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王子教育物語3

 ルクレツィオは歩いていた。その足取りはとても軽い。スキップしているようにも見える。さて、王子は何処へ逃げたのか。歩きながら考える。焦っている様子ではまるでない。完全に余裕がある。


「カルバーニ殿!」


 呼ばれて振り返れば、先程の近衛兵。


「おやおや、こんにちは」

「こんにちは、じゃないですよ! 殿下は見つかったんですか?」

「いいえ?」

「いいえって、捜す気あるんですか!?」

「口調が少し砕けていますよ」

「あ……」


 ハッと口元を手で抑える。近衛兵をやるからには堅い口調を心得ているのだが、あまりにも焦り過ぎて口調が少々砕けてしまっていた。


「ふふふ、構いませんよ。捜す気はありますが、()はないだけです」

()は?」


 怪訝そうな顔をし、首を傾げる近衛兵を見てルクレツィオはクスリと笑みを浮かべる。


「獲物を捕まえるなら、標的の体力を削るのは当然の事でしょう?」


 爽やかに笑みを浮かべるルクレツィオだが、その笑みはどこかどす黒い。


「城への入口は全て閉じたのでしょう?」

「はい」

「なら、今頃アーサー様は焦っていらっしゃるでしょうね。逃走範囲を狭められてしまったのですから」


 ゆったりとした、何処か愉しげな口調。もっとも、彼の目はそれに反して笑っていない。


「そろそろ行くとしましょうか」


ルクレツィオはかの王子がいるであろう場所へ向かった。







 *  *  *  *




 アーサーは走っていた。否、逃げていた。新たにやって来た教師の男から。

 男はカルバーニ殿と呼ばれていた。新たな教師としてアーサーの元にやって来たらしい。丸眼鏡をかけた、女みたいな顔をした男だった。

 新しい教師はアーサーの知っている教師達とは全てが異なっていた。今までやって来た教師は皆、彼を嫌っていた。問題ばかり起こし、王にはあまり目を向けられない王子なんぞ、教育を施そうがなんのメリットも無いからだ。誰もアーサーと目を合わそうとしない。ましてや、陰で彼を嘲笑い合うのが常であった。

 先日、教師を辞めた男の顔が清々しいものだったのを彼は覚えている。厄介事から免れる事が出来たのだ。それはそれは喜ばしい事であろう。

 そんな表情も今まで幾度と見てきたアーサーはとっくの昔に諦めていた。自分を見てくれる者など何処にもいないと。

 彼はいつも独りだった。誰も見てくれなかった。だが、悪い事をすれば、自分は誰かの視界に入る事ができる。但し、嫌悪の視線に晒されて。それでも、悪事を働いた。


 そうする事しかできなかった。そうする事でしか、誰にも見てもらえなかった。


 下女達が洗ったばかりの洗濯物を汚したり、第二王子に出されるおやつを芋虫と入れ替えたり、庭師の手入れする庭園をめちゃくちゃに荒らしたり、紅茶を運ぶ侍女の足を引っ掛けて転かしたり、追いかける近衛兵から逃げ回ったり。全てあげると切りが無い。


 そして、悪事を働けば働くほど人々は遠ざかる。それでも誰かに見てもらいたい彼は、また悪さをする。

 救いようのない悪循環。アーサーには、これを止める術などありはしなかった。


 そんな時、現れたのがあの男、ルクレツィオだった。寝台の端に座り、ボーッと床を見ていたアーサーはルクレツィオがやって来た時、即座に警戒心を抱いた。

 こいつもあいつらと同じだ。あいつらと同じで、自分を見下している。睨みつけながら、新しい教師に近付く。

 今まで訪れた、どんな教師よりも地味な男だった。真っ黒な長髪を一括りに下ろし、丸眼鏡をかけた女顔の男。男はにこにこと笑っていた。笑っているが、内心ではどうせ自分をバカにしているに違いない。彼は警戒心を更に強めた。


 そんなアーサーに対し、ルクレツィオは予想外の事をした。なんと、目の前に来たアーサーと視線が合わさるよう、しゃがみ込んだのだ。信じられなかった。予想外の出来事はそれだけには留まらなかった。


『気軽にルークと呼んで下さいね、アーサー様』


 自己紹介をした後、彼は自分をあだ名で呼んでくれと言い、アーサーを名前で呼んだ。そんな事をしてくれた奴は一人もいなかった。

 だから、アーサーはパニックに陥った。予想外過ぎて、どうしていいかわからなくなった。

 そして、彼はやってしまった。


 パァン!


 ルクレツィオの頬を引っ叩いてしまったのだ。引っ叩かれた当のルクレツィオは動かなかった。

 アーサーは途端に怖くなった。せっかく、今までとは違う、彼を見てくれる人に出会えたかもしれなかったのに。今の行動で、嫌われてしまったかもしれない。

 終わったな。そう確信したアーサーは逃げ出してしまった。結局、自分は誰からも嫌われるしかないらしい。死んでしまいたい程に悲しかった。

 一応義務として、ルクレツィオはそばにいた近衛兵共々追いかけてくるだろう。けれど、会わす顔がないアーサーは逃げるしかなかった。

 城へ逃げ込もうとしたアーサーは驚く。城のどの入口にもたくさんの近衛兵がいた。まるでアーサーの逃げ道を塞ぐように。いや、塞いでいるのだろう。逃げる範囲を庭園のみに狭められたアーサーは庭園中を逃げ回った。

 何処に逃げようか。何処に隠れようか。アーサーには逃げるしか方法がなかった。


 どれくらい逃げただろうか。すっかり息が切れてしまっていた。こんなに疲れたのは初めてだ。


「見つけましたよ、アーサー様」


 突如、上から陰がかかり、見上げると、にこにこと朗らかな笑みを浮かべたルクレツィオがそこにいた。


「なんで……」

「捜したんですよ? さぁ、戻りましょう?」


 笑みを崩す事なく話しかけてくる彼に後退る。結局、アーサーはまた逃げてしまう。


 しかしだ。逃げる先には必ずルクレツィオが現れた。


「見つけましたよ、アーサー様」


 先程と同じ笑み、同じ台詞を吐いて登場したルクレツィオ。こっちはあんなに走って逃げたというのに、あの男は息切れ一つしていない。


「な……んで……」

「さて、戻りましょうか」


 こちらに伸ばされたその手を払い除け、アーサーはまた逃走する。逃げたその背後で、ルクレツィオが言った恐ろしい呟きも聞こえずに。


「おやおや、まだ逃げますか。まぁ、いいでしょう。鬼ごっこは得意なんですよ、私」


 追いかけるのは得意中の得意ですからね。そう呟くルクレツィオは再び王子を捜しに出た。



 アーサーは逃げていた。逃げて逃げて逃げていた。理由はルクレツィオに恐れを抱いたからだ。先程の過ちからの恐れではない。本能的な恐怖だ。

 あの後、ルクレツィオはアーサーの目の前に何度も現れた。


 「見つけましたよ、アーサー様」と、現れる度に何度も同じ台詞、同じ表情をしながら。

 何処に行こうと現れるルクレツィオ。城には逃げ込めない、外にも逃げ出せない。

そうなると、必然的に庭園のみが逃走する範囲となる。

 これはもう、完全に手のひらで踊らされているのだろう。逃げられない。アーサーはやけくそになってきていた。

 大きな噴水の所に着いた時、案の定ルクレツィオは目の前に現れた。表情も台詞も全く変わらない。


「見つけましたよ、アーサー様」


戻りましょうか? にこやかな笑みを讃えたルクレツィオはアーサーに手を差し出す。


「うるさい!!」

「ちょっ……」


 やけくそ気味なアーサーは彼の手を押し退けると、あろうことか、ルクレツィオを噴水に突き飛ばしてしまった。突き飛ばされたルクレツィオはそのまま噴水の中に落ちる。水が気管に入ってしまい、噎せる。


「……ゲホッ、ゲホッ!」

「あぅ……」


 丸眼鏡は噴水の中に落ちていた。

 また、やってしまった。アーサーは弛んだ涙腺を抑え込み、流れ出そうになる涙を耐えた。


「ふぅ……」


 噴水に沈む丸眼鏡を拾い、噴水から出る。丸眼鏡の具合を確かめると、それをかけてアーサーを見た。俯いて黙り込むアーサーの視線に合うように、ルクレツィオは屈んだ。


「アーサー様、散々走り回って疲れたでしょう? そろそろ、昼食の時間のはずです」


 「帰りましょう?」、そう言って、微笑む。突き飛ばされた事などなかったかのように。


 どうして、責めないんだろう。どうして、嫌悪に満ちた目で見ないんだろう。分からない。アーサーの目から、勝手に雫が零れ落ちる。


「あ……あぁ……」


 一度涙が出てしまえば、止まる事はなく。次々と零れ出た。


「なんで……とまらな……」


 どんなに目を擦っても止まらない。目を抑えて、涙を止めようとするアーサーの頭に手を置いた。


「いいんですよ、泣いても」


 ルクレツィオの手が、優しく頭を撫でる。


「今まで一度も泣かなかったんでしょう? だから、ずっと溜め込んできた分、泣いて下さい。泣いて、スッキリして下さい」


 「ね?」と、頭を撫で続けるその手が嬉しくて。抑え込んでいた全てが決壊した。


「うぁ……うああああああ!!」


 ルクレツィオの胸に飛び込んで、泣き叫んだ。ずっと、こうして誰かに縋りつきたかった。でも、誰もいなかった。いなかったから、抑えていた。物心つく前から、泣いた事など一度もなかった。

 濡れた服が気持ち悪い。けれど、縋りつく事はやめなかった。初めて気を許す相手が出来たのだ。離したくなかった。


「ヒッ……ク……うぅ……」


 散々走り回って、散々泣いたせいか、急に眠気を感じた。身体と、特に瞼が重い。


「たくさん走りましたね。とても疲れたはずです。眠たいなら、眠っていいんですよ」


 撫でる手が酷く心地よい。


「おやすみなさい、アーサー様」


 その言葉を最後に、アーサーは夢の中へと囚われた。









 *  *  *  *





「カルバーニ殿!」


 眠る王子を抱いて、離宮に向かっていたルクレツィオは呼ばれて立ち止まる。


「おやおや」


 走って来た近衛兵は膝に手を置き、息を切らせる。


「何呑気に歩いて……って、殿下!?」


 ルクレツィオの腕の中には心地よさそうに眠るアーサーがいた。


「眠ってる…」

「どうやら、遊び疲れたようでして。眠ってしまったようです」


 すやすやと眠るアーサー。初めて見るあどけない表情に近衛兵は目を丸くした。信じられない。あの悪童を捕まえただなんて。


「って、カルバーニ殿、びしょ濡れじゃないですか!!」

「今更気付いたんですか?」


 ケラケラと愉快げに笑うルクレツィオを見て、本当に今更だと少し落ち込む。よく周りからお前は鈍いと言われるが、ここまでだったとは。


「離宮に私の荷物は運ばれているでしょうから、王子を部屋にお連れした後、着替えます。流石に私も疲れたので、休みたいですし」

「分かりました」


 その後、二人を離宮に送り届けた近衛兵は「陛下にご報告させて頂きます」と王城に向かった。王子を寝台に寝かせた後、ルクレツィオは与えられた個室でずぶ濡れの服を着替える。


「さて、明日から勉強の時間ですね、アーサー様。今日は散々遊んだんですから、明日は一日中机に向かって頂きますよ」


 ふふっ、とルクレツィオの笑みはやはり腹黒かった。






 第一王子アーサー。彼は後に英雄王として、歴史書にその名を刻まれる事になる。後世の人々に英雄として親しまれ、数々の伝記や物語を作られ、語り伝えられた。

 歴史家は英雄王アーサーの敬愛する恩師、ルクレツィオ・カルバーニの事も、アーサーの日記から調べ上げたが、残念な事にルクレツィオに関する情報は何一つなかったという。




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