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「君には心がない」と婚約破棄されましたが、私が去った途端に王国の結界が崩壊し始めたようです。今更戻ってほしいと言われましても、隣国の王子様に『至宝』として迎えられることになりましたので

作者: uta
掲載日:2026/06/25

「君には心がない。湖のように冷たく、何も映さない」


霧の立ち込める早朝、王太子エドワードの声が湖畔の別荘に響いた。


……ああ、ようやくこの日が来ましたのね。


私――リディアーヌ・クレールモンは、その言葉を静かに受け止める。三年間、この方の我儘に付き合い続けた結末が、これ。


傍らには、蜂蜜色の巻き毛を揺らして涙ぐむ男爵令嬢セレーナ・ベルフォール。潤んだ琥珀色の瞳で王太子殿下を見上げる姿は、さぞかし「儚げで可憐」に見えることでしょう。


「エドワード様、私のせいでリディアーヌ様が……っ」


「君のせいではないよ、セレーナ。悪いのは心を持たない彼女だ」


(三年間、この別荘の管理から社交界の根回しまで、全て私がこなしてきたことはお忘れのようですわね)


毎月届く請求書の処理。貴族たちへの根回し。殿下が気まぐれで開く晩餐会の準備。それらを「当然のこと」として享受してきた方が、私を「冷たい」と仰る。


笑ってしまいそうになるのを、私は長年の訓練で抑え込んだ。


「リディアーヌ、何か言うことはないのか」


殿下が眉を顰める。きっと泣いて縋りつくことを期待していたのでしょう。あるいは激昂して醜態を晒すか。


残念ながら、私はそのどちらでもございません。


「……左様でございますか」


私は深く一礼した。完璧な角度で。侯爵令嬢として恥じることのない、優雅な所作で。


「では、お言葉に甘えて」


「……は?」


殿下の碧眼が見開かれる。その隣でセレーナも固まっていた。


(何を驚いていらっしゃるのかしら。婚約破棄を告げたのは殿下ですのに)


「あ、甘えて、とは……」


「ご婚約を解消していただけるとのこと、謹んでお受けいたします。三年間、お世話になりました」


私は再び一礼する。今度は別れの礼として。


「ま、待て。そんなにあっさり……」


「あっさり?」


首を傾げてみせる。


「殿下のご決断に異を唱えるなど、身の程知らずでございましょう。それに――」


私は視線を湖へと向けた。霧の中、神秘的な光を湛える湖面。私だけが知る、この場所の真の価値。


「――私は確かに冷たい湖のような女でございますから。温かなセレーナ様のほうが、殿下にはお似合いですわ」


(この別荘の所有権が我がクレールモン家にあること、殿下はご存知ないのでしょうね)


(そして湖の底に眠る聖遺物のことも。王国の結界を私が維持していることも)


何も知らない。何も見ていない。


「湖のように冷たく、何も映さない」のは、果たしてどちらでしょうか。


「では、失礼いたします。マリアンヌ、荷造りの準備を」


「かしこまりました、お嬢様」


控えていた侍女が音もなく現れる。その表情は変わらないが、目の奥には「ようやく」という安堵が見えた。


「ま、待てリディアーヌ!」


背後から殿下の声が追いかけてくる。


けれど私は振り返らなかった。


(さようなら、殿下。あなたが失ったものの大きさに気づく頃には、全てが手遅れになっているでしょう)


湖が微かに揺れた気がした。まるで、私の決断を祝福するように。




       ◇ ◇ ◇




その夜、私は密かに湖畔へと向かった。


「お嬢様、本当によろしいのですか」


マリアンヌが心配そうに問いかける。私は小さく頷いた。


「最後のご挨拶をしておかなければ。……あの方は、母様の代から私たちと共にいてくださったのですもの」


月明かりの下、湖面は鏡のように静まり返っている。私は裸足で水際に立ち、幼い頃から繰り返してきた祈りの言葉を紡ぐ。


冷たい水が足首を濡らす。けれど不思議と、その冷たさは心地よかった。


『来たか、我が巫女よ』


風のささやきのような声が、私の心に直接響いた。湖の精霊――名を持たぬ、古き存在。


「お久しゅうございます。……いえ、毎晩お会いしておりますけれど」


『今宵は別れの挨拶か』


「ええ。王太子殿下との婚約が解消されましたの。ですから、この別荘を去らねばなりません」


水面が微かに波立つ。精霊の感情が揺れているのがわかる。


『あの愚かな人間の子か。汝の価値も知らず、汝を遠ざけるとは』


「仕方のないことですわ」


私は苦笑した。三年間、誰にも知られず結界を維持してきた。毎夜の祈り。精霊への捧げ物。それは全て、王国を守るため。


母が遺した使命。「湖の巫女」としての責務。


幼い頃、母は言っていた。


『いつか、あなたの価値をわかってくれる人が現れるわ。それまで、静かに待ちなさい』


けれど母様、三年待っても、殿下は何もわかってくださいませんでしたわ。


『我は汝と共にある。汝が望むなら、あの者に相応の報いを与えることもできる』


「いいえ、結構ですわ」


私は首を横に振った。


「因果応報は、自然と訪れるものですから。私が手を下すまでもございません」


精霊が満足げに笑った気配がした。


『やはり汝は、母によく似ている』


その時だった。


背後で微かな気配がした。


私は咄嗟に振り返る。月光の中、一人の男性が立っていた。漆黒の髪に、翡翠色の瞳。精悍な顔立ちは、どこかの武人を思わせる。


「……アレクシス殿下」


隣国ヴェルトハイムの第二王子。外交の名目で別荘に滞在している方だ。


(いつからそこに……?)


「失礼、夜の散歩をしていたら、美しい光景に出くわしてね」


彼は悪びれもせずに言った。その視線は私ではなく、湖に向けられている。


「見事なものだ。湖の巫女の伝説は、我が国にも伝わっている。まさか実在するとは思わなかったが」


(この方……見ていらしたのですね。私の祈りを)


「何のことでしょうか。私はただ、湖を眺めていただけですわ」


「そうか」


アレクシス殿下は深追いしなかった。ただ、口元にかすかな笑みを浮かべて。


「今朝の婚約破棄の件、聞いている。――なんと愚かな、と思ったよ」


「まあ。他国の王子様が、そのようなことを仰っては」


「事実を述べたまでだ」


殿下は肩をすくめた。


「至宝を前にして、その価値に気づかない。それを愚かと言わずして何と言う」


私は返答に窮した。


(この方は……何者なのかしら)


三年間、数多の貴族と接してきた。社交辞令の裏にある打算。甘言に隠された欲望。それらを見抜くことには慣れている。


けれどこの方の言葉には、そういったものが感じられなかった。


「覚えておくといい、リディアーヌ嬢」


アレクシス殿下は背を向けながら言った。


「我が国では、湖の巫女は王妃にのみ許される称号だ。その意味を、いずれ知ることになるだろう」


月明かりの中、殿下の姿が闘に消えていく。


私は湖を見つめた。水面には、月と星と、そして私自身が映っている。


『面白い人間だ、あの者は』


精霊がくすくすと笑う。


『汝の価値がわかる者も、いるようだな』


「……さあ、どうでしょう」


私は曖昧に答えた。けれど心のどこかで、小さな灯が点ったような気がした。




       ◇ ◇ ◇




婚約破棄から一週間が経った。


私は別荘を去る準備を整え、父上に報告の手紙を送った。返信は簡潔だった。


『よくぞ耐えた。家に戻れ。湖は貸し出せても、譲り渡すことはない。我が娘も同様だ』


(父上……)


手紙を胸に抱きしめる。厳格な父は、きっと最初からこうなることを予見していたのだろう。


「お嬢様、荷造りが完了いたしました」


「ありがとう、マリアンヌ。では――」


その時だった。


窓の外で、湖が咆哮した。


「なっ……!?」


常に穏やかだった湖面が、まるで嵐の海のように荒れ狂っている。白い波頭が立ち、霧が渦を巻く。


『巫女よ、汝は去るのか』


精霊の声が響く。けれどそれは、いつもの穏やかな声ではなかった。怒りと悲しみが入り混じった、激しい感情。


『汝を軽んじた者たちに、我は寛容ではない』


「待って、お願い。罪のない人々まで巻き込まないで」


『我は契約に従うのみ。巫女なき地に、加護はない』


私は唇を噛んだ。これが精霊の怒りなのだ。契約者である私を追い出した者たちへの、静かな報復。


廊下を走る足音が聞こえた。


「リディアーヌ!」


扉が乱暴に開かれる。現れたのはエドワード殿下。その顔は蒼白で、目の下には深い隈ができていた。髪も乱れ、王太子らしい威厳など微塵も感じられない。


「何をした、何をしたんだお前は!」


「……何のことでしょうか、殿下」


私は首を傾げてみせる。


「湖が荒れている! セレーナは毎晩悪夢にうなされている! 私も……私も、まともに眠れないんだ!」


(ああ、やはり)


予想通りの展開だった。結界は周囲の人間の精神をも守護していた。私がいなくなれば、その加護も失われる。


清浄な空気。穏やかな眠り。澄んだ思考力。それらは全て、湖の恩恵だった。


「別荘を出るな。今すぐこの異変を止めろ」


「お言葉ですが、殿下」


私は静かに微笑んだ。


「私は『冷たい湖』でございましょう? 温かなセレーナ様にお任せしてはいかがでしょうか」


「ふざけるな!」


殿下が私の腕を掴もうとする。その瞬間――


「失礼」


横から伸びた手が、殿下の腕を止めた。


アレクシス殿下だった。


「他国の貴婦人に、乱暴はいただけないな。エドワード殿下」


「貴様……!」


「それに、令嬢に責任を押し付けるのは筋違いだ。婚約を破棄したのは、あなたの方だろう」


低いが、よく通る声。エドワード殿下の顔が怒りで紅潮する。


「これは我が国の問題だ。他国の者が口を挟むな!」


「そうか。では私は、私の国の立場から申し上げよう」


アレクシス殿下は私を背に庇いながら言った。その背中は広く、頼もしかった。


「湖の巫女を、我が国は至宝として遇する用意がある。リディアーヌ嬢、我が国への移住を検討していただけないだろうか」


(え……?)


私は目を見開いた。


「先ほども申し上げたが、我が国では湖の巫女は王妃にのみ許される称号だ。つまり――」


翡翠色の瞳が、まっすぐに私を見つめる。その眼差しには、エドワード殿下のものとは全く異なる、深い真摯さがあった。


「これは、求婚だ」


湖が、微かに凪いだ気がした。




       ◇ ◇ ◇




「求婚……ですって……!?」


甲高い悲鳴が響いた。セレーナだ。いつの間に来ていたのか、蒼白な顔で立ち尽くしている。


目の下には隈ができ、いつもの「儚げな美少女」の面影はない。悪夢に苛まれた跡が、ありありと見て取れた。


「そんな、そんなことって……! エドワード様、あの女を行かせてはなりません!」


「セレーナ……」


「私のせいで王国が傾くなんて言われたら、私、私……!」


ああ、やはりそれが本音なのですね。「リディアーヌ様が可哀想」ではなく、「自分が責められたくない」。


(純粋無垢な少女、の皮が剥がれてまいりましたわね)


「リディアーヌ、戻ってこい。命令だ」


エドワード殿下が言った。その声には、先ほどまでの傲慢さは消え、焦りが滲んでいる。


「お言葉ですが、殿下」


私は静かに答えた。


「婚約はすでに解消されております。私に命令する権限は、もうございませんわ」


「なっ……」


「それに、この別荘の所有権はクレールモン家にございます。王家に『貸与』しているだけですの。お忘れでしたか?」


殿下の顔から血の気が引いていく。そう、ここは王家の所有地ではない。三年間、当然のように使っていたこの場所は、全て私の実家のものだった。


「で、でも、結界は……国のためでしょう!?」


セレーナが叫ぶ。


「ええ、そうですわね」


私は微笑んだ。


「三年間、毎晩、誰にも知られず祈りを捧げてまいりました。殿下が晩餐会を楽しんでいらっしゃる間も。セレーナ様と語らっていらっしゃる間も。ずっと」


「そんな……聞いてない……」


「言っても信じなかったでしょう? 『古臭い迷信』と仰っていましたものね」


私は殿下を見据えた。碧眼が揺れている。ようやく、自分が何を失ったのか理解し始めたのだろう。


「頼む、リディアーヌ。戻ってくれ。何でもする」


「何でも?」


「ああ。セレーナとの関係も……考え直す。だから……」


「エドワード様!?」


セレーナが悲鳴を上げる。けれど殿下はもう彼女を見ていなかった。


(今更、ですか)


私は小さく息を吐いた。


「殿下。三年間、私は49回の無理難題に付き合いました。67回の晩餐会を準備し、128通の社交辞令の手紙を代筆いたしました」


「そ、そんなに……」


「ええ。そして、1度も『ありがとう』とは言われませんでしたわ」


殿下が言葉を失う。


「私は確かに冷たい湖でございます。けれど、湖は全てを映すもの。殿下の本質も、とうに映しておりましたの」


私はアレクシス殿下の方を向いた。


「お申し出、ありがたく頂戴いたします。ただし、結界の応急処置だけは施させてください。罪のない民まで巻き込むわけにはまいりませんから」


「君の慈悲深さには頭が下がる」


アレクシス殿下が柔らかく微笑んだ。


「我が国で、思う存分その力を発揮してほしい。君を『至宝』として迎える準備は整っている」


背後で、セレーナの泣き叫ぶ声が聞こえた。


「私がいるのに! 私がいるのに、なぜあの女なの!?」


その声はもう、「儚げな少女」のものではなかった。金切り声で喚き、足を踏み鳴らす姿は、まるで駄々をこねる幼児のよう。


(ああ、醜いですわね)


私は振り返らなかった。振り返る価値もない。


「マリアンヌ、参りましょう」


「かしこまりました、お嬢様」


湖が静かに凪いでいく。精霊が私の決断を見守っているのがわかる。


『よい選択だ、我が巫女よ』


その声は、どこか嬉しそうだった。




       ◇ ◇ ◇




応急処置を施してから三日後、私は隣国ヴェルトハイムへと旅立った。


応急処置と言っても、あくまで「応急」。完全な結界の維持には、巫女の継続的な祈りが必要だ。私がいなくなれば、いずれまた綻びが生じる。


けれど、それは私の問題ではない。


「お嬢様、お加減はいかがですか」


「ええ、大丈夫よ、マリアンヌ」


馬車の窓から、遠ざかっていく王都を眺める。すでに街には不穏な噂が広がっているという。『湖畔の令嬢を追い出したから、結界が弱まった』と。


「お嬢様」


アレクシス殿下が馬車に並走しながら声をかけてきた。護衛を兼ねて、自ら馬を駆っているのだ。


「間もなく国境だ。我が国では、君を歓迎する準備が整っている」


「ありがとうございます、殿下」


「アレクシス、と呼んでほしい。君は将来の王妃なのだから」


(将来の……王妃)


不思議な響きだった。三年間、王太子妃になるはずだった。けれどそれは義務であり、重荷でしかなかった。


誰にも感謝されず、誰にも認められず、ただ黙々と務めを果たす日々。


「……アレクシス様」


「ああ」


「なぜ、私を選んでくださったのですか。政略だけではないと、仰いましたね」


翡翠色の瞳が、私を見つめる。


「あの夜、湖で祈る君を見た」


「……」


「誰にも知られず、誰にも感謝されず、それでも王国のために祈り続ける姿を。――美しいと思った」


私は目を伏せた。


「それだけ、ですの?」


「いいや」


アレクシス様が、微かに笑った。


「実は私にも、精霊の声が聞こえるんだ。微かにだが」


「え……」


「我が国に伝わる伝説では、湖の巫女と対になる存在がいる。巫女の力を支え、共に結界を守る者だ」


「それが、アレクシス様……」


「確証はなかった。だが、君と出会って確信した」


窓の外、国境の湖が見えてきた。あちらの王国とは違う、新しい湖。けれど水面は同じように澄んでいる。


「君を迎えることで、我が国の結界も強化される。政略としては完璧だ。――だが」


馬車が止まった。アレクシス様が扉を開け、私に手を差し出す。


「君自身に惹かれたのも、偽りではない。冷たい湖、と言われていたそうだな」


「ええ」


「私には、そうは見えない」


湖畔に降り立つ。水面が金色に輝いている。


「湖は確かに冷たい。だが、全てを映し、全てを浄化する。その価値を、私は知っている」


私は湖を見つめた。水面には、隣に立つアレクシス様と、そして私自身が映っている。


『我が新たな巫女よ、ようこそ』


新しい精霊の声が響いた。あちらの精霊とは違う、若々しく力強い声。


『汝を待っていた。汝の価値を知る者と共に、この地を守ってくれ』


「……はい」


私は微笑んだ。今度は、作り物ではない笑みで。


「喜んで」




       ◇ ◇ ◇




後日談は、マリアンヌから聞いた。


結界の弱体化により、王都では原因不明の病が流行したこと。瘴気が漏れ出し、人々は体調を崩し、判断力は鈍り、些細なことで争いが起きるようになったこと。


貴族たちが「湖畔の令嬢を追い出したせいだ」と噂し始めたこと。


エドワード殿下が「愚王」と囁かれるようになったこと。


そしてセレーナが「王国を傾けた女」として、社交界から排斥されたこと。


「因果応報、ですわね」


私は新しい別荘の窓辺で呟いた。こちらの湖は以前より美しく輝いている。精霊も、私を歓迎してくれている。


アレクシス様との婚約も、正式に発表された。こちらでは、湖の巫女は「至宝」として敬われている。三年間、当然のように使われていた力が、ここでは感謝と敬意をもって迎えられる。


(ああ、これが、正しい在り方なのですね)


「お嬢様」


マリアンヌが紅茶を運んできた。


「あちらの王国から、使者が参っているそうです。『どうか戻ってきてほしい』と」


「そう」


私は紅茶を一口飲んだ。芳醇な香りが口に広がる。


「お断りしてちょうだい。私はもう、あの国の者ではありませんもの」


「かしこまりました」


マリアンヌが去った後、私は湖を見つめた。


使者は何度も来た。エドワード殿下からの手紙も届いた。


『全ては私の過ちだった。戻ってきてくれれば、セレーナとは縁を切る。王妃の座も約束する』


(今更、ですわね)


手紙は読まずに燃やした。


「湖は確かに冷たいもの」


静かに呟く。


「でも、全てを映し、全てを浄化する。その価値がわからない方には――」


水面が微かに揺れた。まるで、精霊が笑っているように。


「――相応の報いがあるだけですわ」




       ◇ ◇ ◇




数年後。


私はヴェルトハイム王国の王妃となっていた。


アレクシス様は第二王子だったが、兄王子が病で急逝し、王位を継ぐことになったのだ。私は「湖の巫女」として、そして王妃として、この国を支えている。


「お母様、お話を聞かせて」


膝の上で、幼い娘がせがむ。銀青色の髪と翡翠色の瞳を持つ、愛らしい子。


「どんなお話がいい?」


「湖のお話! お母様が湖の精霊様とお話しするお話!」


「そうね……」


私は微笑んだ。


「昔々、ある国に、湖の巫女がおりました。彼女は毎晩、誰にも知られず、湖に祈りを捧げていました」


「誰も知らなかったの?」


「ええ。誰も、彼女の価値に気づかなかったの。ある日、愚かな王子が彼女に言いました。『君には心がない。湖のように冷たく、何も映さない』と」


「ひどい!」


娘が頬を膨らませる。


「そうね、ひどいわね。でも、巫女は怒らなかったの。静かに微笑んで、こう言ったの。『左様でございますか。では、お言葉に甘えて』」


「それで?」


「巫女がいなくなった後、王国は荒れ果てました。結界は弱まり、病が流行り、人々は苦しみました。愚かな王子は『愚王』と呼ばれるようになったの」


「いい気味!」


「……お母様が、そう言ったみたいに言わないの」


くすくすと笑う。


「でも、巫女は幸せになったの。彼女の価値を知る、賢い王子様に出会えたから」


「それがお父様でしょう?」


「さあ、どうかしら」


娘を抱き上げ、窓辺へ向かう。湖が夕日に照らされて、黄金色に輝いている。


「お母様、湖って冷たいの?」


「ええ、冷たいわ。でもね」


私は娘の髪を撫でた。


「冷たいからこそ、全てを映せるの。全てを浄化できるの。それは、とても大切なことなのよ」


「ふうん」


娘は小首を傾げて、湖を見つめている。


『我が巫女よ、幸福そうだな』


精霊の声が、風に乗って届いた。


『汝の娘も、いずれ我と契約を結ぶだろう。楽しみにしている』


「ええ」


私は微笑んだ。


「私も、楽しみにしておりますわ」




歴史書には、こう記されている。


『かの王は「湖を失った愚王」と呼ばれ、その治世は混乱に満ちたものとなった。結界の弱体化により国力は衰え、やがて属国へと転落した。一方、隣国へ嫁いだ「湖の巫女」は賢王の妻として国を支え、両国の結界はかつてないほど強固なものとなった。彼女の血統は代々「湖の巫女」を輩出し、王国の守護者として讃えられている』


私、リディアーヌ・ヴェルトハイムは、この記述を読むたびに微笑んでしまう。


湖は全てを映す。


人の本質も、その行く末も。


私はただ、湖であり続けただけ。冷たく、静かに、全てを見つめながら。


――そして最後に笑ったのは、湖の方だったのだ。




【完】

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