとすると、空っぽの引き出しの中はうっすらと埃が溜まっていた。
「引き出しの中を綺麗にしてもらえるか?」
「よろしいのですか?」
「かまわないよ」
そう言って私は全ての机の引き出しを開け、中になにも入っていないことを確認した。
「掃除が終わったら、これを引き出しの中に入れておいてもらえるか」
「かしこまりました」
重たい腰を上げ、私は書斎から足早に出た。
ドアを閉めようとしたとき、訊き忘れたことがあったので私は振り返った。
「聞き忘れていた。どこの会社の常務だ」
「会えばお判りになられるかと思います」
「ありがとう。追い返せばいいんだな」
メイドは笑顔を見せて言った。
「お好きなように。お好きなように」
応接間にいた常務はあまり私が知っている者ではなく、名前も顔もさらさら覚える気はないが、細身で長身でスーツを着ていて、あとは左手の薬指に指輪があるくらいの男だった。
私が入室したときにさっと立ち上がり一礼したので、私はいつものようにソファーに腰掛けるよう促した。
「お元気そうでなによりです」
「そちらこそ、お元気そうで。今日の御用件は」
「いえ、この辺を通りかかったものですから」
「そうですか」
でしたらお帰りくださいませ、と言えれば私も楽なのだが言えるものでもなく、相手方は私をイラつかせたいのか、どうでも良い世間話を始め、なんとなしに私も話を合わせているうちに、やっと相手が本題を話し始めたのだった。
「先日のパーティーで会話なさっていた方を覚えていますでしょうか」
「いえ。何しろ数多くの方とお話したためか、あまり記憶にないのです。申し訳ありません」
「そうですか。あのときのあなた様は非常に楽しそうでしたので覚えていられたかと思っておりました」
「そうですか。楽しそうでいましたか」
たしか、のっぺらぼうな顔をしていたと思うのだが、違うのだろうか。
「えらくお気に召されていたようで」
「どちらが?」
「それは、お互いに」
なにを、冗談を。
「そのようなつもりはなかったのですが。そう見えましたか」
「はい。それでぜひ今度、あの方の主催するパーティーにご招待したいと思いまして」
お断りいたします。
「ぜひ来ていただければと。無理にとは仰いませんが」
無理だと言えればどんなに気が楽か。
私はあまり表情を見せぬように目を瞑って下を向いた。
言えれば、言えれば、言えれば、言えないか。
「そうですね。せっかくのご招待ですし参加してよろしいならば」
断っても断っても、あの手この手で私を参加させようとするのはもう分かっている。
一つ頷けば、もう一つもう一つとお願いしてくるのも目に見えていた。
「それででして、新作のドレスができたので、次の催しの際にぜひ着て頂ければ幸いなのですが」
あいにく洋服は間に合っていますので。
「……、どんなドレスでしょうか」
「はい、五種類ほどありまして、そのうちの一つを着て頂ければ」
舞台衣装もカメラもバッチリに用意されているというわけか。
カタログを見せられて、どう反応していいかわからないとき、私はとりあえずの呪文を言って相手を退けることにしている。
「どれも良さそうなドレスばかりで嬉しい限りです。近日中にそちらへお伺いしますので試着させて頂けますでしょうか」
「ありがとうございます。それで、メイドさんもぜひご一緒に来ていただければ、と」
「……、なぜでしょうか」
「会いたいと仰っている方がおりますゆえ」
「聞いておきます」
その返事に男は「ぜひ」の言葉だけを残し、もう時間なのでと言って去っていった。
こういうときに限って、メイドはいつも忙しそうにどこかで何かをしている。
私は礼儀上、男を玄関口で見送った。
書斎に行くとメイドはカーペットの敷かれた床に座り、足を伸ばして文庫サイズの本を読んでいた。
「掃除は終わったのか」
「はい」
「その本は面白いのか」
「はい」
「なんという本だ」
「後にしてもらえます? いま面白いところなので」
そう言われると私もこれ以上何も言えず、少しだけ突っ立っていると今度はメイドが訊いてきた。
「お帰りになられたのですか」
「ああ」
「断られたのですか」
「いや」
「どうして断らなかったのですか」
「後にしてもらえるか。いま落ち込んでいるんだ」
メイドは本に栞を挟んで閉じると、私の方を向いて言った。
「机の引き出しに預かりものを入れて置きました。いま読むならば私は立ち去りますけど、いかがなさいますか?」
そんな気分ではなかった。
いまはどこかへ逃げたい気分だった。
誰も私のことを訪ねて来ない場所でのんびりしたいと思っていた。
「いや、出かけようと思ってな」
「どこへ?」
「なに、少し書店に行こうと思ってな」
「次期社長令嬢が来店したとなれば、さぞ従業員たちは驚かれるでしょうね」
「イヤミなことを言うな」
「事実ですからね。この辺のどこに行っても、あなたは次期社長令嬢として歓迎されるのでしょうけど」
それを言われるとこの近くで行く場所がなくなってしまう。
「行かぬ方が良いだろうか」
「少なくとも、今のあなたは行かない方がよろしいかと」
「そうだな! どうせまた我侭な奴と言われるのかもしれないな」
先日のパーティーにて陰で言われたことを口にしたとき、メイドの瞳孔が急に開き、静かな口調で言った。
「そのようなことを先ほどのお客様に言われたのでしょうか」
「いや……」
「言われたのでしょうか? それとも、先日の私の行為に対する皮肉としてのお嬢さまからのお言葉でしょうか」
「いや、ちがう。先ほどの人はそんな人ではなかった」
私が必死に否定していると、メイドは私の方を見て、うんざりした様子で言った。
「手に入れたくないものを押しつけてきて、断り続けても押しつけるしつこい相手を蹴り飛ばしたとしても、いったい何が悪いというのですかね」
メイドが自分のしてしまったことをバツの悪そうな顔で言ったのを見たとき、私はそのときの様子を思い出してしまい、思わず笑ってしまった。
「そうだな。なにも悪くない」
「性格が悪いのはお互いさまですね」
「いい蹴りだったと思うぞ」
「そうでしょう。顔面へのトラース・キックであれほど良い音を奏でられたのも久しぶりでしたので」
「大の字になって倒れたあの男の姿が今でも目に浮かぶな」
「素晴らしい受け身でした」
二人そろってあの時のことを思い出し、ほんの少しの間だけ笑いあっていた。
そうして静かな時間がほんの少しだけ流れていた。
「行ってくるよ」
「そうですか」
「この書斎は、良い場所だな」
「そうですか」
「……、着いてきてくれるか?」
「いいですよ。どうせそうなると知ってましたから。身支度はすぐに整えられるようにしております」
メイドが指さした先には白黒のモザイク柄のトートカバンが置かれていた。
「準備がいいんだな」
「例えそうならなくとも、どちらにせよ出かけようと思っていたところですから」
「新しくカーペットを引いたのか」
「はい。リバーシブルなので、ひっくり返しただけです」
「洗いもせずにか」
メイドが立ち上がって言った。
「はい。裏返せば綺麗ですから。
それで、歩いて行かれますか? それともハイヤーでも呼びますか?」
「どっちが良いと思う?」
「歩きたい気分ですね。曇り空で陽射しも柔らかく涼しい風も時折りありますし」
「なら歩いて行こう」
「どちらまで?」
「ちょっとそこまでだよ。歩きたい気分なんだ」
「歩きながら考えが纏まるほど頭がよろしかったでしょうか?」
「もう考えは纏まっているんだよ。あとは決意だけが必要なんだ」
決意というよりは行動だろう、と思ったが、そのための行動をするには覚悟がだいぶ必要になる。
「ならばゆっくり歩いて行きますか。
それでお嬢さま。預かられた商品のアイデアはなんという名前なのですか?」
「ああ、そうだな。まだ名はないんだ」
「そうですか。名前がなければ、百貨店では売り出せませんね」
「良い名前を付けねばな」
私がそう言うと、メイドは返事をせずに周りの書棚を見渡し始めた。
「いまの私はどんな顔をしている?」
「そうですね。なにやら辛そうな顔をしています、けど」
「けど?」
「私にはもう見慣れた顔です」
「ひどいな」
「声をかけろとおっしゃるなら、あとは好きにしろって言いますね」
「それまたひどいな」
「なに、もう少しの辛抱です。お嬢さまの望み通り、有能なあの方が社長に任命されれば、お嬢さまは社長令嬢にもなることなく、面倒なお付き合いもすぐに減っていくかと」
「ついでに結婚の押し売りもなくなるな」
「喜ばしいことでございますね。そしたらやっと一人でいろいろと出来るようになるかもしれませんね」
そうなるといいな。
「そうなるといいな」
メイドは私の方をじっと見て、そして言った。
「いまのお顔がいちばん活き活きしておりました」
ああ、なるほど、顔に出るんだな、やっぱり。
特に取り繕うこともせず、私は言った。
「百貨店にでも行こうか」
「お好きなように」
「銀行にでも行こうか」
「お好きなように。お好きなように」
「ピザ屋にでも行こうか。駅前の」
「ぜひ行きましょう! 迷うことなどありません!」
メイドがすくっと立ち上がって言った。
「なんのピザを食べようか」
「迷うことありません。ぜんぶ注文いたしましょう」
「そうだな。ぜんぶ注文するか」
「はい。ここぞとばかりに見せつけてやりましょう。金持ちの力を」
「食べきれないだろうに」
「心配いりませんよ」
目を輝かせてメイドが言った。
「注文した数だけ、友人を呼ぶつもりですので」
私が頷くと、メイドはさっそくエプロンドレスのポケットから携帯電話を取り出し、目にも止まらぬ早打ちを始めた。
「私の友人も呼んでくれ」
「いましたっけ?」
「ひどいな」
「申し訳ありませんでした。真っ先にご招待させていただきました。すでに一人、もう一人と参加するとのご返事がありますよ」
今夜は楽しい楽しいピザパーティーになりそうだ、と思った。
涼しい風が窓からドアの方へと吹き抜けていった。