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苦手な方はご注意ください。

鬼村

作者: 付谷洞爺

人と人とが生まれる瞬間、それは何にも代え難い宝物が生まれる瞬間でもあります。けれど、それはその宝物が私達に理解出来る形でこの世に生まれ出てた場合にのみ起こりうる感動です。もし産み落とされたのが人ならざるものだった場合、貴方は何を思い、どう感じるでしょう?

充満する腐臭の中、その生物は異様に人間らしい所作で僕達の前まで歩を進めていた。

「はは、こいつは凄いや……」

 そう言って隣に立つ彼の顔を、僕はついぞ見ることが叶わなかった。

 なぜなら、まさにその瞬間僕は目の前の光景から目を逸らすことができなかったからだ。

 人間と読んでいいのかさえ疑わしい姿形を持つ、歴史が作り上げてきた怪物を眼前に、僕は完全に恐怖から身動きが取れなくなっていた。

「が、ががぐぎぎががげげがごごぐげげぎぎ」

 言語などととても呼べない不快な雑音が耳に届く。

 ぎょろり、と唯一持つ右の眼球を動かして僕達を捉えるそれは、明らかな殺意と敵意を持っていた。

 片腕はなく、左足も機能不全を起こしているそれは、しかし後天的なものではなくこの世に生を受けるその以前から宿命づけられているのだと教えられた。

 怪物はぐるるるるるる、と喉を鳴らし、ゆっくりと僕達の周囲を回り込む。

 それによって、ようやくその怪物の背後を見てとることができた。

 怪物の後ろには、これまた異形の生物が横たわっていた。

「……ほう、既に生まれる寸前のようだね」

「ど、どうするんですか、先生!」

 僕が先生と呼んだ彼は、しかし落ち着きはらった様子で懐に手を入れた。

 そこから拳銃を取り出し、銃口を怪物へと向ける。

「この村の悲劇も最早今日限りだ。苦しかっただろう。安らかに眠るといい」

 先生の声は優しく、その言葉は慈悲に満ちていた。

 だが、怪物に人間の言葉など理解しうるはずもなかった。

 怪物は先生の銃口を正面から見据えた。

 そして、人間離れした跳躍力でもって一気に肉薄する。

 僕はその光景を、戦慄に身悶えしながら見守っていた。

  

?

 

 

 僕が彼と出会ったのは昼休みも佳境に入った学校の校舎裏でのことだった。

「な、何ですかこれ……」

「んーとね、君の恋人の浮気現場を捉えた証拠写真だよ」

 親友の飯田秋晴から呼び出されてその場へ行くと、見知らぬ男がいて、なおかつなぜか二葉の写真を受け取っていた。

 そこに映っていたのは、確かに現在、僕が交際している女生徒だ。二周りほど年の離れた中年男性と仲睦まじそうに腕を組み、どこぞのホテルから出てくる場面がばっちり写っている。

「こ、これって何かの間違いじゃ……」

「んーん、これは明らかな浮気なんだよねぇ。それもお金を貰って体を差し出す。いわゆる援助交際って奴だね」

「う、嘘だ、彼女がそんなことをするはずがない!」

 僕は写真を地面に叩きつけて叫んだ。

 けれどその人は一向に怯む気配すらなく、むしろ楽しそうににこにこと笑っていた。

「嘘じゃないさ。事実だよ、これは」

「第一、あなたは誰なんですか! 突然こんな写真見せてきたりして!」

 僕はビシッと人差し指を差し、その人の鼻頭に突きつける。

 彼はきょとんとしたように目を瞬かせていたが、すぐに元の嫌味ったらしい笑顔に戻った。

「私は神楽坂神根。探偵をしている」

「た、探偵?」

 今度は僕がきょとんとする番だった。

 ……今時探偵って、何だそれ? 果たして儲かるのか?

 僕は僕自身の中にある探偵についての情報をフルに呼び出し、思考する。

 そして、一つの結論に思い至った。

「それって無職ってことじゃ……?」

 やはりこの人の言うことは信用ならない。あの二枚の写真は後で完全に焼却しよう。

 僕は密かにそう決心し、キッと神楽坂さんに視線を送る。

 

「最近、彼女とデートしたのはいつだい?」

「な、何ですかいきなり」

「いいから、答えたまへ」

「……た、確か去年の末、ですか……それが何か?」

 そうだ、こんな人の言うことがアテになるはずがない。僕の方が正しいに決まってる。

「去年の末……というともう半年近くは経過していることになるよ?」

「……な、何が言いたいんですか?」

「聞きたいかい? どうしても聞きたいかい?」

「ぐっ……それは……」

 聞きたい、と言えば嘘になる。けれど、聞きたくないと言ったとしたならそれもまた嘘になってしまう。この微妙に揺れる男心。僕は一体、どっちを選択したらいいんだ……!

 僕は返答する代わりにごくりと唾液を飲み下した。

 当然、聞きたくない方に気持ち的には傾いている。だが、この人の言うことが本当かどうか確かめたいと思ってしまっているのもまた事実だ。

 神楽坂さんは、たぶん僕の放っている空気で察しているのだろう。にやにやと苛立たしげな笑みを浮かべ、僕の口から返答が返ってくるのを待っている。

「……なんだっていうんです?」

 とうとう言ってしまった。言ってはならない一言を。

 目論見が成功した神楽坂さんは、更に口の端をつり上げた。まるで、僕のことを嘲っているようだ。

 一しきりにやにやにやにやにやにやした後、神楽坂さんは懐から一冊の手帳を取り出した。

「ではお答えしよう。君と彼女が交際を開始したのがおよそ十三カ月と三日前。その当時、君達は高校一年生だった。互いに男女関係は皆無で、まったく初々しいカップルだった訳だが」

「だ、だがって……何でそんな不穏ないい方を……」

「しかし二人の関係に変化が起こったのは君が彼女とデートをしなくなった去年の末だ。彼女はとある出会い系サイトで知り合った見知らぬ三十代後半の男性と肉体関係を持ってしまった。それが全ての始まりだ」

「何を言って……そんなの捏造でしょう!」

「まぁ聞きたまへ。最初はデート資金の調達が目的だった。しかし二回、三回と繰り返していく内に彼女は簡単に大金が稼げてしまうことに愉悦を覚えるようになった。そして……」

 神楽坂さんは勿体ぶるように一旦台詞を切り、にやりと気味の悪い引き裂くような笑みを浮かべた。

 まるで、悪魔みたいな人だ。

「大人の男性がもたらしてくれる快楽と数えきれないほどの諭吉。その二つの魅力に完全に引き込まれてしまったという訳だよ!」

 大仰に両手を広げ、楽しそうに語る神楽坂さん。

 彼のその無邪気さを装った邪気万歳の笑顔を睨みつけた。

 ……屁ほども気にしてないようだんが。

 しかしこれは……悪うしかないなぁ。

「おやおやどうしたんだい? そんなに楽しそうな顔をして」

「……そ、そこまで言われて精神が持つ奴なんてそうそういませんよ。あなたの言葉の全てを信じた訳じゃあない。けれど、さっきの写真とあなたの話を総合して考えると一度くらいはそんなようなことがあったようななかったようなそんな気がしてくるから不思議だ」

「全て事実だからね。仕方がないよ」

「は、はは……」

 何を言っているんだこの人は? まったく意味がわからない。

 僕は、彼女を信じたい。のに、何でこんな気持ちになる?

 まるで、彼女を心から嫌いになりかけているような。

「……ま、まだ完全に信じるには値しないと思いますけれど?」

「往生際がわるいねぇ、君。まぁそれも私好みではあるんだけれど。でも君も見ただろう? 君の恋人が二十歳以上も年の離れた中年ハゲ親父と一緒にラブホテルから楽しげに出てくるところを」

「……大体、誰がそんな調査を頼んだというんです?」

 これが最後の頼みの綱だった。

 ここで、この性根の腐った男が守秘義務を盾にしてくるようなことがあれば、僕はまだ、彼女を信じることが出来ただろう。

 なのに、この男は……、

「あなたのご親友の飯田君から頼まれて」

 間髪入れずにそう答えてくる。

 ぐらり、と視界が揺れたような気がした。

 ああ、気分が悪い。今日はもう早退しようかな。

「……飯田」

 余計なことをしてくれる。

 筋違いのお門違いとわかっていても、親友であるはずの飯田を恨まずにはいられなかった。

 くそ、もう逃げ場がないじゃないか!

「いい顔だねぇ。まるで意味がないと知りつつ、飯田君を恨みがましく思っている顔だ。実に私の趣味に合うねぇ」

「な、何を……」

「飯田君は君のためを思って調査を依頼してきた。そのことは君が一番よく分かっているだろう?」

「…………わかってますよ、そりゃあ」

 神楽坂さんに言われて、僕はバツが悪くなって目を逸らした。

 確かに、援助交際をするような人と交際していてもいいことなんてないのかもしれない。

「……それで、僕はどうしたらいいんですか?」

「私が知ったことではないよ。ただ、飯田君の希望としては別れてほしいらしいけどね」

 神楽坂さんは僕が投げ捨てた写真を拾い上げ、懐にしまった。

「ま、依頼は果たしたことだし、私にはもう関わりのないことだけれど」

 そう言うと、神楽坂さんは僕に背中を向けて去って行く。

 僕は一人、その場に取り残されてしまった。

 

 

              一

 

 

 僕と神楽坂さんが出会い、不毛な会話を繰り拡げたのがもうだいぶ昔のことのように思われる。

それくらい、彼の間で交わされた会話が僕の心を抉ったということだ。

 そんなことより、僕にとって重要だったのはやはり恋人の浮気の証拠を突きつけられたことだ。それも、同世代で僕よりイケメンでなおかつ性格も完璧な絶世の美男子だと言うのならまだよかった。僕もここまで落ち込んだりはしないだろう。

しかしよりにもよって相手が十も二十も年の離れたおっさんだと言うのだから傷口に塩を塗られたような気分だ。

 翌日から僕はすっかり塞ぎ込んでしまい、半ば不登校気味になっていた。

「……また飯田からか」

 ブーブー、とバイブ音が鳴り響く。

 けれど、どうにも誰かと話す気分になれず無視を決め込んでいた。

 三分くらい放っておくと、向こうも諦めるだろう。

 鳴り止み、僕は携帯を手に取った。

 発信履歴が飯田の名前で埋め尽くされている。

 合計三四件。飯田が僕を心配してかけてきてくれた回数だ。

 全く……世話焼きだな、あいつ。そんなんだから彼女の一人も出来ないんだろうな。

 ベッドの端に携帯を放り出し、倒れ込む。

「どうしてあんなことに……」

 薄暗い部屋に、僕の声が吸い込まれて消える。

 もちろん、あの後彼女とは別れた。だが、この胸にくすぶる彼女への気持ちが消えた訳じゃない。学校になんて行けば、当然彼女と顔を合わせることになる。それは……なるべくなら避けたかった。

 気持ちの整理がつくまでは、どうしても。

 そうやって思索に耽っていると、再び携帯が脈動を始めた。

「……しつこいな」

 飯田は毎日必ず一度、電話をかけてくる。僕が出ようと出るまいと関係なく。めげるという言葉を知らず。

 しかし今日に至っては違っていた。いつもならまた明日かけてくるはずだ。なのに、今日に限っては二度目だ。

 かけ直してくるなんて珍しい。

 それだけ、僕のことを案じてくれているのだろうか?

 それとも……、

「………………」

 僕は苛立つより先に何かあったのだろうかと不安を覚えた。

 放り投げた携帯を手に取る。

「……誰だ?」

 着信画面を見ると飯田からではなかった。

 まったく覚えのない番号が映し出されている。そして五分と経っても鳴り止む様子はない。

 とうとう、僕は通話ボタンを押して電話口に耳を当てる。

「……もしもし?」

『久しぶりだねぇ、少年』

「……? どちら様ですか?」

 まったく聞き覚えのない声だ。

 僕は怪訝に思い、首を傾げた。

 僕の反応がそれは予想外だったらしい。電話の向こう側では「あれれ? おかしいなぁ」などと、まるで惚けたようなことを言っていた。

『ふーむ……私のこの美声に聞き覚えがないと? 少年』

「はい全くこれっぽっちも」

 芝居がかった素っ頓狂ないい方だ。

 第一、この人はなぜ僕の携帯の番号を知っているのだろう?

「あなたは誰何です?」

『ははは、その後、彼女さんとは息災かい?』

「……何ですか、藪から棒に……切りますよ?」

『まぁ待ちたまえ。私は先日、校舎裏で会った者だよ』

「え? ……ということはあなたは先日の」

『そうそう、探偵の神楽坂だよ』

 嬉しそうに声を弾ませているのが、電話越しでもわかる。

 僕は以前会った時の彼の憎たらしい、他人を小馬鹿にしたような笑顔を思い出していた。

 思わず眉根が寄る。何となく胃の底がムカムカしてきたような気がしてきた。

 自然、言葉使いも刺々しくなってしまうけれど、仕方のないことだろう。

「……それで、何の用なんですか? 僕、これでも忙しいんですけれど?」

『ははは、どうやらかなり嫌われているようだね』

「あたり前でしょう。あんなことをしたあなたを僕は好きになれません。それに、僕にはやらなくてはならないことがたくさんあるんですけれど?」

『嘘はだめだなぁ嘘は。どうせ自宅でゴロゴロしていたんだろう?』

「ちっ……第一、何で僕の連絡先を知っているんですか!」

『私のような凄腕ハッカーともなれば、君の個人情報を探ることくらい朝飯前さ』

「絶対に訴えてやる!」

『それは困るなぁ。同僚や社長に迷惑をかけてしまう』

 神楽坂さんはおどけたようにけらけらと声を上げて笑っていた。

 どうやら本気で言っていた訳ではないらしい。そこがまたイラッとするところだけれど。

「何のアピールですか? 用がないならもう……」

『冗談だよ。飯田君から聞いていたに決まってるじゃないか』

「そんな冗談は冗談と言いませんよ。……つか飯田の奴何喋ってんだ」

 個人情報を他人に容易く教えるなんて。

 しかも、よりにもよってこんな人に……!

『まーそんなことよりだ。本題はここからだよ』

「そんなことって……」

 そう簡単に流していい問題でもなかったような気がするのだけれど。

 ま、これ以上の問題に対してこの人と話すことはないもないか。

『君のことを社長に報告したら、すっごく怒られたんだ』

「へー……そうなんですか」

『興味なしだね。でもまぁそうなんだよ。こっちは依頼を完了させただけだというのに、何とも酷い話だ』

「……で?」

『ああ、それでその後のアフターケアをしなさいって言われてね。こうして連絡を取っている訳なんだ』

「アフターケア……ですか?」

『そうなんだよ。ところで今日は暇かい?』

「え……いやさっきも言いましたけれど、忙しい……」

『どうせ暇だろう? 失恋のショックから部屋に閉じ籠もってごろごろしているだけだろう?』

「うぐっ……」

『図星だね』

 神楽坂さんの愉快そうな声が癇に障る。

 眉間に皺を寄せ、今だに無意味とわかっている抵抗を続けようと口を開きかける。

 けれど、神楽坂さんに先を越されてしまった。

『それじゃ、今からそっちへ行くよ』

「は? それってうちに来るってことですか?」

『その通り』

「その通りじゃないですよ、来ないで下さい!」

『じゃーまた後で』

「他人の話を聞けぇぇぇ!」

 僕の叫び声は、空しくも家中に轟いた。

 

 

                二

 

 

 そして約一時間後。

「やあ少年」

「……本当に来たんですか」

 僕んちの玄関先で、僕は神楽坂さんと向かい合っていた。

 神楽坂さんの微妙な表情を見る限り、よほど僕は嫌な顔をしていたのだろう。

 彼は眉を寄せ、困ったような笑みを浮かべる。

「きちんとアポは取っただろう?」

「あんなのでアポを取ったことにはなりませんよ。僕の意見なんて聞いてないじゃないですかほとんど強盗まがいの行動ですよ?」

「ははは、耳に痛いね。しかし私も君に断られたのでは減給されかねないからね。多少の強引は大目に見てくれるとうれしいな」

「無理に決まってるでしょ、そんなの。……とはいえ、来てしまったものは仕方ありません」

「だろう? それじゃあ早速だけれど、行こうか」

「行くってどこへ?」

「んー……でもその格好じゃあ見栄えが悪いなぁ」

「あの……少しは僕の質問に答えてもらってもいいですか?」

「もっとこう、パリッとした清潔感のある服装だとありがたいんだけれど。着替えて来てくれるかい?」

「だから僕の話を……」

「いいからいいから。さぁ早く」

「……はぁ。わかりましたよ」

 僕は玄関先に神楽坂さんを残し、回れ右をして自分の部屋へと戻った。

 これ以上の反論は体力の無駄と判断してのことだ。

 けれど、一体どんな服装をしたらいいんだろう? 神楽坂さんはどこへ行くとも、何をしに行くとも教えてくれなかった。

 そしておよそ十分後。まぁいいだろうと思える程度の服装は完成した。

 神楽坂さんは僕の装いを見て、ぴくっと眉を揺らした。

 それがまた、僕の苛立ちを誘う。

「……それで? そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか? 一体どこへ行こうとしているのか」

「ははは、社長からの命令で君にアフターケアを施すと言ったよね?」

「……言いましたね」

 そのアフターケアというのがいまいちよくわからないのだけれど。

 何かとてつもなく嫌な予感がする。もしこの人について行ったなら、僕にとってよくないことが起きる。そんな予感だ。

「大体何なんですか、そのアフターケアって?」

「君は元恋人の不貞行為によって彼女と別れることになっただろう?」

「ぐっ……ええ」

 そのことに関して、この神楽坂さんや飯田に恨みを抱くのは筋が違う。それは、ここ数日何度となく結論してきたことのはずだった。

 しかし、再びこうして面と向かって言われると、非常に腹立たしい。

 一体、誰のせいでこうなったんだと罵倒を浴びせてやりたくなる。

 僕はその押し寄せる憤怒を後方へ逸らすように、神楽坂さに問いを投げかけた。

「しかしあれ、どうやって撮ったんですか? それにどうして一介の高校生の依頼なんて受けようと思ったんですか? もっと他に割のいい仕事なんていくらでもあったでしょう? というかあれ、本当に彼女だったんですか?」

「いやいや、そう一辺に訊かれても答えられないよ。それに、その全てが君の知りたいことだとは到底思えなんだけれど?」

 見透かされているようだ。

 神楽坂さんのその、全てを見通しているとでも言いたそうな顔は酷く僕の琴線に触れてくる。

 彼の喉元に手をやり、思いっ切り絞め殺してやりたくなる。

 僕はその殺意に似た感情を抑え込もうと、ぎゅっと拳を握り締めた。

「……気にしないで下さい」

 問い確認するまでもなく、あの写真に写っていたのが彼女であることくらい他でもない僕ならわかる。

 全く、我ながらなんて無駄な質問をしたものだ。

 神楽坂さんは僕の心中を察したようにふっと口の端をつり上げると、ポンポンと僕の肩に手を置いてきた。

「ま、あまり気を落とさないことだね」

「……それで、僕をどこへ連れて行こうというんです?」

「ふむ、ではいい時間だ。そろそろ行くとしよう」

 神楽坂さんは腕時計に視線を落とすと、一人何かに納得したように頷いた。

 僕はと言えば、今だに彼の意図が読めずに困惑したままだった。

 一体、この人は何を始めようとしているのだろう?

 

 

                三 

 

 

 神楽坂さんと僕が足を止めたのは、僕の家から数十メートル離れた場所にある大通りだった。

 大きなビルや様々な商店が立ち並び、とまではいかないが、そこそこの人の流れがある。そのせいか、喧騒に包まれたその場所では、僕と神楽坂さんは場違いなのではと思えてくる。

 特に神楽坂さんが。

「……それで、これからどうするんですか?」

「そんなの決まっているだろう? ナンパだよナンパ」

「は……?」

 澄まし顔でそう言う彼の言葉の意味がわからず、僕は思わず首を傾げてしまった。

「ん? 知らないかい? 見ず知らずのまったくの、縁もゆかりもないそれこそ君の人生においてこれっぽっちも関わりのない赤の他人に声をかけ、仲よくなることだよ?」

「いや、それはわかります。……つーか余計な言葉が山盛りでしたね、今の」

「社長からさー、おまえが二人を引き離した悪魔なんだから、今度は出会いのキューピットとなって君に女の子を見繕ってあげなさいって言われてさー」

「見繕うって……最低ですね。その社長」

「まぁ、そんな訳で今日はこの雑沓の中で君の好みの美少女をナンパしようっていうことな訳さ。私って優しいだろう?」

「あーはい。……あなたがどんな人間かよくわかりました」

「はっはっはー、もっと褒めてくれてもいいんだよ?」

 全然全くこれっぽっちも褒めたつもりなんてないのだが、神楽坂さんはなぜか照れたように頭の後ろに手をやっている。

 何で照れてるんだろう、この人?

 僕は神楽坂さんを訝りつつ、通りを見回す。

 別に神楽坂さんの言う通りにする訳ではないのだが、せっかくなのでいい感じの子がいないかざっと見ておくことにしたのだ。

 こうしてパッと見ただけで何人か、僕の好みの人はいる。けれど、どう声をかけていいものかわからない。何せナンパなんて始めての試みだ。成功する確率は限りなくゼロに近いだろう。

 なんて、僕が一人うーんと唸っていると、ポンポンと神楽坂さんが僕の肩を叩く。

「ねぇねぇ 僕としてはあの子なんて君にぴったりだと思うんだけれど?」

「あそこの金髪で派手な化粧の人ですか? 僕、ああいう人苦手なんですけど」

「ふーん……じゃああの子なんてどうだい? 髪色も派手じゃないし、大人しくていい子そうだと思うんだけれど?」

「やー、どうですかねぇ……僕はちょっと」

 んー、まぁそう簡単に新しい出会いがある何て思ってなかったけれど。

 んだ、けれど……、

「あの人……」

「ん? あのカフェでコーヒーを飲んでいる子かい?」

「そうです、そうそう」

 黒髪のセミロング。全体的にシックな感じだが、どこか落ち着いた雰囲気も併せ持つ女性だ。

 現在、一人でコーヒーを片手に読書中のようで、手元には文庫本が握られている。

 ああいう大人しめで清楚な雰囲気の人は嫌いじゃない。いやむしろ大好きだ。

「よし、声をかけてみよう」

「いやいやいや! 無理に決まってるじゃないですか!」

「無理ってことはないさ。私がとっておきのナンパテクニックを教えてあげよう」

「ナンパテク……?」

 神楽坂さんは片目を瞑り、ウインクするとスッと彼女の方を指差した。

「例えば彼女が今読んでいる本。あれ、何かわかるかい?」

「いえ、この位置からではわからないですけど……」

「じゃあもうちょっと近づいてみよう」

 神楽坂さんは彼女に気づかれないよう、サササーッと移動した。

 無論、周りを行く通行人からはだいぶ奇異の視線を向けられていたが、僕は努めて気にしないようにした。つーか一々気にしていたら精神力が持たない。

 幸いというか、彼らは日本人固有スキル『スルーする』を発動中のため、僕達に声をかけてくる人は一人もいなかったのがせめてもの救いだ。

 警察を呼ばれる前に、とっとと退散した方がいいかもしれないなぁ。

 そんな僕の心配を知ってか知らずか、神楽坂さんは再度、彼女の手元にある本を指し示した。

「ここまで来ればタイトルが読めるね」

「ええと、何々……『巨大なパンダの横暴』? あれって確か……」

「そうだね。あれは確か、この間映画化までされた人気小説だ」

 確か映画になったのは半年以上も前のはずだ。それをこの間と言ってしまうあたり、この人もかなり時間にルーズそうな人だ。

 内容は……人間の科学実験の被験体とされた一頭のパンダが、その実験の影響で巨大化し、更に人間に勝るとも劣らない知能を有し、自らを科学実験の道具とした人間に復讐すると言う話だったはずだ。……おそらく。

「僕も映画は見ました。……前の彼女と一緒に」

「おや、そうなのかい? なら願ったりだ」

「どういうことです?」

「共通の話題を持っているというのは強みだよ」

 そう言った神楽坂さんは、いくつかのナンパテクニックを教えてくれたのだった。

 まず、話しかける際に相手に質問をする。とはいえ、これは必ずはいかいいえで応えられるものではくてはならない。思考を必要とする質問は避け、なるべくなら「はい」を引き出す質問がベストだろう。

 つまり今、この場において言うのであれば、『巨大なパンダの横暴』に触れるのが定石だと神楽坂さんは言う。

「ほら、今言った通りにしてごらん。必ず上手く行くよ」

「ちょ、神楽坂さん!」

 僕は神楽坂さんに背中を押され、半ば強制的に彼女の前に躍り出る。

 僕が眼前に立つと、彼女は顔を上げて驚いたように目を見開いた。

「……あの、何か?」

「あっとぉ……えーと……」

 どう返事をしたらいいのか全くわからない。それ故に、不明瞭な言葉以前の雑音しか出てこない。

 もしも今の僕を傍から見れたなら、きっと僕自身、途轍もなく不審者に思えただろう。

 変に緊張しているのか、がくがくと足が震える。

神楽坂さんのいる方を振り返ると、早く何か言えとジェスチャーで示してくる。

くそ、何なんだあの人は!

僕は生唾を飲み込み、ようやく意を決した。

「それって『巨大なパンダの横暴』ですよね? 映画化もされた」

「え、ええ……そうですけれど……それが何か?」

「実は僕、その映画を見たことがありまして」

「はぁ……」

「でも中々一緒に語れる友達がいなくて。その作品を知ってる人に会えてとても嬉しいです」

「そ、そうなんですか……」

 彼女は困ったように眉を寄せて、視線を泳がせている。

 おそらく、どうやって僕をあしらったものかと思案しているのだろう。

「で、出来ればお話しませんか? その作品について」

「……それは……構いませんが」

「本当ですか!」

 とりあえずは第一関門クリアだ。

 そのことが嬉しくて、僕はつい声を張り上げてしまっていた。

 それがいけなかったのだろう。彼女は更に表情を曇らせると、値踏みするような視線で僕を見詰めている。

 ああ、これはいけない。早く軌道修正しなくては。

「えっと、ここ、いいですか?」

「……どうぞ」

 彼女の許可を取りつけて、正面に腰かける。

 これからどうしよう……? 嫌な汗が止まらないよ!

「じ、じゃあまずは自己紹介をしましょう。僕の名前は…………」

 僕の名前を彼女に教える。

 彼女は今だ僕を警戒している様子だったが、ともかく自分も名乗らなくてはと思ったのだろう。不承不承といった様子で、名字のみ教えてくれた。

「私は須能といいます」

「す、須能さん……ですか。いい名前ですね」

「ありがとうございます。それで、一体何からお話しましょう?」

「そ、そうですね……」

 ああもう、頭がこんがらがりそうだ。

 僕は右往左往目線を動かして、必死に話題を考える。

 が、状況が状況なだけに、気の利いたことなんて言えそうにない。

 チラリと神楽坂さんのいるあたりに視線を送る。

 すると、物陰に潜んでいた神楽坂さんははぁと溜息を吐いた。

 きっと、僕の不甲斐なさにがっかりしたのだろう。

 仕方がないじゃないですか! 僕、ナンパなんてしたことないんですから!

 そう視線に込めて、神楽坂さんを睨みつける。

 と、彼は再び大きな溜息を吐くと、物陰から姿を現した。

「いやー、突然の無礼の数々、お許し下さい」

「……誰です、あなた?」

 また一人、見知らぬ人物が現れて警戒の色を濃くする須能さん。

 ……ま、しょうがないことだけれど。それにしても何でこう、他人を外敵みたいに見れるのだろう、この人は。

 須能さんの遠慮のない嫌悪感丸出しの視線を受けて、しかし神楽坂さんは一見して気分を害した風もなく続ける。

「この子がどうしてもあなたとお話してみたいと言うもので。あ、私はこういうものです」

 神楽坂さんが懐から名刺入れを取り出し、その中から一枚を須能さんに渡した。

 彼女は訝りながらも名刺を受け取り、そこに書かれていることを読み上げる。

「……加苅探偵社? 探索担当、神楽坂……」

「はい、私は探偵の神楽坂と申します」

「探偵って……テレビとかでよく見るあの?」

「厳密に言うとそれらとは一線を画すのですけれど、この際どうでもいいです」

「ふーん……それで、この探索担当って?」

「ああ、それは人探しとかペット探しとか落とし物探しとかです。他にも一風変わった探し物とかあるんですけれど、今は置いておきましょう」

「……あっそ」

 須能さんは名刺を机の上に置き、神楽坂さんへ敵意の籠った視線を向ける。

「それで? 探偵が私に何の用なんですか?」

「いえ、用というほどのことは。ただの営業活動ですよ。何かお困りの際は我が探偵社へ是非どうぞ」

 どうにも彼女の耳には、神楽坂さんのセールストークは虚と偽りに満ちた虚言に聞こえたらしい。むっと口元を歪ませ、不愉快そうに眉をぴくっと動かす

「……別に何にも困ったことなんてないですよ?」

「いえ、だからもし困ったことがあった時は、と言ったんですよ」

「………………」

 にこにこと終始笑顔を絶やさない神楽坂さんを、舐るように観察し続ける須能さん。

 彼女は手にしていた本を閉じ、目の前に置いた。

 それを見てか、神楽坂さんは口を開いた。

「さて、申し訳ありませんがその本、先日映画にもなりましたよね?」

「ええ、彼もそんなことを言っていました」

「おや? その口振りだとどうやら映画の方はご覧になったいらっしゃらない?」

「……これは友人に勧められて読んでいるだけなので」

「ほほう、ご友人に」

「それが何か?」

 須能さんは苛立たしげに、コツコツと本の装丁を指で叩いていた。

 うわぁ……完全に僕、蚊帳の外だよ。一体何をしに来たんだろう?

「ところでそのご友人、ご存命ですか?」

「あんた、いい加減にしろよ!」

 ガタッと須能さんが椅子から立ち上がる。その拍子に、背後に倒れた椅子が不快な音をが鳴り立てる。

 ……まぁ初対面でいきなりあんなことを言い出したなら、誰だってこういう反応になるだろう。というか今にも須能さんが神楽坂さんを殴り飛ばしてしまいそうだ。

「まぁまぁ、落ち着いて下さい」

「誰のせいだと思ってんだ?」

 須能さんの発した声からは、どこか悲しんでいるような嘆いているような、そんな印象を受ける。

 だからだろう。僕が余計なことをしようと思ってしまったのは。

「……あの」

「ああ?」

「うっ……失礼なことを訊きますけれど、その友人は今どこに?」

「ちっ……あんたまでそんなことを訊きたがるのか」

 彼女の瞳がぎらりと光る。よほど訊かれたくなかったことらしい。

 須能さんはテーブルの上へと視線を落とす。

「……そういえば、あんた探偵って言ってたよな? それも人探し専門の」

「えーと、そこまで特化してはいませんけれど。まぁ大体そんな感じです」

「なら、一つ頼みがあるんだが、いいか?」

「依頼……というのならお話をお伺いしましょう」

 神楽坂さんは近くにあったテーブルから勝手に椅子を引き寄せてくると、それに座った。

 須能さんも、倒した椅子を起こして再度腰かける。

 それから、深呼吸を一つして、ゆっくりと目を開いた。

「実は――あんた達に探してほしい人がいるんだ……!」

 それは紛れもない、探偵としての仕事の依頼だった。

 

 

               四

 

 

「すみません、わざわざ来て頂いて」

「ま、こっちはお願いする立場だ。多少は仕方がないさ」

 更に十分後。僕と神楽坂さんはナンパした女性と向かい合って座っていた。

 彼女の表情を見るに、彼女の抱えている問題はよほど切迫しているらしい。

「それで、何なんだここは?」

「ここは私どもの事務所ですね。正式な依頼というのですから、ここで話をするのが筋かと思いまして」

「ふーん……で、そこの小僧は何なんだ?」

「この子は私の助手ですよ」

「ちょっ……神楽坂さん!」

 待って何それ聞いてないんだけれど!

 驚愕の一言を口にされ、うろたえる僕。全く相手にされてなかったけれど。

 どうしたものだろう。ここは助手の振りをしていた方がいいのだろうか?

 僕は数瞬の逡巡の後、彼女に向かって頷いた。

「まぁ大体そんな感じですね」

「何かあんまりそう感じしないけれど……本当に助手なのか?」

「な、何言ってるんですかやだなー」

「……まぁいいや。それで、あたしの依頼だけれど」

 僕のことなんて露ほども興味がないらしい須能さんはさっさと本題に入りたい様子だった。

 僕としてはまだ反論したい気持ちがない訳じゃなかったけれど、とてもそんなことを口に出来る雰囲気じゃない。

 仕方なく大人しく、二人の会話に耳を傾けることにした。

「それでは、依頼の内容を確認しましょう」

 妙に改まった口調で、神楽坂さんが言う。

 須能さんは彼の言葉を受けて、一つ頷いた。

「……先日『巨大なパンダの横暴』についての話をしたよな?」

「ええ、映画化もされた人気作だったのですが、あなたはまだ観ていない。そうですね?」

「そうだ、私はまだ観てない。あれは私のものじゃないし、ああいう作品があると知ったのも最近だからな」

「あなたの物ではない。確かご友人に借りられたとか」

「そうだ……その時のあいつは、まるでこれから死ぬみてぇな言い方をしてた」

「死ぬ……? それは一体……?」

 僕の質問は、しかし神楽坂さんの次の言葉によって遮られた。

「ふむ……ちなみにその本を渡されたのはどれくらい前なのでしょう?」

「……三日前、だった」

「三日前……」

 彼女は悲しげに目を細めた。件の友人のことを思い出しているのだろう。少しだけもの憂げ

な、悲しそうな表情をしている。

「失礼ですが、その人は今どちらに?」

「……おそらくは、もうこの世にはいないだろう」

「えーと……それは」

 須能さんの口にしたその言葉を飲み込むのに、僕は普段以上に時間を必要とした。

 もうこの世にはいないだろう。確かに彼女はそう言った。そして、その言葉の意味するところは一つだ。一つ、なのに、僕にはどうしてもその事実を口にすることが憚られた。

 神楽坂さんも僕と同じ気持ちなのか、訝しげに眉を潜め、納得出来ないというようにムスッと唇をへの字にしていた。

「そのご友人はどこへ行く、などと言っていませんでしたか?

「……それも調査に必要なことなのか?」

「ええ、もちろん」

 間髪入れず、神楽坂さんは頷いた。

 調査とは何だろう? そう疑問に思いその意味するところを考えてしまう。

 だが、すぐにそのことに思い至り、僕はハッとした。

 その僕の様子があまりに場違いだったからだろう、神楽坂さんも須能さんも僕へと視線を寄越していた。

 僕は何だか恥かしくなって、肩を窄める。

「いえ、なんでもないです。気にしないでください」

「あっそ……それで、相談なんだが」

 彼女はそれまでの腕を組み、背中を反らせるという高圧的な態度を崩して、スッと居住いを正した。

「どうか、友人の行方を探してください」

「ふむ……しかしあなたのご友人はもしかすると既に亡くなられている可能性が高い」

「……その可能性が大きいと思う。でも、もしかしたら生きているかもしれない」

「それはあなたの願望、というだけではなさそうですね」

「……ああ、実は先日、こんな手紙が届いてな」

 須能さんは顔上げ、懐から一通の手紙を取り出した。

 それを神楽坂さんに渡し、神楽坂さんは真剣な眼差しでその手紙に見入っていた。

「手紙……ですか。しかしこれは本当にあなたのご友人のものなのですか?」

「間違いない。これは、悠里の字だ。筆跡鑑定も住んでいる」

「なるほど……死人に手紙は出せない。生存の確率は跳ね上がった訳ですね」

「その通りだ。だから、あんた達に依頼したい」

 あんた達って……ああ、僕も既に頭数に入れられてる訳ですね。

 僕は二人から顔を背けてふーっと息を吐いた。

 全く、何なんだろう、この人達は。

「それで、手紙にはなんて書いてあったんですか?」

「『今までありがとう』とか『探さないで下さい』とか。おおよそそんな感じのことだよ」

一週間前にはこの手紙は彼女の手もとにあったということになる。そして彼女は、友人が生きているのか死んでいるのか、ずっと悩んでいたことになるのだろう。

 そこへ何も知らず、無神経に声をかける二人の男……、

「あああああああああああああああああ!」

「え! 何々!」

 神楽坂さんと須能さんの二人からしてみれば、かなり唐突だっただろう。

 しかし、僕はこの時、二人の迷惑を考えることが出来なかった。

 気づいてしまったのだ。僕達の行いがどれほど無神経なものだったのかを。

 それを思うと、もう頭を抱えて蹲るしかなかった。

「おい、大丈夫か……?」

「……何でもないです。気にしないでください」

「そ、そうか……」

 ニッと笑顔を見せる僕。まあ本当に笑えていたかどうかはわからないけれど。

 そして、須能さんの引き気味の表情を見る限り、あまり上手くはいっていないようだ。

 しかし、なんてことをしてしまったんだ、僕は。あの時の僕をぶん殴ってやりたい。

 僕はごほんと咳払いをすると、神楽坂さんと須能さんに先へ進めるよう促した。

「……大まかな話の流れはわかりました。続けて下さい」

「ん……ああ」

 神妙な面持ちで頷く僕を横目に、須能さんは神楽坂さんへと視線を戻した。

「それで、その友人の身に何が起こったのか、少しでもわかりませんか?」

「……おそらくは……『生贄』だと思う」

「い、いけ……ずいぶんと古臭い用語が出てきましたね」

「私の友人はとある村の出身なんだ」

「とある村?」

「ああ……釜原村という、地図にも載ってないような村だ」

「へぇ……そんな村が実在すると?」

「……嘘だと思うのか?」

「いえ、まさか」

 ギロッと須能さんが神楽坂さんに眼光を飛ばす。神楽坂さんはおどけたように両手を上げて彼女の視線をいなした。

「それで? 続けて」

「……ふんっ! それで、その村は通称『鬼村』と呼ばれているらしいんだ」

「その村で、あなたのご友人は『生贄』に選ばれてしまった、と?」

「その通りだ」

「しかし、よくそのご友人はあなたにその話をしましたね? とてもじゃないが信じられるような話じゃないでしょう?」

「そうだ、私も最初は信じなかったさ。性質の悪い作り話だって一蹴した。それが……」

 何かに耐えるように、須能さんは固く拳を握る。

 眉根を寄せ、歪んだその顔には強い後悔と失意が窺えた。

「私は、馬鹿だったんだ……あの子の話を信じてやれなかった……」

「ふむ……そのご友人は『生贄』となることを受け入れている様子でしたか?」

「ああ、そんな感じだった。たぶん、子供の頃からそういうふうに教育されて育ったんだろう」

「そうですか。失礼ですが、そこまで知っているのならその『鬼村』とやらに乗り込もうと考えたのでは?」

「あたり前だ。……実際にその村があると思われる場所まで足を運んださ。けれど、とうとう見つけられなかったんだ、私には」

「なるほど。それは致し方ありませんね。それで私達に依頼を?」

「もうどうしようもないと思っていたところに、あんた達が現れた。なら、もう私に出来るのはあんた達に縋ることだけだ……!」

 須能さんは椅子から立ち上がり、床に両膝を突いた。

「どれほど金がかかってもいい! どんな手段を使ってでも必ず払う!」

 額を擦りつける勢いで、頭を下げる。

「あの子を――救ってくれ!」

 これほどまでに追い詰められた人間の姿というものを、生まれて初めて、僕は目にしている。

 ぎゅっと、心臓が握り潰されるかのような錯覚に囚われる。

「か、神楽坂さん……?」

 僕は神楽坂さんを振り返った。

 彼は至極真剣な眼差しで、須能さんの土下座姿を見つめている。

「……確か、あなたはその村の近くまでは行ったと言いましたよね?」

「え? ……ああ、確かに」

 須能さんは顔を上げ、神楽坂さんの言葉に頷いた。

「つまり、村の場所をおおよそ把握していた、と?」

「…………」

 彼女は鞄から一枚の紙片を取り出すと、それを僕へと差し出してきた。

「以前に友人からそれとなく聞き出しておいたんだ。その時は、あの子の悪ふざけにつきあってやろうとしか考えてなかったけれど」

「では、お借りします」

 神楽坂さんが須能さんから、そのメモ用紙を受け取る。

 僕は除き込むようにして、神楽坂さんの持つ簡略した地図に目を落とした。

 それは、非常に簡素な、地図と称していいのかすら怪しい代物だった。

 しかし、今はこれ以外に頼りになるものなんてない。

「……助けて、下さい」

「最善を尽くします」

 震える声で、そう願う須能さん。対し、神楽坂さんの返事は非常に味気ないものだった。

 それもそうだろう。今までどんな依頼を受けてきたのかはわからないけれど。

 今回のそれは、どうあっても確約など出来るものではないのだから。

 

 

               五

 

 

 それから約一週間後。

 僕と神楽坂さんは、探偵社の一環ロビーで待ち合わせをしていた。

 んだけれど、僕は腕時計で時刻を確認して、はぁと溜息を吐いた。

「……全く、遅いなぁ」

 待ち合わせの時間から、かれこれ十五分は経過している。

 仮にも社会人なのだから、その辺しっかりしておいてほしいものだ。

 と、一人苛立っていると、探偵社の階段を降りて、見覚えのある人物が姿を現す。

「いやー、ごめんねぇ」

「謝るくらいなら最初から遅刻なんてしないで下さい。……ってどうしたんですか、それ?」

「ん? どれだい?」

 惚けたように、神楽坂さんが自分の全身を見下している。

 今、何か黒光りするものが見えたんだけれど。

「何を用意したんですか?」

「んー? それは必要な時にになってからのお楽しみだよ。……本当は使わない方がいいのだけれど」

「何か言いました?」

「んーん、何も」

 最後の方、神楽坂さんが何か言っていたらしいが上手く聞き取れなった。ので聞き返してみたのだが、教えてもらうことは出来なかった。

 それから、二枚の紙片を取り出し、一枚を僕へと差し出してくる。

 僕はそれを受け取りつつ、首を傾げた。

「……何ですか?」

「君の分のチケットだよ。必要だろうと思って」

「何故僕にこれが必要なんです? 三日後に依頼の調査を始めるとしても、必要なのは神楽坂さんの分だけのはずですけれど?」

「何を言っているんだい、君は? 君も同行するに決まっているだろう?」

「えーと……是非? 僕は探偵社の人間でもなければ、あなたの助手とやらになった覚えもない。ただの一般的な高校生なのですけれど……」

 僕は視線に非難の色を乗せて、神楽坂さんを睨みつける。

 しかし、彼には一向に堪えた様子はなく、むしろ余裕そうな態度でフッと口の端を釣り上げた。……何かえらく不愉快な顔だった。

「僕は君に新しい女性を紹介しなくてはならない。社長からもそう言われ、そして君にも約束してしまっただろう?」

「だから? それがこのチケットと何の関係があるんですか?」

「つまりだ、今回の依頼を君が解決したならどうかと思ってね」

「……何を言っているんですか、あなたは?」

 ただの一介の学生である僕が他人の事情に首を突っ込んで、あまつさえ解説せしめるなど出来る訳がない。

 僕はチケットを神楽坂さんに押し返す。

「何のために呼ばれたのかと思えば……絶対にお断りします!」

「いいんだね? ここで尻尾を巻いて逃げてしまっても」

「? ……それはどういう……?」

 勿体ぶっているのか、神楽坂さんの言い方は妙に不明瞭だ。

 そのことに、僕は首を傾げてしまう。

 と、僕の反応が予想通りだったのだろう、神楽坂さんは嬉しそうに顔を綻ばせた。

「君はどうして自分が恋人に振られたのだと思う?」

「うぐっ……! 今更それを蒸し返しますか……」

「まぁね。大切なことだから仕方がないよ」

「……僕が、もっと彼女を大切にしていたら……」

「それは違う、大間違いだよ!」

 バッと神楽坂さんがコートの裾をはためかせて両手を大きく広げ、僕の返答を全力で否定した。僕は訳がわからず、眉を寄せること以外のことが出来なかった。

「君は君の元恋人に対して、男らしい部分というのを見せたことがなかったんじゃないかい?」

「ど、どういう意味ですか……?」

「確かに君は元恋人を大切にしていたのだろう。割物を扱うかのごとく、優しく丁寧に!」

「あ、あたり前じゃないですか! 誰だって自分の彼女を大切に扱いたいと思うはずです!」

「そう、それは至極一般的であたり前で当然でしかし同時にされる側にとって不協和音を引き起こす!」

「え……?」

「人間はね、ただ優しくされるだけじゃ飽きてしまうんだよ。与えてもらってばかりでは引け目を感じてしまう。だからこそ、君の元恋人は思ってしまったのだろう」

「元元元元うるさいですよ!」

 いい加減に我慢の限界だ! そんな話をいつまでもほじくり返さなくてもいいだろうに!

「それで、結局あなたは何が言いたいんですか!」

「つまりだ、君は男らしさというものをまるっきり見せてはいないだろう?」

「え、えーと……」

 思い返してみれば、確かにそうだ。

 僕は彼女を大切にしようと、嫌われないようにしようと、そんなことばかりを考えていた。

 それが、よくなかったということだろうか……?

「女性は、ただ優しくしてくれるだけの男をいつまでも好いていてくれはしないよ? だから、今回の事件を君が解決して、少しは男らしさというものを磨いた方がいいのではと思ってね」

「……な、なるほど、一理ありますね」

 男らしさを磨き、その上で女性と接する。

 そうすることで、その一時だけではない長く続く関係に繋がると、そういうことか。

 目から鱗が落ちる思いだった。

「しかし、あの人の話を聞く限りでは、かなり難しい依頼のようですよ? 全くの部外者であり素人の僕が出しゃばったところで解決できるとは到底思えないんですけれど?」

「大丈夫、心配しなくてもいいよ。そこは私がきちっとサポートするからね」

「……いくら神楽坂さんでも、今回の依頼を解決できる保証はないんじゃないですか?」

 僕がそう言うと、ちっちっちー、と神楽坂さんが顔の前で指を振る。

「君ぃ……私のことを馬鹿にしているだろう?」

 神楽坂さんは目を細め、まるで子供のような悪戯っぽい笑顔を見せた。

「ところで君、三日後はちゃんと汚れてもいい恰好で来るんだよ? それから二、三日は泊まり込みになると思うから、着替えも持って来ておいた方がいいだろう。学校にも連絡しておくんだよ? 後は……」

「あーもう、わかりました! 僕はもう帰ります」

 僕は神楽坂さんに背を向け、建物の外へと向かう。

 ドアノブに手をかけ、勢いよく開く。

 そうして出ようとしたまさにその時、神楽坂さんから最後の指示が飛んでくる。

「それから、一応念の為に死ぬ覚悟はして来た方がいいよ」

「……え?」

 ピタッと体の動きが止まる。

 おそるおそる振り返り、神楽坂さんの方へと視線を向ける。

「死ぬ覚悟はしておいた方がいいと言ったんだ」

 ドアノブから手が離れる。

 神楽坂さんの口調はどこまでも冗談めいていて、ある種本気を感じてしまうようなことはなかった。

 けれど、それが僕には尚更、恐怖を与えてくる。

「ど、どうしてそんなことを?」

「現代日本において、今だ人身御供なんて古臭い制度を採用している連中だからね。正気の沙汰とは到底思えない。それだけ、秘匿しておきたい何かがそこにはある。そして、私達が野郎としていることはその秘匿部分を暴こうということだ。小説や映画でもよくあることだろう?」

 至極簡単に、何てことないように言ってのける神楽坂さん。

 きっと彼は、僕が想像出来ないような多くの死線くぐり抜けてきたのだろう。

 けれど、僕は違う。つい先日までただの高校生だった僕に死を覚悟しろ、なんて言われてもとてもじゃないがピンとくる話じゃない。

 僕はもう一度神楽坂さんは振り返る。

「そ、そんな……そんな依頼、僕は参加しませんよ!」

「まさか君、今更そんなことを言うのかい?」

 神楽坂さんは肩を竦め、やれやれといった様子で首を振る。

「今更って、別に問題ないでしょう! 僕は探偵社の一員じゃないんだから!」

「ま、そうだね。何も問題はない。けれどいいのかい?」

「な、何がですか……?」

 彼の言い方は、確信に満ちていた。

 まるで、僕が今回の依頼に動向することが揺らぐことのない決定事項のように。

「今この依頼を降りたなら、君はあの女性とお近づきになれる機会は二度と巡ってこないだろう。それでもいいのかい?」

「命の危険が伴うよりはいいと思います」

「……本当に?」

「何が言いたいんです?」

 すっかり頭に血が昇っている。

 そう理解しているのに、クールダウンすることが出来ない。

 僕は開きかけた口を閉じて、数回深呼吸を繰り返す。

「はっきりと言おう。こんなに面白そうな事件、関わらないのは損だと思わないかい?」

「な、何でそんなことを言うんです……?」

 ニッと口の端をつり上げ、神楽坂さんは腕を大きく開いた。

 面白そうな事件? 関わらなければ損? 何を言っているんだ、この人は。

 僕は彼の言う言葉の意味を図りかねて、思わず眉を寄せる。

 だが、浮かんで来たのはそんな訳がないという単語だけ。

 神楽坂さんに言い分に対する疑問でも、反論でもなくて。

 もしかすると、その単語で埋め尽くしてしまいたかったのかもしれない。堰き止めてしまいたかったのかもしれない。覆い隠してしまいたかったのかもしれない。

 自分の、本当の心を……。

 今だに事務所から爪先すら出せていないのが、その証拠だろう。

「……この依頼に参加して、僕にどれほどのメリットがあるんですか?」

「あの女性とお知り合いになれる。そして――この世のものとは思えないほど面白い体験ができる。それだけは保証しよう」

「……どうして」

 あなたがそんなことを言えるんですか?

 そう訊ねようと思った。けれど、喉もとまでせり上がってきた言葉が声となり、空気を震わせることはなかった。

 この時点で、僕は元カノのことなんてすっかり忘れていた。

 現在の僕にあるのは、新しい出会いと未知体験への期待と高揚だった。

 既に僕の心は決まっていたのかもしれない。

 だからこそ、僕は神楽坂さんのすぐ目の前まで近づいた。

 ふーっと、大きく息を吐く。

「……わかりました、やります」

「ふむ……頼もしい限りだ」

 神楽坂さんは僕を歓迎するように両手を広げ、にっこりと微笑んだ。

 

 

              六

 

 

 三日後。僕は事務所前で神楽坂さんを待っていた。

「ああもう、遅いなぁ」

 時刻は十二時。約束の時間から三時間が経過していた。

 僕は携帯を開き、神楽坂さんに連絡を入れようかと迷った。

「おーい」

「あ、遅いですよ、神楽坂さん」

 事務所から神楽坂さんが出て来た。んだけれど……あれ?

「どうしたんですか、その格好?」

「いやー、色々と必要な物を掻き集めてたら遅くなっちゃったよ」

 神楽坂さんが照れたように頭を掻く。が、その動作は彼の頭に乗せられている麦藁帽によって遮られていた。

 その他にも白い無地のタンクトップ。黒い短パン。更には虫取り網装備というおよそこれから仕事をしに行く社会人とは思えない出で立ちで登場してくれちゃっていた。

「いやいや、どこ行く気ですか!」

「どこって地図にも載ってないような小さな村だろう? きっと新種の昆虫とかいるんだろうなぁ。私、昆虫の標本集めるのが趣味なのだよ」

「そんなことはどうだっていいです、それより着替えてきてください。遊びに行くんじゃないんですよ」

「そんな固いこと言わないで。人生には遊びも必要だよ?」

「いいから着替えてきて下さい」

「わかったよー、ちぇー」

 神楽坂さんは不満そうに唇を尖らせながら、建物の中へと踵を返す。

  そしてい数分後、先ほどよりはまともな格好に着替えて戻って来た神楽坂さんとともに、あの女性との待ち合わせ場所へと向かう。

「彼女の友人の故郷の村だけどね。私なり調べてみたが、大したことはわからなかったよ」

「地図にも載ってないくらいですからね」

「何でも三百年以上の歴史を持つ村だそうだ。更には過去に『視子』と呼ばれる人達が存在していたらしいよ。……その程度かな」

「……『視子』、ですか」

「ああ、どういう存在かはよくわからないけれど」

「たぶん、未来を視るとか、そんなところだと思いますよ」

「だろうねぇ」

 神楽坂さんはさして興味もなさそうに呟いた。

「しかし、どうして人身御供……生贄なんて必要なんでしょう?」

「さぁねぇ。そこは私にもわからないよ。ただ、ろくな村じゃないんだろうなということは何となくわかる」

「ええ、僕もです」

「さて、そろそろ待ち合わせ場所に到着するね」

 僕と神楽坂さんは例の喫茶店の前に辿り着いた。

 きょろきょろと周囲を見回すと、見覚えのある人影が視界に入ってくる。

「おう、神楽坂さんと助手の人。こっちだ」

「どうも。五日ぶりですね」

 神楽坂さんは須能さんの座っている席まで行き、挨拶する。

 僕も神楽坂さんに続いて会釈した。

「早速なんだが、これが私の友人の村までの地図だ」

「ほう……中々丁寧に書かれていますね」

「まぁな。調べるのに凄く苦労したからな」

「それほどまで想われているとは、その御友人は幸せものですね」

「……ああ、とても大切な友人なんだ」

 そう言う須能さんの表情は、怒りとも悲しみともつかない、複雑な感情を孕んでいた。

 僕はそのことには言及せず、神楽坂さんが彼女から地図を受け取る様子を眺めていた。

 神楽坂さんはその地図に一度目を落とすと、それを懐に仕舞い、立ち上がった。

「それでは、私達はこの村へ向かいます」

「……お願いします」

 彼女は深々と頭を下げた。

 そうして僕達は、その依頼を正式に受諾したのだった。

 

 

               七

 

 

 電車を乗り継ぐこと四時間。日に二本しかないバスに揺られること二時間。タクシーの社葬から景色を眺めること一時間。

 計七時間をかけて、僕達はとある深い荒れた森の前にいた。

 タクシーの運転手さん曰く、この森には亡者が出るらしい。夜な夜な人間の声ともつかない叫び声を上げて、森にいる人や動物を喰らっているという話だ。

「……本当にここが?」

「そのようだよ。彼女の地図によればね」

 神楽坂さんは手元の地図に目を落としながら、頷いた。

「それにしたって、人の気配が全くと言っていいほどありませんよ?」

「さっきの運転手の話じゃないけれど、この様子じゃあ幽霊の一体や二体出てもおかしくはなさそうだなぁ」

「や、止めて下さいよ、そう言うこというの」

「はは、ごめんごめん」

 けれど、確かにそうだ。

 僕達の目の前にある森は鬱蒼としていて、おそらくはああいう噂のせいだろう。人の手の入っている気配が微塵もない。加えて僕達の立っている道路は長い間補修されていないようで、僕達はどうにか歩けている状態だった。

 ……ここは自殺の名所なんだ。そう言われたなら、納得してしまいそうな禍々しい雰囲気を放っている。

「……ぼ、僕達、須能さんに騙されたんじゃないですか?」

「彼女が私達を騙す道理はないよ。それに、この程度は予想の範ちゅうだ」

「そんな馬鹿な……」

 いやいやいや、いくら何でもこれはないだろう。およそ人間が住めるような環境にはとても見えない。こんな森の奥に人が住んでいるなんて想像することすら不可能だ。

 僕は帰ろうと神楽坂さんに提案した。けれど、神楽坂さんは僕の提案に耳を貸すことなく、ずんずんと森の中へと踏み入って行ってしまった。

「ちょっと、神楽坂さん……!」

 僕も神楽坂さんに続いて、おっかなびっくり森の中へと分け入ってしまったのだった。

 倒れ込んでいる古木を退かそうと触れて、ヌチョッとした感覚に思わず声を上げそうになってしまった。

 どうすることも出来ず、僕はそのまま手を服で拭う。

「こんなところに本当に村なんてあるんですか?」

「私は知らないよ。地図に従ってるだけなのだから」

 そんな会話を交わしつつ、しばらくがさがさと草木を掻き分けて進んで行く。

 と、唐突に開けた場所に出た。

「こ、これは……!」

「ほぉぉ! 素晴らしい!」

 両腕を広げ、感嘆の声を上げる神楽坂さん。

 対して僕は、目の前の現実を受け入れることができなかった。

 何故なら、僕達の目の前には、およそ現代社会には似つかわしくない光景が広がっていたからだ。

 おそらくは家屋、なのだろう。江戸時代より以前を思わせる建築様式の家々。扉や窓らしきものはなく、歴史に取り残された廃村とでも言われた方がまだいくらか納得出来た。

 本当に、こんなところに?

「……一体、どんな人達が?」

「まぁそのあたりは実際に行ってみたらわかるよ」

 僕が立ち尽くしていると、神楽坂さんは臆した様子もなくどんどんと村の奥へと踏み入って行く。僕は慌てて神楽坂さんの後を追いかけた。

 全体的に人気がなく、得体の知れない薄気味の悪さが充満している。

 建物の多くが廃屋と見間違うほどぼろぼろで、本当に人が住んでいるのかさえ怪しく思えてきた。

「さて、着いたよ」

「えっと……ここは?」

 とある一件の建物の前で、神楽坂さんは立ち止まった。

 僕も神楽坂さんに習って、足を止める。

「何って村長家だよ。見てわからないかい?」

「わかりませんよ、そんなの!」

 確かに言われてみれば他の民家と違い、村長宅とされるこの建物は一回り大きいようだ。

 それに玄関先の装飾も他と比べれば、多少は華美に見えるだろうか。

 しかし、いくら他との相違点を見つけたところで、廃屋なのに変わりはなかった。

「おーい、誰かいかいかーい?」

「ちょ、神楽坂さん……!」

 神楽坂さんはだんだんと扉を叩き、家人を呼ぶ。

 が、家の中から反応はなく、僕達はしばし待ち惚けを喰らうことになった。

 そして数分後。いくら待ったところで家人が現れることはなかった。

 やはりこの家に、いやこの村に人が住んでいるはずもないのだろう。

「やっぱり誰もいませんよ。帰りましょう」

「まーまー、もうちょっと待ってみよう。他所者を歓迎しないのがこの手の村のお約束だからね」

「そんな約束知りませんよ! いいから帰りましょう」

「えー……でも依頼を完遂させないと報酬が貰えないんだけれど?」

「別の仕事で補いましょう。もっと安全そうな奴です」

「お金が……」

「お金より命の方が大事でしょう!」

「何を言っているんだい? お金の方が大事に決まっているだろう?」

「何なんですか、あんたは!」

 と言い合っていると、がちゃっと村長宅の扉が開いた。

「……何用ですかな?」

 そこにいたのは、小柄で真っ白な毛で顔中を覆われたおじいちゃんだった。

 ……イメージ通りだ。

「いやー、ちょっと道に迷いまして、一晩泊めていただけませんか?」

「……そこの道を真っ直ぐ行かれると舗装された通りに出ます。どうぞお戻り下さいませ」

「そうですよ、帰りましょう」

「間違えました。この村の秘密を暴きに来たのでした」

 あっけからんとした調子で神楽坂さんが飛んでもない爆弾発言を言い放った。

 村長はぴくっと眉を動かしたが、それ以上の反応はなく、平然と言ってのける。

「何のことでしょうな。私には全くわかりませんが」

「ははは、そんな下手な芝居をしなくてもいいですよ。さっさと吐いちゃって下さい。その方が早く終わりますから」

「そう言われましても。本当に何のことだかわからないのですよ」

「んー……では、あなた方が隠している、生贄を返して下さい」

「……ほっほっほ、面白いですなぁ、あなた方は」

「僕まで一緒にしないで下さい」

「しかし、本当に心当たりが御座いませんので」

 村長さんは本当に訳がわからないとでも言いたそうに頬を掻いた。

「ふーん……まぁいいでしょう。ところで今晩、というか二、三日止めて頂けないでしょうか?」

「それは構いませんが、一体どうされたのですか?」

「先ほど申し上げた通り、道に迷ってしまったのです」

「ふむ、ここまでの道乗りは入り組んでいますからな。深い森になっている。先ほどの発言はただの下らない戯言と聞き流しましょう」

「ありがとうございます!」

 村長さんは扉を開けたまま、僕達を家の中へと招き入れてくれた。

「どうぞ、汚いぼろ屋ですが」

 家の中は他の家よりはきちんとしているのだろう。

 だけれど、僕の住む築何十年のアパートの方がずっと綺麗に見えるくらい、家内は雑然としていた。

 まず床がない。それに加え、ところどころに焦げたような痕があり、おそらくは料理器具なのだろう。木製の手作り感溢れる食器等が並べられていた。

「申し訳ありませんが、部屋が一部屋しかないのでお二人でお使いになられて下さい」

「ええ、何も問題ありませんよ。ね?」

「僕も大丈夫ですけれど」

「どうしたんだい? 何か気になることでも?」

「……何でも、ないです」

 家内にどことなく違和感を感じていたのだけれど、僕はその違和感を言葉にすることができなかった。なんだか、凄くもやもやする。

「では早速お部屋へと案内します。お二人とも道に迷われたということで、大した荷物も持っていないのでしょう。夕食と着替えはこちらで用意いたします」

「ありがとうございます。助かります」

「いえいえ、困った時にはお互いさまですから。しかし、道案内をつけますので、明日にはお帰り願いますようお願いいたしますよ?」

「……ええ、招致いたしました」

 チラと横目で神楽坂さんの表情を窺う。

 あれは……確実に明日で帰るつもりのない顔だ。

 まぁ仕事で来ているのだから仕方がないけれど。 

 僕はこの薄気味悪い喋り方をする村長の近くにいるだけでもう帰りたいんだけれども。

「では、この部屋をお使い下さい」

 そう言って案内されたのは、電気どころか照明になるようなものすらない部屋だった。

「後ほど、灯りをお持ち致します」

「あ、あの……その前に一つ」

「はて、何でございましょう?」

「僕達は今夜、どうやって眠れったらいいんでしょうか?」

「どう言う意味でしょうかな?」

「可能なら布団とかあったら嬉しいなー……なんて」

「そうでしたな。お二人は村の外からお見えになった。灯りと一緒にその布団とやらも持って来させましょう」

「ありがとうございます」

「ただし、お二人にご満足頂けるかどうかはわかりませぬ。何せここは旅館やホテルではないのですから」

「承知しておりますとも。心遣い、感謝致します」

「では後ほど」

 村長が僕達のいる部屋から出て行く。

 扉はなく、そこから差し込む明かりが唯一、僕達を照らしていた。

「……あの、神楽坂さん……僕、あの人苦手なんですけれど」

「仕方がないね。ここは歴史に取り残された村だ。戦争の火炎から外れ、地図にすら載ることのない辺境の地。故にあの様に捻くれてしまってもしようがないというものだよ」

「あの人は僕達がこの村に来たことを怒っているようにも見えました」

「見えた、ではなく事実その通りだよ。だからこそ、あの老人一人で私達の対応をしているのだろう。……村の者に何かあってはいけないから」

「僕達がこの村の人達に危害を加えると?」

「どうだろう。ただ、彼らから見たなら私達は素性も得体も知れない未知であることは事実だからね。このような反応を取られても何ら不思議はないよ」

「そ、そうかもしれませんけれど」

 それでも僕は、どこか納得がいかなかった。

 僕が……僕と神楽坂さんがこの村に、まして村民を危険に晒すようなことをするはずがないのだから。

「さてと、村長氏が色々と準備してくれている間に私達は何をしようか?」

「仕事の依頼で来たんでしょう? だったら仕事しないと」

「……とはいえ、うろつくなと言われたからね。万が一調査しているところをみつかってしまたなら、何をされるかわからないよ?」

「ですね……神楽坂さんはともかく、僕はこんなところで殺される理由はないですから」

「私はともかくとはどういう意味だい?」

 神楽坂さんが責めるような眼差しで僕を見ていた。

「ふー……まぁいいよ。ところで君、あの老人のところへ行って来たまえ」

「なっ……どうして僕が」

「いいだろう? 厠でも貸してほしいとお願いするんだ。その瞬間に私は外へ出て、村の調査をするから」

「で、でも村長さんは布団とか、色々持って来るって……その時に誰かいなかったら怪しまれるんじゃ……」

「あー……そうだねぇ。だったらこうしよう。君が厠へと向かい、私はあの老人の気を引いておくからその間に厠から脱出、そして村の調査へと向かう」

「ま、待って下さい……僕、探偵業なんてしたことないですよ!」

「大丈夫だって。あ、くれぐれも村の人間には話を訊かないように。いいね?」

「や、だから僕はやるなんて一言も……」

「では行ってみようか」

 ドン、と神楽坂さんが僕の背中を押した。

 僕は部屋の外へと押し出され、ちょうど戻って来る途中の村長さんと鉢合わせになる。

「おお、いかがされましたかな?」

「あ、えっと……か、厠はどこでしょう?」

「それでしたら突き当たりを右へ曲ったと場所でございます」

「えーと、よく分からないんですけれど……案内してもらってもいいですか?」

「……致し方ありませんな。ではこれを置いてからでよろしいですかな?」

「あ、ありがとうございます!」

 村長さんは剥き出しの地面へ、薄い布の束を置いてから僕の許へと戻って来た。

「ではご案内しましょう。どうぞこちらです」

 村長さんは僕を連れだって、厠へと案内してくれた。

 先ほど村長さんが言っていたように、厠へはすぐに辿り着いた。

「どうぞ、ごゆっくり」

 村長さんは僕に背を向け、おそらくは神楽坂さんの許へ戻って行ったのだろう。

 どうしたものかと一瞬思案して、とりあえず戸を開ける。

 と、突然の異臭に僕は思わず鼻を押さえ、顔を背けてしまっていた。

「な、何だこの臭いは……」

 まるで動物の腐乱臭と排便の臭いが混ざり合ったかのような……とにかく不快な臭いだ。

 鼻が曲がるかと思ったほどだ。嗅覚を抉る、凶器にさえなりえる悪臭だった。

「と、とにかく扉を閉めて……神楽坂さんが村長さんの気を引いている内に外へ出ないと」

 僕は扉にぴったりと耳をつけて、二人の話声を注意深く聞いていた。

「そういえばこちらへ来る際、全くと言っていいほど人を見なかったのですが、まさかあなた一人ではないでしょう?」

「その通りです。……みなには用事を言いつけていましてな。しばらくは帰らないでしょう」

「そうですか。残念です」

「残念……とは?」

「何、歴史的なものに興味がありましてね。ここはガスも電気もなく、今だに井戸水の様ですので。どんな生活ぶりか村の人に話を訊いてみたかったのですが」

「どんな生活……と言われても。私どもはこれが普通のことですからなぁ」

「でしょう。しかし私達にとっては非常に貴重で興味深い暮らしぶりですからね。それは興味も湧くというものですよ」

「左様でございますか。だとしたら大変申し訳ありませんでしたな」

「いえいえ、突然押しかけてしまったのは私達の方なんで」

 だいぶ話が盛り上がって来ているようだ。この分なら、そろそろ外へ出られそうだな。

 僕はなるべく音を立てないようゆっくりと扉を開け、差し足で外へと出て行った。

 その時、キィ、と扉が鳴ったことに驚いたが、村長さんにそのことを気にする様子はなかった。おそらく、普段からよく鳴るのだろう。

 僕は壁に沿って、屋外へ出た。

 まず気づかれなかったことにホッとして、それからこれから自分のすうるべきことを再確認する。

 村の調査と『視子』の発見。

 救出……は、しなくていい。たぶん神楽坂さんは僕にそこまで望んではいないだろう。

 僕に出来ることを十全にしていたなら、それでいいんだ。

 僕は壁から体を剥がし、意味もなく震える足に鞭打った。

 村長宅を離れ、依頼人の友人の捜索を開始する。

「……とは言ったって、一体どこにいるんだろう?」

 手がかりらしい手がかりはなく、闇雲に歩き回る以外に手段もない。

 加えて村人に一人でも見つかったら、僕達はどうなってしまうのかもわからないんだ。

「な、何だよこの状況……」

 神楽坂さんに半ば無理矢理に連れて来られて、新しい出会いを見つけてくれるとか言っといて、今は一寸先すら視えない状態。

「僕、この状況を楽しんでる?」

 今までに感じたことのない感覚だった。

 客観的に見て最悪に近い。もしかしたら、殺されてしまうかもしれない。

 そう思うのに、どうして僕の胸は高鳴っているんだろう?

 僕は……死にたいだなんて到底思ってやしないのに。

 どきどきする。妙にわくわくする。

 僕って、こんなに不謹慎な奴だったのか?

「……いかんいかん、早く探さないと」

 そう時間もない。明日には帰されて、たぶんもう二度とこの村へ立ち入ることは出来ないだろう。

 そうなれば神楽坂さんは依頼を達成出来なかったことになる。

 僕のせいでそうなったのでは、如何ともしがたい。

 ここは多少の無理をしてでも『視子』さんを見つけ出さないと。

「しかし、どこを探せば……」

 いいんだろう、と軽く周囲を見回す。

 すると、がさがさと茂みが揺れた。

 何だ? そう思い、恐る恐る近づいてみる。

 そーっと僕が覗き込むのとほぼ同時に、茂みの中から小さな影が立ち上がった。

「いで!」

 ごん! と固い何かが僕の顎を捉えた。

 涙目になりながらも、恨みを込めて眼下を睨みける。

「……いってーなぁ、何なんだよ、あんた」

「それはこっちの台詞だ……ってもごもごもご!」

 僕が大声を出しそうになったからか、その少年は僕の口を押さえつけ、茂みの中へと引きずり込んだ。

 地面に尻餅を突いて、またその子に文句を言いそうになる。

 けれど、僕の口から罵倒の類いが放たれることはなかった。

 なぜなら僕の目の前にいたのは、見た目十歳くらいの男の子だったからだ。

 その子は静かにするようにと僕に示してくる。

 僕としても、村人に見つかるのは避けたい。ので、その通りにした。

 どれくらいそうしていただろう。十分? 一時間はそうしていたように思う。

 もう心配ないと判断したのか、彼はふーっと大きく息を吐いて座り込んだ。

「……あんたが村長の言ってた外から来た人?」

「ああ……まぁそんなところだけれど。君はこの村の人間じゃないのかい?」

「この村の人間だ。それがどうした?」

「……大丈夫なのかい?」

「? 何がだ?」

「えっと……だから、今は外出禁止じゃないのかい? その……僕達のせいで」

「わかってんなら聞くなよな」

 彼はぶーっと不機嫌そうに頬を膨らませた。

「いいだろ別に。あんたにゃ関係ねぇよ」

「ははは、まぁそうだね」

「それよりあんたこそいいのか?」

「へ? 何が?」

「何がって……村長に言われただろう? 村長の家から出るなって」

「ああー……確かに言われたかも」

 でも、そんなこと気にしてたら何も出来ないからなぁ。

「いいんだよ。それより……」

「ん? 何だよ?」

「ちょっと人を探しているんだ」

「悪いな。俺、今急いでんだ」

「そ、そうなんだ……」

「おう。だから、あんたの力にはなれねぇ。悪いな」

「いやいいよ。どの道こっちは一人だったから」

「そうか。そろそろ俺行くわ。じゃあな」

「うん」

 彼は茂みから顔を出し、人影のないことを確認しているようだった。

 勢いよく立ち上がると、ダッシュでどこかへと消えて行く。

 どこへ行ったのだろう。

 そのことが凄く気になったけれど、今はそれどころじゃない。

 早く『視子』を探さないと。

「……とは言っても、手がかりらしいものなんて何もないんだよなぁ」

 どうしたものかと頭を掻く。

 そんなことをしたところで意味のないのは十分承知しているが、だからと言っていいアイデアがある訳でもない。

 やっぱり、闇雲だろうと無闇だろうと、歩き回って探すしかない。

 僕もあの子と同じように茂みから顔を出し、周囲の様子を窺う。

 人気はなかった。というより、本当に人が暮らしている村なのかさえ怪しくなってくる。

 あの子と違って、僕は見つかったらお終いだ。

 僕は出来る限り身を低くして、茂みの中を移動する。

 絶対に見つかってはだめだ。それでかつ、迅速に『視子』を見つけ出す。

 僕に……出来るだろうか?

「いやいや、だめだろ、弱気になってちゃ」

 ここまで来て、尻尾巻いて戻るとか。凄く格好悪いんじゃないだろうか。

 ともかく、今は村の散策に戻ろう。

「……つっても話を聞けそうな村人なんか出歩いていないな。……まぁ出歩いてもらってても都合が悪いんだけれど」

 それにしても、ここまで人の気配がないと少し不安になる。

 僕達はもしかしたら、狐か狸に化かされているのではないだろうか、と。

「どうしたものかなぁ……」

 一向に前へと進めない。

 一旦、神楽坂さんのところへ戻ってみようか?

 そう思い、踵を返したところで、獣の遠吠えのようなものが聞こえてきた。

「……な、何だろう?」

 僕は咆哮の聞こえてきた方へ向かって歩き出す。

「えっと……確かこのあたりのはずなんだけれど」

 茂みを掻き分けて進んで行くと、不自然な空間へと出た。

 草木がそこだけ、人の手によって駆り取られたかのように広々とした空間。

 中央に、木と土で出来た社が建てられていた。

 その中から再び、雄叫びが聞こえてくる。

「な、何なんだろう……」

 そーっと、境内の中を覗き込んだ。

 そうして、僕は後悔した。

 息を飲むとは、まさに今の僕のような状況のことを言うのだろう。

 僕は思わず境内から飛び退いて、地面に派手に尻餅を突いた。

 何だ、あれは。

 人間の……男女と思しき影が二つ。

 しかしその姿は異形だった。

 一部分、頭蓋骨が足りないのか頭が凹んでいた。

 男の方は肩腕がなく、ぎらぎらとした瞳で壁や天井を睨みつけていた。

 双方ともに肌は爛れ、腐臭のような匂いが漂っていた。

 小さな子供のものと思われる骨が散乱していて、とても人の住めるような環境じゃあない。

 だから、だろう。僕は彼らを人間とは思えなかった。

 あれは獣だ。きっと村の人が飼っている家畜か何か何だ。

 そう、自身に言い聞かせることで、何とか平静を保つことが出来た。

「……そうだ、神楽坂さんに報告しないと。今日の収穫はなかったって」

 今頃、神楽坂さんは村長さんとの交渉中のはずだ。

 明日になれば僕達はこの村から追い出される。それを阻止するために、神楽坂さんは村長さんと相談を続けているはず。

 もう暗い。残りはまたしよう。

 僕はそう思い、社に背中を向けた。

 もう二度と、ここへは来たくない。そう思いながら。

 

 

           八

 

 

「ああ、戻ったのかい。……どうしたんだい? 凄く恐い顔をしているが」

 神楽坂さんに問われ、僕はすぐに答えることが出来なかった。

 あの光景を言葉にするのは、中々難しい。

 それに何より、今は心の整理をするための時間が欲しい。

「……何かとんでもないものを見てしまった、というような顔だね。話してみるといい。言葉にすることで、頭の整理もしやすくなるだろう」

「そ、村長さんは?」

「ん? 彼なら夕食の支度をしに行ったけれど」

「そうですか。なら……」

 僕は神楽坂さんの隣に腰を下ろし、両膝を抱えてそこに顔を埋めた。

「……村を散策していたら、とある社に辿り着いたんです」

「社……どんな社だい?」

「どんなって……こう、どこにでもあるような普通な感じの。それでいて古ぼけていて、腐っているところもありました。そして、その中にいたんです」

「いた? 何がいたんだい?」

「何って……わかりませんよ。あれは何だったのか。人間だったのか、それとも獣? 怪物? 僕にはあれの正体を推察することすら不可能です」

「ああ、それは私の役目だ。だから教えてくれ。どんな生物だったのかを」

「どんなって……」

 あんな光景、思い出したくもない。

 でも思い出さないと、神楽坂さんが困ってしまう。

 これは、僕一人が知っていても仕方のない情報なのだから。

「か、神楽坂さん。僕は……」

「夕飯の準備が整いましてございます」

 僕が神楽坂さんに洗いざらい打ち明けてしまおうとしたところで、夕食の準備が出来たらしい村長さんが僕達を呼びに来た。

 それにより、僕の言いかけた言葉は宙ぶらりんのまま、空しく消えてしまう。

「おや、ずいぶんと長時間厠へ籠っていらしたようですな。顔色もすぐれなんだ。どうぞ、腹に何か詰めれば気分もよくなりましょう」

「……ありがとうございます」

「じゃあご相伴に預かろうか」

 僕と神楽坂さんは立ち上がり、村長さんの案内で食卓へと向かう。

 並べられた料理はどれも色合いが地味で、泥のような色をしていた。

 加えて匂いもなく、そのほとんどが生食なのだろう質感をしている。

「ふむ……これが今日のメニューですか。ちなみに献立は?」

「猪の腸、山草の煮物、鶏肉、薩摩芋。……そのくらいですかな」

「ずいぶんと豪華ですね」

「そう言っていただけたなら、幸いです。何せこんな山奥ですから、食料にも困っていまして。狩りをしなくてはならないのですよ」

「大変ですね。それで先ほどの件なのですけれど……」

「ああ、一週間ほど、この村に滞在したいということでしたな」

「はい。何とかお願い出来ないでしょうか?」

「何とも奇特な方々ですな。ですが残念ながら、それは出来ませんな」

「なぜです?」

 僕達が席に着くと、村長さんも椅子を引いて腰を下ろした。

 そうして、やれやれといった様子で僕達を見据える。

「私どもは基本的に外の人間の来訪を歓迎しません」

 ズバッと、正直に言い放つ。

 まるで僕達が邪魔みたいな言い草だ。……まぁ実際そうなんだろうけれど。

 それにしても、客人への態度じゃない。言わないけれど。

「そうですか。それは凄く残念です。この村はよかったのに」

「そう言って頂けると、私どもとしても嬉しい限りではございます」

「なら、もう一、二日だけ延長、というのはだめでしょうか?」

「それは……わかりました。では後二日」

「ありがとうございます」

 神楽坂さんが深々と頭を下げる。僕も習って、会釈した。

 ちらと村長さんへ視線をやる。

 彼は僕達の滞在がよほど気に喰わなかったと見える。酷く忌々しげな表情で僕達を見下していた。

 その、心の声さえ聞こえてきそうなほどに……、

「さて、では食べましょう。早くしないと食べられなくなってしまう」

「そうですね。では」

 僕達は顔を上げ、村長さんの用意してくれた夕食を口に運ぶ。

 酷く、血の味のする夕食だった。

 

 

             九

 

 

「滞在が許されたはいいものの、部屋から一歩も出るなとはかなり横暴なのではないだろうか。こちとら観光させてくれとお願いしたはずなのだがな」

「仕方がないと言えば仕方がないですね。彼らにとって僕達は邪魔な存在なのですから」

「しかし、昨日君が話してくれた『視子』の話……本当なのかい?」

「そう訊かれると不安になります。というか、僕の見間違いだったとむしろ思いたいですね」

 あんな化物小屋、二度とお目にかかりたくないものだ。

「そうもいかないさ。何せ今回の依頼の鍵を握るのがその『視子』とやらだからね」

 一夜が明けた。よく眠れたかと言えば、否だ。

 こんなゴツゴツとした床に布一枚敷いただけで熟睡出来る人がいるのなら、その人は旧石器時代からやって来たホモ・サピエンスか何かだろう。

 とはいえ、ぐちぐちと嘆いていても始まらない。

 僕は睡魔を訴える頭を左右に振り、昨日のことを思い出した。

「……あれは一体……何だったのでしょう?」

「さぁーね。私には全くわからないよ」

 お手上げだ、と神楽坂さんは肩を竦めた。

 僕は彼から視線を外し、唯一村の外を見渡せる窓の外へと目を向ける。

 四センチ四方の小さな窓は、幼い子供なら安々と通り抜けられるだろう。

 しかし、僕や神楽坂さんは、その窓から村中を眺めるのが精一杯だった。

「……君は、現状に不満のようだね」

「そりゃあ不満ですよ。こんなところに押し込められて。これじゃ監禁に近い」

「その点は同意だ。これでは捜査のしようがない。しかしこれは当然の成り行きだと言える。何せ我々は招かれざる客だからね」

「だからってこれはあんまりですよ!」

「まぁ落ち着きたまえよ。もうそろそろ姿を現す頃合いだ」

「一体……」

 何を? と訊ねようとしたところで、村長さんの声が聞こえてきた。

「さぁ、こっちだ」

「は、はい……」

 村長さんに導かれてやって来たのは、肌黒で長身の男だった。

 体格はがっしりとしているが、如何せん目を泳ぎまくり、彼の表情からは自信のなさが露骨に表れていた。

 あれなら、僕でも喧嘩して勝てそうだ。

 と、冗談は置いておいて、聴取が始まりそうだ。

「あ、あの……私に何をお訊きになりたいのでしょう?」

「実に簡単なことです。一言で済む」

「な、何ですか、それ……」

 神楽坂さんは勿体ぶるように腕を組み、ニッと口の端をつり上げる。

 村長さんに目配せしたかと思うと、彼はやれやれといった様子で部屋から出て行った。……とは言っても、おそらくはすぐ側で盗み聞きをしているだろうけれど。

 僕は再び、神楽坂さんと村人Aへと視線を戻した。

「では、質問です」

「は、はい……!」

 村人Aはびくっと肩を震わせると、背筋をピンと伸ばして居住いを正した。

 慣れているのか、ゴツゴツした床に平気で正座している。信じられない。

「あなたはこの村のことをどう思いますか?」

「へ? ……静かで、とてもいいところだと思いますけれど……」

 村人Aは小首を傾げ、不思議そうな顔をしていた。

 まぁ僕もこの質問に何の意味があるのかわからないけれど……、

「そうですか。ありがとうございました」

 神楽坂さんはお礼を言い、村人Aを下がらせた。

 彼の姿が見えなくなってから、僕は神楽坂さんの前へと歩み出た。

「……あれにはどういう意味が?」

「あれ……ああ、さっきの質問のことかい?」

「はい。あれではただ、村の人に住み心地を訊いているようにしか見えません。時間もあまりないのですから、ここは慎重に……」

「おっと、次のお客様が来たようだ。話は後にしよう」

 神楽坂さんがぐいっと僕の体を退かす仕草をする。

 これ以上の問答はそれこそ時間の無駄だろう。

 僕は大人しく神楽坂さんの前から退き、次の客人のためのスペースを空ける。

 直後、村長さんに導かれて入って来たのは、まだ年端もいかない小さな女の子だった。

 年の頃は十歳前後だろうか。屋外で長時間活動するのだろうか。かなり黒く日に焼けている。そして何より、外での活動に適した薄手の格好。

 まぁこんな時代遅れの村だ。子供を労働力として使用していたのだとしても、何ら不思議はないだろう。

「やあ、こんにちは」

 神楽坂さんは女の子に向かって満面の笑みを浮かべていた。

 案外子供が好きな人なのかもしれない。違うかもしれないけれど。

「今日来てもらったのは、君に少し訊きたいことがあったからなんだ」

「な、何……わたし、何も知らないよ?」

「はは、そう恐がらなくていい。何も取って喰おうって訳じゃないんだ」

「あの……早く帰らないと、お父さんとお母さんに怒られちゃう」

「そうなんだ。だったらさっさと済ませよう。何、簡単なことだ」

 神楽坂さんの言葉がいまいち信用出来ないのか、女の子は不安そうな瞳で僕達を交互に見渡す。……気持ちはわかるけれど。今は協力してもらわないとだめなんだ。

 一体、何の意味があってこんなことをしているのか謎なんだけれど。

「私が訊きたいのは一つ。君は、この村についてどう思っているんだい?」

 さっきと全く同じ質問を繰り返す。

 女の子は困ったように眉を寄せ、少しの間考え込むように視線を泳がせた。

「どうって……いい村だなぁと思うよ。みんな優しいし」

「ふーん……どういうところがいい村だと思うんだい?」

 ん? 何だ?

「どういうところって……静かでのどかなところだと思う」

「……なるほど、わかった。もういいよ。ありがとう」

 神楽坂さんはくしゃっと女の子の頭を撫でた。

 女の子はくすぐったそうに目を細めていたが、頭の上から彼の手が退けられると、スッと立ち上がった。

「じゃあ……ばいばい」

「ああ、また会おう」

「? ……うん」

 短く挨拶を交わし、女の子は部屋から出て行った。

 それから後、十数人ほどと面談をしたのだが、これと言って芳しい成果が得られたようには、僕には到底思えなかった。

 

 

              十

 

 

「……一体何がしたかったんですか?」

「この家の外に出られない以上、あちらから出向いてもらうより他にないと思ったのだが」

「いえ、そういうことを訊きたいのではなく……あれのどこに今回の依頼を達成しうる何かがあったと?」

「君の目には、私はただ村の人間と無駄話をしていたように思うのかね?」

「そうは思いませんけれど……」

 いや、実際にそう思っていた。

 神楽坂さんの行った行動には、まるで意味がない。

「ま、そうだね。君から見たらその通りなのだろうけれど。あれは私としては、この上なく意味のある行動だったつもりだったのだがね」

「…………」

 彼自身が自ら行った行動に意味があると言うのなら、実際その通りなのだろう。

 僕には決してわからない何かがあると、そう信じるしかない。

「……それで、これからどうするんですか? まだ正午になったばかりですけれど?」

「そうだね。村の散策をしようにも我々は動くことが出来ない。そこで、助っ人を用意した」

「助っ人?」

 とは誰のことだろうか?

 この村の中において、僕達の味方をしてくれる人間なんているはずがないのに。

「ま、見てればわかるさ」

 よっこいせ、と神楽坂さんが立ち上がる。

「どこへ行くんですか?」

「何、ただ厠へちょっと」

 僕が首を傾げていると、神楽坂さんは僕に構わず部屋から出て行ってしまった。

 後には一人、ぽつんと取り残される僕。

「全く、大丈夫なのかな、あの人」

 僕の中で神楽坂さんへの疑念が膨らんでいく。

 と、突然窓の外から何かが入り込んできた。

「……な、何だ?」

 よく見てみれば、小さな石ころに紙を包んだもののようだ。

 僕はそれを拾い上げ、メモ用紙にも満たない小さな紙片を広げる。

 そこに書かれていたのは、かなり簡略的だが村の全体図だった。

 先ほど神楽坂さんが言っていた、協力者だろうか。

 一体誰がこんなものを……?

 気になって、僕は窓の外を見やる。けれど、そこには既に人影はない。

 少しがっかりしつつ、僕はその紙片へと再度目を落とした。

 よく読むとこの地図、少し歪だ。

 村の概要図と思われるその地図の端は、不自然な空白があった。

 ……簡略図だからかもしれないけれど。

「ど、どうしよう……」

 神楽坂さんに相談すべきだろうか。けれど、今神楽坂さんはいない。

 そっと部屋の外を覗いてみると、村長さんの姿み見受けられなかった。

 これは、いい機会かもしれない。

 僕は村長さんに気づかれないように足音を殺して、村長さん宅から外へと出た。

 頭上を通り越し、山間に沈みかける夕日が眩しい。

 思わず腕で顔を覆い、陽光を遮る。

 数秒間そうしてから、慌てて周囲を確認する。

 僕のことを咎める人影はなく、小走りにその場を離れた。

 昨日も入った茂みに飛び込んで、再び地図を取り出した。

 村長さん宅から反対側。そこに、例の不自然な空白はあった。

 その事実を認識して、僕は後悔とともに頭を掻く。

「……正反対じゃないか」

 どうやって反対側まで行こうかと思い悩む。

 どうやら村人は既に普通の生活を送っているようだ。

 となれば、村長さんの家から脱走したことがバレてしまう可能性がある。

 僕はちらと茂みの中から顔を出した。

 見える範囲には人の気配はなく、このまま突っ切ることが出来たなら、目的地まで行けるだろう。けれど……もし見つかったら、どんな目に合わされるかわかったものじゃない。

 うーん、と踏ん切りがつかずにいると、ガザガザ! と茂みの奥の葉が揺れる音がした。

 その音に反応して、僕はびくっと大きく体を揺らす。

「……だ、誰かいるの?」

「……ああ、あんたか。またあったな」

「き、君は……」

 草木を掻き分けて出て来たのは、昨日一人で村を探索した時にも出会った少年だった。

「何してんだ? こんなところで」

「そ、それは僕の台詞だよ、君こそどうして……!」

「俺は……ちょっと人と会う約束をしていてな」

「それって……神楽坂さん?」

 もしかしたら、この子が僕達の部屋に地図を投げ入れたのかもしれない。

 そんな一抹の期待を胸にそう訊ねた。けれど、返って来たのは僕の望んだものとは違う答えだった。

「ちげーよ、誰だそれ?」

「あっ……違うんだ」

「ああ、違うな。あんたと一緒に外から来た人間か?」

「うん、そう……だけれど。君はどこへ?」

「だから、人に会いに行くんだって」

「……急いでるの?」

「いや……急いではねぇけれど」

「だったら、ここに連れて行ってほしいんだけれど、いいかな?」

「ここって……」

 僕は地図を見せて案内を頼んだ。

 すると、彼の表情が一瞬にして険しいものへと変化する。

「……いいぜ、俺もちょうどそのあたりに用があったところだったんだ」

「というと、君が会いに行くっていう人も……?」

「ああ、ここにいる」

 そう言った彼の表情は険しくて、それが僕を少し不安にさせた。

「あの……」

「じゃ、さっさと行こうぜ。村長やみんなに見つかったら面倒だ」

 彼は僕の脇を通り抜け、さっさと先へ行ってしまう。

 僕はその背中を慌てて追いかけた。

「……君、名前は?」

 彼の隣に並び、そう訊ねてみる。と、彼は猜疑と苛立ちの籠った目で僕を見つめてきた。

 少しの沈黙。聞こえてくるのは、彼と僕の足音のみ。

 しばらくして、ようやくく彼が口を開いた。

「俺の名前は……鹿野柴矢だ」

「鹿野君か。僕は――だよ」

 自己紹介を済ませると、何だか無償に親近感が湧いてきた。

「ねぇねぇ鹿野君」

「気安く呼ぶなよ……で、何だ?」

「君は昨日もその人に会いに行ったのかい?」

 鹿野君は昨日もあの場にいた。

 それは、今日会う予定の人と昨日も会っていた、ということだろうと予想出来る。

 果たして、数秒の沈黙の後、鹿野君は振り返ることなく僕の問いに肯定を示した。

「……ああ、そうだ。昨日も……そして今日もあの人に会いに行くんだ」

「君は……その人のことが好きなの?」

「……俺はまだガキだからよ、好きとか嫌いとかってのはまだよくわからねぇ。けれど、今のあの人の状況に納得出来ねぇ部分があるのは事実だ」

「納得出来ない部分?」

「ああ、そうだ」

 鹿野君が更に歩調を早めた。

 焦りだろうか、怒りだろうか、悲しみだろうか、後悔だろうか、憎しみだろうか。

 どんな感情を今の彼が抱いているのか、僕にはわからない。

 けれど、いずれにせよあまりよくない感情がとぐろを巻いているのが、その背中から伝わってくる。

「あの人は都会の学校に通っていて、ゆくゆくは偉い人になるはずだったんだ。それをこんなところで、訳のわからねぇ古ぼけた風習のせいで命を落とすなんて逢っちゃだめなんだ」

 静かに、憤りを堪えているのがわかる。

 鹿野君の言葉を聞いて、僕が返せる答えなんて存在しない。

「……伏せろ!」

 唐突に鹿野君が振り返り、僕の頭を押さえつける。

 あまりに突然の出来事に、僕は抗うことさえ出来ず、されるがままに身を低くした。

「……何やってんだ? あれは村の連中じゃ……?」

 鹿野君が茂みから顔を出し、目の前に見えているであろう光景を注視している。

 僕は彼の腕を振り払い、慎重に茂みから顔を出した。

「何だろう、あれ……」

 村の屈強な男達が十人ほど。肩に大きな箱のようなものを担いでどこかへと去って行くところだった。

 箱は真っ黒で、外から何が入っているかを窺い知ることは出来ない。かなり大きく、冷蔵庫くらいなら軽々と入ってしまいそうなサイズ感だ。

 更に、彼らの動きは緩慢で、見方を変えれば慎重になっているとも受け取れる。

 そう、まるで貴重品でも扱うかのごとく、ゆっくりとした動きだ。

「……行っちまったな」

 鹿野君はそう呟き、再び立ち上がる。

 僕も彼に続き、彼の後を追った。

 そうして、鹿野君とともにとある古びた社へと到着する。

 昨日訪れた場所とはまた違う、おそらくは頻繁に手入れがされているのであろう比較的綺麗な社だ。

 鹿野君は社の前に辿り着くと、きょろきょろと周囲を見回した。

 人気がないことを確認すると、待ち切れないとばかりに社へとかけて行く。

「姉さん、来たぜ!」

 バン、と勢いよく境内の扉を開ける。

 彼に遅れて、僕も隣に並んだ。

 け、れど……、

「……誰も、いない?」

 ちらと鹿野君の方を見た。

 見て、視界に入れて、後悔した。

 いや、後悔したのは僕じゃない。鹿野君の方だ。

 大きく目を見開き、半開きにした口。腕はだらりを力なく垂れ下がり、全身から絶望があふれ出している。

「……だ、大丈夫?」

「くっ……くそぉぉぉぉ! あの野郎どもがぁぁぁ!」

 鹿野君は頭を抱え、その場に蹲る。

 嗚咽を漏らしながら、呪詛の言葉を並べて行く。

「な、何で今日なんだ……なんで姉さんなんだよ……他の奴でよかったじゃねぇか! いや、それ以前にそもそも何で生贄なんて風習があるんだよ、訳わかんねぇよ……!」

「鹿野君……」

「おまえらのせいだ!」

「え……?」

 バッと鹿野君は立ち上がり僕の胸倉を掴んだ。

 そのまま壁に叩きつけられ、僕は肺の中にあった酸素が全て吐き出される。

「おまえらが来たから、予定が早まったんだ……! 本当なら後一日猶予があったのに、おまえらのせいで今日の内に『視子』様のところへ連れて行かれた!」

「それ、は……」

「おまえとあの男が来たせいで、おまえらがこそこそ村の中を嗅ぎ回っていたせいでぇぇ!」

 ダンダンッと何度も壁に叩きつけられる。

 背中が痛かった。古くて腐りかけた社の壁が壊れそうだと思った。

 それでも、僕は彼に対して反論を口にすることが出来なかった。

 確かにそうだと思ったから。僕達さえこの村に訪れなければ、生贄となった人もこうも早く死期が訪れることはなかっただろう。

 せめて、家族や近しい人に別れを言うくらいのことは出来ていたかもしれない。

 僕達さえ、やって来なければ。

「くそぉ! おまえなんかに構ってる暇はねぇんだよ!」

 最後にダンッと一段と強烈なのを喰らった。

 それにより、体を鍛えることすらしてこなかった一介の高校生たる僕は、大きく咳込んでしまう。

「ど、どこ……へ?」

 僕は走り去って行く彼の後ろ姿を、ただ眺めていることしか出来ず。

 そして僕は、その場で意識を失った。

 

 

               十

 

 

 頬に何か冷たいものが当たる感触を覚えて、僕は目を覚ました。

「はは、ようやくお目覚めだね」

「……神楽坂さん? ここは?」

「よく時代劇なんかで見るだろう? 地下牢という奴だよ。私もお目にかかるのは初めてだが」

「ち、地下……何で僕達こんなところに?」

「あれれ? 覚えてないのかい? 君、倒れてたんだってさ」

「倒れていた……あっ」

「思い出したようだね」

 そうだ、僕は鹿野君とあの社まで行って……、

「あの、倒れていたのは僕だけ……ですよね」

「ああ、そうだが……それがどうかしたのかい?」

「い、いいえ……どうもしません」

 そりゃあそうだ。あの時、鹿野君は生贄を乗せた箱を追って走って行ってしまったのだから。

 僕は、どれほど弱いのだろう。

「ふむ、何を落ち込んでいるかはわからないけれど、今はそんな些事に気を回している余裕はないんじゃないだろうか」

「些事って……って、そういえばここって地下牢……」

「そう。そして今は生贄を清めている最中らしい」

「……! それって……」

「ああ、早くここから出ないと、大変なことになる」

「そ、そんな……」

 しかし出ると言ったって、どうやって?

 格子は鉄製。子供ですら通れるほどの隙間はなく、南京錠とかけ鍵のダブルロック。

 つまり、力づくは通用しないということだ。

 もっとも、最初からそんな力はないのだけれど。

「ははは、だいぶ焦っているようだね」

「あたり前ですよ! もうすぐ生贄が『視子』の前に晒される、何とかしてここを出ないと」

「まぁ落ち着きたまへ。先ほど看守役の村人だろう人が来てね。こう言っていたよ。『儀式にはまだかなりの時間がある。だからせいぜいその時まで大人しくしていてくれって』

「な、何を……」

「つまりだ。『儀式』とやらが行われるのは日没と言うことになる。彼の言葉を信じるならね」

「だから、その前にここを脱出しないと!」

「手は考えてあるよ。後三十分ほどの我慢だ。ところで……」

「な、何です?」

「一体何があったんだい? 気絶したところを村人が発見してね。そのお陰で私も君も、今こうしている訳なのだけれど」

「す、すいません……」

「別に責めたい訳じゃない。何があったのか、教えてくれないかい?」

「何がって……」

 頭の中を、つい先刻の出来事が駆け巡る。

 そうして、息を飲んだ。

「――神楽坂さん! あの子は! 彼は!」

「落ち着きたまえ。何があったのか、順を追って話してはくれないだろうか」

 縋り着く僕を、神楽坂さんは優しく引き剥がした。 

「……あの時、僕は一人の男の子と再会したんです」

「ふむ」

「そしたら彼、『視子』に捧げられる予定だった『生贄』のところへ向かう途中だったらしくって」

「ふむふむ」

「それで、『生贄』が運び出されるところに遭遇しました」

「なるほど。そこで逆上したその少年に、君は大人しくやられてしまった訳だ」

 神楽坂さんの声音には、多少がっかりしたような、そんな風合いが込められていた。

 僕の不甲斐なさに、呆れてしまっているのだろうか。

「まぁ何はともあれ、無事でよかったよ」

「は、はぁ……」

 責めないんだ。あんな醜態を話したというのに。

「何、大丈夫だよ。何とかなる」

「何を根拠にそんなこと言ってるんですか?」

 僕が言うのも何だけれど、この状況はかなりまずい。

 『生贄』の安否が脅かされているというのもあるけれど、それ以上に全てが終わった後、僕達にどういう待遇が待っているかを考えると、ぞっとする。

 村の秘密を知ってしまったとして、最悪の場合殺されてしまうかもしれない。

 僕はぶるっと一つ身震いすると、ちらと神楽坂さんの表情を盗み見た。

 彼の表情は穏やかで、とてもこれから先を悲観しているようには見えない。

「……ふーむ、そろそろ『儀式』が始まる時間だね。そろそろ僕達もここか出ないと」

「で、でも、一体どうやって……?」

「それはね……」

 と、神楽坂さんが説明してくれようとしたまさにその時、看守役の男が急叫びを上げて倒れ込む。

 僕は訳がわからず、呆然とその光景を見ていた

 横になった男を跨いで、見覚えのある影が僕達の前に進み出てくる。

「……やあ、すごーくいいタイミングだねぇ」

「はい。これでいいのでしょう?」

 そう言って、痩身の彼はくるりと一度、手に持った鍵束を指で回す。

「ああ、よくやってくれたよ」

「約束して下さいね。報酬はちゃんと払うと」

「もちろんだとも。私は約束は守るよ」

「では鍵、開けますね」

 彼は牢の鍵を開けると、僕達を逃がしてくれた。

「……どうして?」

「ま、色々とあって」

 ニッと神楽坂さんは口の端をつり上げる。

 それ以上のことは何も言ってはくれずに、そのまま僕達は地下牢から出て行った。

 なぜ村人が僕達に協力してくれるのかとか、訊きたいことはたくさんあった。

 けれど、今はそんなことを言っている場合じゃないことは理解している。

「それで、どこへ行くんですか?」

「こっちだ。着いて来てくれ」

 促され、僕と神楽坂さんは森の奥へと分け入って行く。

 道と呼べるものはほとんどなく、それどころか獣の通った痕跡すらない。

 道なき道を進んで行くと、僕達は開けた場所へ出た。

 見覚えのある、人の手によって切り開かれたと思われる空間。

 中央に寂しげに佇む社。今は、その周りに村人らしき人影が多数、蠢いていた。

「……あれは何をしているんだい?」

「さぁな。俺にもさっぱりだ」

「? あの……さっきも気になってたんですけれど、お二人はお知り合いですか?」

「ん? まーな」

「ああ、こいつはあれだ。警察官」

 神楽坂さんが褐色の彼を指し示す。

 警察官……へー、警察……官!

「な、何だってぇー!」

「おま、声がでけーよ!」

 珍しく慌てた様子の神楽坂さんによって取り押さえられる僕。

 大きく深呼吸をして、心臓を落ち着かせる。

「な、何で警察の人が?」

「あー、まぁなんだ。この村には以前から妙な伝統があるという情報は得ていたんだ。けれど、他所者には滅法警戒しやがるんだ、奴ら」

「あー、なるほどー……わかる気がします」

「だろう? そこで俺は潜入捜査のためにこの村にかれこれ五年住んでいる」

「ど、どうやって? だってこの村、他所者が来たら追い返しているのに」

「まーな。そこは色々と。かなり苦労したぜ。だから、おまえのさっきの不用意な叫び声一つでこの作戦が台なしになるところだったんだぞ?」

「す、すいません……」

「ところで賢治君」

「黙れ馴れ馴れしいぞ神楽坂」

「あれ、見てみなよ」

 ぎらり、と神楽坂さんを睨みつける。

 が、神楽坂さんは意にも介さず、平然とした様子で社の方を指差していた。

「何だ……ありゃあ何だってんだ?」

「うーん……たぶんだけれど、村の少年だと思うな」

「村の少年? にしては何やら言い争っているように見えるんだが?」

「ま、この村だって一枚岩ではない、ということだよ」

「あの子は……」

 この村で出会った少年だ。

 やはり、彼はこの『生贄』の風習を快く思ってなどいなかったらしい。

 大人達に噛みつくように、視線を交差させている。

「……どうする? 神楽坂」

「私の指示を仰ぐのかい? 私は善良な一般市民でしかないよ?」

「おまえのどこが善良な一般市民なんだ? ただの極悪人だろう」

「酷いなー……第一、警察は君だろう? 賢治君」

「……ふん、言われずともわかっている!」

 賢治さんは飛び出して行くと、すぐに腰に帯刀していた日本等を引き抜く。

「……えっと、何ですか、あれ?」

「ああ、君は知らなかったね。賢治君は警察組織の中で唯一、真剣の携帯を許された警察官なんだ」

「そんなばかな! 普通、拳銃とかじゃないんですか?」

「賢治君は無心無縁流という流派を納めていてね。おっと、動きがあったようだ。私達も行こう」

 神楽坂さんは立ち上がり、悠然とした足取りで賢治さんの隣に立つ。

 僕はその更に後ろをちょこちょこと着いて行くだけだった。

「さて貴様ら。覚悟はいいか?」

「な、何だおまえ……! ハッ! おまえ確か……」

「おう。二年間、世話になったなぁ」

「くそ! 何だっておまえが!」

「俺は元々警察だからな。おまえらの暴挙を捨ておけんのさ。大人しく勘念してお縄に着くのならよし。抵抗する場合はこの場で切り捨てても構わないというお上からのお許しも得ている」

「な、何を言っているんだ? 一体なぜ我々がそんな目に遭わないと……」

「その箱の中身を見せてもらえるかい?」

 神楽坂さんが、大箱を持った体格のいい男の前に進み出る。

 にこやかな表情とは裏腹に、彼の纏う雰囲気は邪悪で満ち満ちていた。

「何もやましいことがないのなら、見せれるはずだろう? それともやはり、私達の前で披露するには躊躇われる何かが入っているのかな?」

「べ、別にそんなことはないが……」

 言い淀み、顔を見合わせる彼ら。

 どうすべきか、迷っているようだ。

 数秒の沈黙。

 焦れたのか、賢治さんが手にしていた刀の刃を目の前の男の首元の置く。

「さっさとしろ。でなければ、貴様らを八つ裂きにしてでも暴き出す!」

「ひ、ひぃぃ!」

 賢治さんがどんな顔をしていたのか、僕の位置からではわからなかった。

 けれど、その声質と相手の狼狽振りから見て、相当恐い顔をしてるのであろうことは間違いない。

「ほう……ここまでされてなおその箱を守り続けるか。なら、いっそのこと死んでもらおう」

 頚動脈に、刃が触れる。後は、そのまま手前に引く。それをすればおそらく相手は絶命するだろう。

 空高く、血を吹き出しながら。

「待てい」

 しわがれた声が響く。

 僕も、賢治さんも神楽坂さんも。その場にいた全員がそちらを向いた。

「……ああ、村長か」

「……貴様、わしらを謀りおったな」

「悪かったな。けれどこれも仕事だ」

「仕事なら、何をしてもいいと?」

「てめぇらこそ、人の命を何だと思ってんだ?」

「貴様にとやかく言われることではない。これはこの村の風習だ」

「人身御供なんざ、古臭い悪習に囚われてんじゃねぇよ。なぁそう思うだろ、坊主?」

「え? お、俺は……」

 鹿野君は驚いたように大きく目を見開いた。

「何だ? 思わないのか? だったらこのままこいつらをそこの奴のところへ行かせてもいいな?」

「は? 何でそうなるんだよ!」

「だめなのか?」

「だ、だめに決まってるだろう! 姉さんは喰い物じゃないんだ!」

「喰い物……どういうこと? 鹿野君」

「何だい君、気づいてなかったの?」

「神楽坂さん?」

 神楽坂さんの手がポンと僕の肩に乗せられる。

 鹿野君は悔しそうに唇を噛み締め、俯いていた。

「――今まさに『儀式』が執り行わようとしている、ということだよ」

「え? ……でも、時間がかかるんじゃあ……?」

「ふん、おめでたい頭だな。無理矢理時間を繰り上げたに決まっているだろう」

「で、でも……ならどうして鹿野君が?」

「あの子のことかい? 概ね、『生贄』を助けに来たのだろうね。あっさり帰り打ちに合っちゃったみたいだけれど」

「だ、黙れ! これから巻き返して行くんだ!」

「そうかいそうかい。それは余計なことをしたね。けれど、ここから先はそこのおじさんに任せておくといい。何せ彼は現役の警察官だ」

「おい、誰がおじさんだ! 俺はまだ二十代だぞ!」

 えー、見えないけどなぁー。

「……お話は終わりましたかな? では、こちらの言い分も聞いて頂きましょう」

「聞く耳持たん。貴様らはここで死ね」

 そう切り捨てると、賢治さんは勢いよく刀を手前に引いた。

 同時に、夥しい量の血飛沫が舞い上がる。

「あ……ああ……が……」

 箱を抱えていた村人の一人が地面に倒れ――絶命した。

 彼の鮮血を吸って、地面が赤黒く染まる。

「……何てことを……」

 他の村人が絶句する中、村長さんがそう声を絞り出す。

 立ち込める血と生臭ささに、僕は思わず胃の中身をぶち撒けてしまいそうだった。

 いや、実際には喉元まで、胃液がせり上がってきていたのだが。

 そうならなかったのは、僕達の背後で、獣の雄叫びにも似た絶叫が木霊したからだ。

「ちっ……今度は何だ!」

 神楽坂さんと賢治さんが振り返る。僕も遅れて、背後を見た。

 そうして、その場にいた全員が言葉を失った。

 なぜなら、そこには社の扉に張り着き、ガタガタと揺らす怪物の姿があったからだ。

 腕は一本しかなく、切り落とされたというよりは最初から存在しなかったと思った方が自然だろう。顔の皮膚は爛れたようにぐちゃぐちゃで、目は血走っている。

 飢えた肉食獣のようなそれは、どう取り繕っても人間には見えず、また人間らしい知性や理性を感じさせることはなかった。

 その姿は、僕達に一つの言葉を想起させるには十分だった。

「か、怪物……」

 神楽坂さんがそう呟くと、箱を抱えていた残りの村人が恐怖に抗えず、逃げ出してしまった。

 僕も、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。けれど、どうにも足が竦んで動けない。

 それでもなお、ガタガタと獣は社の扉を激しく揺らしていた。

 このままでは、あの朽ちかけた社の扉は破壊され、あの化物が出て来てしまう。

「おい、何だこの怪物は……!」

「……我らが崇拝する『視子』様じゃ」

「へぇ……これが『視子』ねぇ」

 賢治さんが怒りを交え、神楽坂さんが感心したように、各々の反応を示す。

「それで、どうしてその『視子』様はこれほど機嫌を害していらっしゃるのでしょうか?」

「……害してなどおらん。ただ、血の臭いに過剰に反応しておられるだけじゃ」

 神楽坂さんの煽るようなもの言いに、しかし村長さんは特に気分を害した様子はない。

 ただ淡々と、あの理性なき獰猛な肉食獣を見据えているだけだ。

「――鹿野君、逃げて!」

「え……?」

 一際大きく、化物が扉を揺らす。

 すると、扉は崩壊し、仲から例の怪物が出て来た。

「ひっ!」

 鹿野君は恐怖に慄き、後ろへと下がろうとしていた。だが、上手くいかなかったのだろう。ほとんど距離を空けることは出来なかった。

 獣は真っ先に鹿野君の存在に気づき、舌舐めずりをする。

 ぎょろりと大きく飛び出した瞳を彼に向けていた。

「ど、どうしたら……神楽坂さん」

「賢治君!」

「言われずともわかってる!」

 賢治さんは一足飛びに怪物へと肉薄すると、大きく刀を振り被った。

 そのまま、重力をも利用し、怪物目がけて一気に振り下ろす。

 が――その刃が肉食獣の肉を断つことはなかった。

 気づいた時には既に、化物は賢治さんの前にはおらず。

 僕の真正面にその影を落としていた。

「なっ……!」

 一瞬後には大口を開け、僕を捕食しようと体を肩を掴んで動きを封じてくる。

 もうだめだ……そう主た矢先。

 ダァァァン! と耳をつんざくような発砲音が鳴り響いた。

 ほとんど同時に、異形の怪物は僕の前からいなくなっていた。

 数メートル遠くにその姿を発見し、ホッとしたのもつかの間。

 獣はすぐに立ち上がった。腕のない方の肩口に開いた銃創からは、だらだらと黒くてどろどろしたものが流れ続けている。

「さて、これは警告だ。次にそのような暴挙に出るというのなら、今度は頭を打ち抜く」

「……無駄じゃ。『視子』様に言葉は通じん」

「何の教育もされていないのですか?」

「教育を施そうにも、最早そんな余地のあるお体ではないのじゃよ」

「ああ? どういう意味だ、じじい?」

 賢治さんに問われ、村長さんが言い淀む。

 何か、途轍もないことが行われたのだろうか。

 例えば……人の理から外れた、禁忌な行為が。

「……聞いたことがある」

「か、鹿野君! 大丈夫か!」

「ああ……」

「ふん、それで何を聞いたんだ、餓鬼」

「……『視子』様は」

「止めるんじゃ、鹿野!」

「いや、俺は止めない。これで、姉さんが救えるなら!」

「鹿野ぉぉ……」

 村長さんの声は、怒りに満ちていた。

 これから鹿野君が語ることは、それだけ重大な村の秘密なんだ。

「『視子』様は代々、兄妹の交わりで生まれてくるんだ」

 兄妹の交わり……兄と妹が。もしくは姉と弟が。

 いずれにせよ、そのかけ合わせから生まれるのが『視子』の正体。

「……それって」

「ああ、いわゆる『近親相姦』という奴だね。それによって生まれてくる子供は病弱だったり奇形だったりする。本来、違う染色体どうしで交配しなくはならない。けれど、近親相姦の場合、似通った染色体どうしの交配になるため、様々な危険が伴う」

「その結果があれって訳だ」

「そうだろうね。長い年月、近親相姦を繰り返してきた『視子』は、体だけでなく心すらもたないただの害獣となり果ててしまった。今の彼らに、理性なんて欠片もない」

「でも、それじゃあ人間を喰らう理由にはなりませんよ」

「……本能、なのでしょう」

 ここに来て、聞きなれない声が響く。

 神楽坂さんも賢治さんも、怪物の方を警戒しているための声の主を振り返ることは出来ない。

 だから、二人の変わって僕が、その人を返り見る。

 美しい人だった。

 水晶のようにどこまでも澄んだ瞳。流れるような艶やかな黒髪。

 その表情は凛々しく、その佇まいは己が運命を受け入れていたかのように穏やかだ。

 和装に身を包んだその人のことを、僕は美しいと思った。

 綺麗だと思った。

 その人のことを――、

「姉さん!」

「なぜここにいるの?」

「俺は、姉さんを助けに来たんだ!」

「誰がそんなことを頼んだというの?」

「でも、俺は……」

「感動の再会の途中で口を挟んで申し訳ないが、さっきの続きを聞かせてくれないか?」

 賢治さんは獣の方を油断なく見詰めたまま、そう彼女に訊ねた。

「ああ、申し訳ありません。……『視子』様は長い月年の間に行われた兄妹の交わりによって、理性を失い肉体を不完全なものとしました」

「そうだね。それがどうしたというんだい?」

「ええ……だから、人を喰らうことで自ら人としての機能を取り戻したかったのではないでしょうか……」

「そ、そんなことが本当に……?」

「わかりません。これはただの憶測です」

「じゃが、無理な話ではなかろうて。人の手によって祭り上げられた初代の『視子』様は、それ自体を受け入れはしたものの、納得などしていなかったと言い伝えられておる。じゃから……」

「ふーん……幾代を超え、今再び人間に……かぁ。いい話だねぇ」

「おい神楽坂、そんな呑気なことを言っている場合じゃねぇだろうが!」

「わかってるよ」

 賢治さんの怒号に呼応するように、神楽坂さんは銃口を怪物へと向ける。

 怪物は己の危機を察したのか、咆哮とともに神楽坂さんの方へと飛んだ。

 しかし――、

「……ごめんね」

 ダァァァァァン! と銃声が轟く。

 空気が揺れ、地面が振動したかのような錯覚に囚われた。

「……し、死んだんですか?」

「おそらく。だが、油断は禁物だよ」

「ああ、わかってらぁ……しかし、ずいぶんと悲劇的な話だ」

「いやいや、これは喜劇だよ。まごうことなき……ね?」

 神楽坂さんは目を細め、村長さんの方を見た。

 村長さんは答えに窮し、視線を逸らす。

「……まぁいい。さっさと社の中も調べて、上に報告させてもらう。最悪村人全員が逮捕されるが、仕方ねぇだろう」

「だね。さぁこっちだ」

 僕は神楽坂さんに手招きされて、社へと向かった。

 そこで、再び目を見開く。

「な、何ですか……これ……?」

「ふーむ、これは惨いねぇ」

 その一瞬だけ、平然と呟く神楽坂さんを、僕はどうしても同じ人類として見ることが出来なかった。

 なぜなら、僕達の目の前の光景に対する態度はまるっきり真逆だったからだ。

 焼けただれたような肌。両の目玉はなく、右足は途中で形成を断念したかのように中途半端に伸び、左足に至ってはそもそも骨が外に飛び出している。

 両腕は縫いつけられたようにくっつき、頭の上でただ僅かに揺れているだけだった。

 放たれる声は男とも女ともつかず、しわがれた老人のようでもあった。

 たぶん妊娠しているのだろう。大きく膨らんだお腹は不規則な脈動をしていて。

 まさに、これからお産が始まろうとしていた。

「……何だよ、これ……これが、人間の、やること……?」

 人の作りし化物。歴史が生んだ異形の汚物。

 そう呼ぶに相応しいほどに、彼女の見た目は醜悪だった。

「……そうだ、これが人間が創造した過ちだ」

 神楽坂さんの声がいつになく真剣だった。

 あるいは悼んでいたのかもしれない。こんな呪いを追わされた、この兄弟を。

 そして、

 

 痛みに耐えるように、

 

 一際大きな金切り声が、

 

 大気を揺らす……、


「ひ……ひぃぃ……!」

 

 お腹の中から出て来たのは、

 

 辛うじて人の形を保っているだけの、

 

 どろどろとした、

 

 何かだった――――。

 

 

「おええええええええええええええええ!」

 あまりの光景に、僕はその場で盛大に胃の中身をぶちまけた。

 最早、一体どんな液体で床がびしゃびしゃになってしまったのかさえ定かではない。

 僕の胃酸のせいか。

 それとも、彼女のお腹から出てきた、謎の液体のせいか。

 どちらにしても、僕としては一刻も早くこの惨状をどうにかしてほしかった。

「……何をしている、神楽坂」

 賢治さんの放ったその声は、責めるものでもなく。

 彼は僕達の横を通り過ぎて。

 痛みに喘ぐ彼女のすぐ傍らに立った。

「……今、その呪いから解放してやろう」

 刀を振り上げ、そして――、

 

 彼女の首を、切り落とした。

 

「あ、ああ……」

 背後から、村長さんの嘆く声が聞こえてくる。

 しかし、今の僕には一言すら、言葉を発する余裕なんてなかった。

 

 

              十一 

 

 

 僕と神楽坂さんの前で、依頼人の女性が深々と頭を下げた。

「感謝する! 私の友達を助けてくれて!」

「顔を上げて下さい。私達は当然のことをしたまでなのですから」

「それでも、私は……嬉しいんだ」

「それで、彼女のその後の容体は?」

「ああ……何か、精神的にとてもショックなことがあったらしくって。今その筋の専門的な病院に入院している。だが、どんな状態であろうと、あいつが無事でいてくれた。それだけで、私は……」

「お役に立てたのなら何よりです。それでその……大変言いにくいんですが、報酬の件で少し相談が……」

「ああ、そうだな。その話もしないとな」



「ふん、それで神楽坂。その女はもう帰ったのか?」

「まぁね。報償のつり上げ交渉にも簡単に応じてくれたし、助かったよ」

「そうか……それで、小僧の精神状態はどんなもんなんだ?」

「それで、そっちの小僧の方は……あまりよくないようだよ。ま、あれだけのものを見てしまったんだ。しばらくは調子も狂うものだよ」

「まぁね。それで、捜査の進捗状況はどんな感じ?」

「応えられん」

「ちぇー」

「さして興味もないくせによく言う。……ま、順調とだけ言っておこう」

「君は、あの非人道的な光景を見ても何ともないみたいだね」

「この仕事をしていれば、嫌でもそういう場面には出くわす。一々心を揺らしていては仕事にならんからな」

「あっそ」

「じゃあ俺はもう行く。……そこの小僧にもよろしく言っておいてくれ」

「はいはい、わかったよ」

 事務所から出て行く賢治さんを横目に見つつ、僕は再び、思案の深海へと沈んで行くのだった。

 僕達は正しかったのだろうか。昔の人は正しかったのだろうか。

 あの村の人達は、一体何を考え、何を思って暮らしていたのだろうか、と。


いかがでしたでしょうか? 凄惨を描こうと試みてみたのですが、みなさんの心に少しでも触れられたのなら幸いです。よろしければご意見、ご感想を聞かせてもらえるとありがたいです。

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