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日陰の令嬢は、学園の片隅で秘密の温室を育てる。

作者: 紅茶
掲載日:2026/04/24

 王立アカデミーの春は、むせ返るような香水の匂いと、意味のない愛想笑いで満ちている。


 ここは、この国に生きる貴族の子弟たちが、十五歳から三年間を過ごす学び舎だ。表向きは魔法や歴史、政治を学ぶための教育機関だが、その本質は「将来の派閥作り」と「優秀な伴侶探し」の場である。


 だからこそ、廊下ですれ違う令嬢たちのドレスは日ごとに華やかになり、令息たちは少しでも自分の魔法の才能を誇示しようと、中庭で無駄に派手な魔法を撃ち合っている。


 私は、その喧騒から逃れるように、廊下の端をうつむき加減で歩いていた。


 オーウェル男爵家の次女、リネット・オーウェル。それが私の名前だ。


 今年でアカデミーの二年生になったが、私の立ち位置は入学当初から何一つ変わっていない。


 くすんだ赤茶色のくせ毛に、地味なヘーゼル色の瞳。鼻の頭にはそばかすがあり、魔法の才能は「指先に小さな種火を灯せる」程度の微弱な火属性のみ。


 何より、私は極度の口下手だった。


「ごきげんよう、リネットさん。今日の午後のサロン、いかがなさる?」


「あ、えっと……その……」


「……あら、お忙しいのね。ごきげんよう」


 同級生から声をかけられても、どう返せば正解なのかを頭の中でぐるぐると考えすぎてしまい、結局何も言えずに相手を呆れさせてしまう。


 そんなことを繰り返すうちに、私に話しかけてくる者はすっかりいなくなった。


 私の姉、セリア・オーウェルは、私とは正反対だった。


 輝くような金髪に青い瞳を持ち、高度な水魔法を操る彼女は、三年生になった今でも学園の注目の的だ。常に人の輪の中心にいて、鈴を転がすような笑い声を響かせている。


 姉の妹であるというだけで、最初は私にも期待の目が向けられたが、すぐに「あれはオーウェル家の出来損ないだ」と見切りをつけられた。


 悲しくはなかった。


 華やかな鳥籠のようなこの学園の人間関係は、私には息苦しすぎる。誰の視線も気にせず、ただ息を潜めていられる「壁の花」のポジションは、案外悪くなかった。


 午後の自由時間。


 私は足早に本校舎を抜け、広大な敷地の裏手へと向かった。


 綺麗に手入れされた薔薇園や、噴水のある中庭を通り過ぎ、誰も寄り付かない「旧実習林」と呼ばれる鬱蒼とした森の小道を入る。


 十分ほど歩くと、木々の隙間から、太陽の光を反射してきらりと光るものが見えてくる。


 それは、巨大な半円形のドームだった。


 かつては魔法植物の栽培実習に使われていたらしい『旧大温室』。


 新しい実習棟が建てられてからは完全に放置され、ガラスの半分は割れ、外壁はびっしりと蔦に覆われている。生徒はおろか、教師すらここを訪れることはない。


 私がこの場所を見つけたのは、一年生の春、学園の空気に耐えきれずに逃げ回っていた時のことだ。


 初めてここへ足を踏み入れた時、私はひどく安心したのを覚えている。


 埃とカビの匂い。誰からも期待されず、ただ静かに朽ちていくのを待っているだけの空間。それは、実家の裏庭にあった古い温室と、そして何より、私自身にとてもよく似ていたからだ。


 私は錆びついて軋む鉄の扉を押し開け、中に入った。


「ふう……」


 一歩踏み込んだ瞬間、空気が変わる。


 湿気を帯びた土の匂いと、かすかな青臭い植物の香り。


 私は周囲を見回し、誰にも見られていないことを確認すると、堅苦しい制服のジャケットを脱いでベンチに置き、袖をまくり上げた。


 この一年間、私は誰にも内緒で、この温室を少しずつ手入れしてきた。


 割れたガラスの破片を掃き集め、枯れた雑草を引き抜き、実家の偏屈な老庭師・トーマスに手紙を書いて教わった知識を頼りに、土を耕した。


 今、温室の半分ほどには、私が持ち込んだ様々な植物が育っている。


 華やかな観賞用の花はない。あるのは、地味で、だけれど確かな効能を持つ薬草やハーブばかりだ。


「……今日は少し、土が乾いているわね」


 私は隅に置いてある古びたジョウロに、雨水桶から水を汲み、土の表面を確かめながらゆっくりと水を注いでいく。


 水が土に染み込む音。葉が微かに揺れる音。


 ここには、誰かの評価も、冷たい視線も、気の利いた言葉の応酬もない。


「苦ミントは、そろそろ間引きをしないと。星影草は……うん、順調ね」


 植物たちは、私が口下手でも、不器用でも、決して私を馬鹿にしない。


 私が土まみれになって世話をした分だけ、正直に応えてくれる。実家の小さな温室で学んだことを、私はこの学園でも一人でひっそりと続けていた。


 私にとって、この忘れられたガラスの城だけが、学園における唯一の「私の居場所」だった。





 ある日の放課後。


 その日は朝から雨が降っており、空はどんよりと重い鉛色をしていた。


 ポタポタと草の葉を弾く雨音が、個人的には心地よく喧騒に疲れた私の心を癒してくれる。


 私はいつものように旧大温室に籠り、収穫したハーブの仕分け作業をしていた。


 雨の日の温室は、屋根に当たる雨音が心地よいBGMになり、いつも以上に外界から隔絶されているような気がして好きだった。


 指先に微弱な火魔法を灯し、小さな魔道コンロでお湯を沸かす。


 神経を落ち着かせる効果のある『月光草』の乾燥葉を少しだけ急須に入れ、お茶を淹れる。立ち上る淡い湯気と、仄かに甘い香りを胸いっぱいに吸い込むと、学園の人間関係でカチカチに強張っていた肩の力がフッと抜けた。


(……美味しい)


 一人でカップに口をつけていた、その時だった。


 ――ギィィィ……。


 錆びた鉄の扉が、ゆっくりと開く音がした。


 私はビクッと肩を跳ねさせ、持っていたカップを落としそうになった。


(誰……!? こんな場所に、どうして?)


 教師に見つかれば、勝手に施設を使っていることを咎められるかもしれない。他の生徒に見つかれば、「オーウェル家の地味な次女が、ゴミ捨て場みたいな所で泥遊びをしている」と嘲笑われてしまう。


 私は慌ててコンロの火を消し、手近にあった大きな観葉植物(大きな葉を持つ『雨宿りの木』)の陰にしゃがみ込んで息を潜めた。


 足音が、ゆっくりと温室の中に入ってくる。


 カツン、カツンと、ヒールの高い靴の音だ。女性の生徒らしい。


「……っ、うぅ……」


 不意に、微かな声が聞こえた。


 それは、押し殺したような、すすり泣く声だった。


 私は葉の隙間から、そっと様子を窺った。


 そこに立っていたのは、見覚えのある令嬢だった。


 肩程の長さに切りそろえられた美しい銀色の髪。制服の胸元には、優秀な成績を収めた者だけが身につけられる『銀の百合』の徽章が光っている。


 クロエ・バーネット。


 歴史ある伯爵家の令嬢であり、私と同じ二年生。姉のセリアほど目立つタイプではないが、常に成績上位をキープし、誰に対しても礼儀正しく隙のない「優等生」として知られている人物だった。


 私のような壁の花とは、口をきいたこともないし、一生関わることのない雲の上の存在だ。


 そのクロエが今、誰もいない温室の真ん中で、顔を両手で覆い、肩を震わせて泣いていた。


「……もう、嫌……。どうして、私ばっかり……っ」


 ポツリとこぼれた言葉には、普段の彼女からは想像もつかないほどの疲弊と、ギリギリまで張り詰めた糸が切れそうなほどの痛みが滲んでいた。


 どうしよう。


 私はパニックになりそうだった。


 見てはいけないものを見てしまった。このまま彼女が泣き止んで出て行くまで、じっと息を潜めているのが一番正しい選択だ。私が声をかけたところで、うまく慰められるはずがないし、逆に彼女のプライドを傷つけてしまうかもしれない。


 そう思って、私はさらに体を小さく丸めた。


 しかし、その時、私の足元に置いてあった空の素焼き鉢に、肘がコツンと当たってしまった。


 カラカラ、と。


 静かな温室に、鉢が転がる音が響き渡った。


「……誰っ!?」


 クロエが弾かれたように顔を上げ、涙で濡れた瞳でこちらを鋭く睨みつけた。


 終わった。見つかった。


 私は観念して、おずおずと観葉植物の陰から立ち上がった。


「あ、あの……ごめんなさい、覗くつもりは、なくて……」


 私の顔を見たクロエは、一瞬だけポカンとした後、すぐにいつもの「隙のない伯爵令嬢」の仮面を被ろうとした。慌てて目元の涙を指先で拭い、背筋をピンと伸ばす。


「……オーウェルさんの、妹君ですね。奇遇ですわね、こんな寂れた場所で」


「は、はい……」


「今の……その、見苦しいところを、見せましたわ。忘れてくださいませ」


 クロエは冷たく言い放ち、踵を返して扉の方へ向かおうとした。


 しかし、その足取りはふらついていた。まるで、立っているのすらやっとというように。


 ――バタン!


「あっ!」


 クロエは数歩歩いたところで足をもつれさせ、そのまま濡れた土の地面に崩れ落ちてしまった。


 高価な制服のスカートが泥で汚れ、彼女は痛みに顔を歪めた。


「だ、大丈夫ですか!?」


 私は慌てて駆け寄り、彼女の肩に手を伸ばそうとした。


 しかし、クロエはその手をピシャリと払いのけた。


「……触らないで」


「えっ……」


「私に構わないで! あなたみたいな、何も背負っていない人には、私の気持ちなんて分からないわ!」


 ヒステリックな声が、雨音を切り裂いて響いた。


 クロエは泥だらけの地面に座り込んだまま、再び顔を覆って声を上げて泣き始めた。


 完璧な仮面が完全に剥がれ落ち、そこには、ただ限界まで追い詰められて迷子になった、一人の女の子がいるだけだった。


「何も背負っていない」


 その言葉は、確かに事実だ。私は親から期待されていないし、守るべき派閥もプライドもない。


 普段の私なら、ここで怖気づいて逃げ出していただろう。


 気の利いた慰めの言葉なんて、私の中には一つもない。どうして泣いているのか、どんな事情があるのか、聞き出すコミュニケーション能力なんて皆無だ。


 けれど。


 泥だらけになって震えている彼女の背中を見ていると、私は、実家の裏庭で初めて見つけた、枯れかけの植物の姿を思い出していた。


 あの時も、私はどうすればいいか分からなかった。でも、見捨てることはできなかった。


 私は、払いのけられた手をゆっくりと引っ込め、何も言わずに立ち上がった。


 クロエをそのままにして、温室の奥の作業台へと向かう。


 言葉で心を癒やす魔法は、私には使えない。


 私にあるのは、不器用な試行錯誤で書き溜めた、泥だらけのノートの知識だけだ。


 私は小さな魔道コンロに再び種火を灯した。


 棚から、先ほどとは違う茶葉の瓶を取り出す。


 ひどく昂った神経を優しく鎮める『白雪花』。それに、心を少しだけ上向きにする効果のある、柑橘系の香りがする『陽だまり草』をブレンドする。


 クロエは泣きすぎて喉が渇いているだろうから、温度は少し低めに。


 数分後。


 私は、淡い黄金色をしたお茶の入ったカップを二つお盆に乗せ、クロエの元へと戻った。


 彼女はまだ、膝を抱えて地面に座り込んでいた。


「あの……」


 私はクロエの隣、冷たい土の地面に直接、腰を下ろした。


 クロエが驚いたように顔を上げる。


「な、何をしているの? 制服が汚れるわよ」


「えっと……これ。お茶、です」


 私はお盆を二人の間に置き、カップの一つをクロエの方へそっと押しやった。


「……お茶?」


「はい。……白雪花と、陽だまり草の、ブレンド。……えっと、泣くと、喉が渇くから。それに、少し、落ち着く、はずだから」


 案の定、私はどもってしまい、情けないほど途切れ途切れの言葉になってしまった。


 クロエは怪訝そうな顔で、カップと私の顔を交互に見た。


「こんな所で淹れたお茶なんて、怪しくて飲めないわ」と言われるかもしれない。そう思って身構えた。


 けれど、柑橘系の爽やかで優しい香りが、彼女の鼻をくすぐったのだろう。


 クロエは躊躇いながらも、泥で汚れた手でゆっくりとカップを持ち上げ、恐る恐る口をつけた。


 ごくり、と小さく喉が鳴る。


「……」


 クロエの目が、少しだけ見開かれた。


 そして、「ふう……」と、胸の奥につっかえていた重い塊を吐き出すような、長くて深い息をついた。


「……何、これ。不思議な味。……でも、すごく、ホッとする」


「よかったです」


 私は自分の分のカップを両手で包み込みながら、小さく安堵の息を吐いた。


「……どうして」


 クロエが、ぽつりと呟いた。


「どうして、何も聞かないの? 私がこんな所で泥だらけになって泣いている理由とか、誰かにいじめられているのかとか……普通、聞くでしょう?」


「あ……えっと……」


 私はカップの縁を指でなぞりながら、視線を泳がせた。


「私、口下手だから。……うまく、話せないし。それに、クロエさんが、話したくないことは、話さなくていいと、思うから」


「……」


「ただ……ここは、誰も来ないから。泣きたい時は、泣いていい場所、だから。……それだけ、です」


 私が消え入りそうな声でそう言うと、クロエはじっと私を見つめた後、再びカップに口をつけた。


 今度は、ゆっくりと、味わうように。


 外では、春の冷たい雨が静かに降り続いている。


 旧大温室の中には、雨音と、私たちがお茶を飲む微かな音だけが響いていた。


 クロエが抱えている問題が何なのか、私には分からない。


 それを解決する力なんて、地味で取り柄のない私には絶対にない。


 けれど、一杯のお茶を飲んで、彼女の強張っていた肩の力が少しだけ抜けたのなら。


 それだけで、私がこの温室で泥だらけになってきた時間は、無駄じゃなかったのだと思えた。


「……ありがとう」


 空になったカップを置きながら、クロエが本当に小さな声で呟いた。


 私はうまく笑えなくて、ただコクリと一つだけ頷いた。


 華やかで息苦しい学園の片隅。


 忘れられたガラスの城で、私と彼女の、不器用で秘密のお茶会が始まった日だった。







 あの雨の放課後から、三日が過ぎた。


 学園は何事もなかったかのように、いつも通りの華やかな喧騒に包まれている。


 クロエ・バーネット伯爵令嬢もまた、廊下ですれ違うたびに、取り巻きの令嬢たちを引き連れ、背筋をピンと伸ばして完璧な微笑みを浮かべていた。


 私と目が合うことは一度もなかった。まるで、あの泣き顔を見せたことなど幻だったかのように。


(……当然よね。あんな所、誰にも見られたくないはずだもの)


 私は旧大温室で、少し伸びすぎた『苦ミント』の葉を間引きながら、小さく息を吐いた。


 私と彼女は、住む世界が違う。あの日のことは、泥のついた私の記憶の中にだけしまっておけばいい。


 そう思って、収穫した葉を籠に入れようとした時だった。


 ――ギィィ……。


 錆びた鉄の扉が、控えめな音を立てて開いた。


 振り返ると、そこに立っていたのは、銀色の髪を揺らすクロエだった。


「……」


「あ……」


 私たちは、数秒間、無言で見つめ合った。


 クロエは少し気まずそうに視線を逸らした後、コホンと小さく咳払いをして、いつもの「優等生」のトーンで口を開いた。


「勘違いしないでちょうだい。ただ、本校舎の図書室は人が多くて騒がしいから、静かに本が読める場所を探していただけよ。……ここなら、誰も来ないでしょうし」


「……はい」


 私は短く答え、それ以上は何も聞かなかった。


 クロエはホッとしたような顔をして、私がいつも座っているのとは反対側にある、古い木箱の上に持参したハンカチを敷き、そこに腰を下ろした。そして、分厚い魔導書を開く。


 私は黙って、魔道コンロに火を灯した。


 今日のお茶は、胃腸を整える効果がありつつも、少しだけ頭をすっきりさせる『青林檎草』と『白雪花』のブレンドだ。


 コトリ、と。


 クロエの横にある空の木箱の上に、温かいお茶の入ったカップを置く。


「……ありがとう」


 クロエは本から目を離さずに小さく呟き、カップを手に取った。


 一口飲むと、彼女の肩からスッと力が抜けるのが分かった。それだけで、私は十分だった。


 それから、クロエは二日に一度のペースで、放課後の温室にやってくるようになった。


 私たちはほとんど会話をしない。


 彼女は本を読み、私は土をいじり、ハーブを調合する。


 私が無言でお茶を出し、彼女が無言でそれを飲む。


 ただそれだけ。


 けれど、言葉を探して怯えなくてもいいこの無言の時間は、私にとって、ひどく居心地の良いものになっていた。クロエにとっても、誰かの目や評価を気にせず、ただ「素の自分」でいられるこの場所は、必要なものになっていたのだろう。







 季節が春から初夏へと移り変わる頃。


 学園は、二週間に一度行われる『魔法実技の公開試験』の話題で持ちきりになっていた。


 この試験は、教師だけでなく、他の生徒や、時には王宮からの視察官も訪れる重要なものだ。ここで優秀な成績を収めれば、将来の宮廷魔術師への道が開かれる。


 姉のセリアは「新しい水魔法のお披露目ができるわ」と楽しそうにしていたが、特に何かできるわけでもない私は、ただ見学席の隅で目立たないように息を潜めているだけだろうと思っていた。


 しかし、温室を訪れるクロエの様子は、日に日におかしくなっていった。


 目の下にはうっすらと隈ができ、肌の艶は失われ、ページをめくる指先はいつも小刻みに震えている。


 ある日、私が出したお茶のカップを持ち上げようとしたクロエの手が大きく震え、お茶が少しこぼれてしまった。


「あっ……ごめんなさい。私、ハンカチを……」


 慌てて拭こうとするクロエの声は、泣き出しそうに震えていた。


 私は、自分が極度の口下手であることを忘れて、思わず彼女の冷たい手に自分の泥だらけの手を重ねていた。


「クロエ、さん……。大丈夫、ですか?」


「……っ」


 私の問いかけに、クロエは弾かれたように顔を上げた。


 その瞳には、限界まで張り詰めた恐怖と疲労が渦巻いていた。


「……大丈夫なわけ、ないじゃない」


 ポツリと、彼女の口から本音がこぼれ落ちた。


「私、本当は天才なんかじゃないのよ。魔法の才能なんて、これっぽっちも無いの」


「え……?」


「魔力の『量』だけは多いわ。でも、それをコントロールする『繊細さ』が全く欠けているの。少しでも気を抜けば、暴走して周囲を吹き飛ばしてしまう……。だから、何百回も、何千回も練習して、無理やり型に押し込めているだけなのよ」


 クロエは、自嘲するように笑った。


「今度の公開試験の課題は、『水魔力による精密造形』。ただ水を出すだけじゃない、美しく繊細な形を維持しなければならない。……私に一番向いていない課題よ」


 私は、姉のセリアが庭の泉で、水の蝶を軽やかに舞わせていた姿を思い出した。


 姉は、息をするように魔法を操る。それが「才能」だ。


 対してクロエは、血を吐くような努力とプレッシャーの中で、必死に「天才」の仮面を顔に縫い付けていたのだ。


「失敗すれば、バーネット家の名に泥を塗る。視察官の前で暴走なんてさせたら、私、お父様に……っ」


 クロエは両手で顔を覆い、しゃくり上げた。


 彼女の肩にのしかかっている重圧は、私のような「期待されていない人間」には想像もつかないほど重く、冷たいものなのだろう。


「私には、あなたの抱える家名も、プレッシャーも、分からないわ。……私は、親から諦められているから」


 私は、自分の足元にある土を見つめながら、ポツリポツリと言葉を紡いだ。


「でも、失敗するのが怖いのは、分かるよ。……私も、誰かと話す時、いつも『間違えたらどうしよう』って怖くて、言葉が出なくなるから」


「リネットさん……」


「だから、クロエさんはすごい。怖いのに、逃げずに、何千回も練習して……ここに立っているんだから。それは、魔法の才能なんかより、ずっと……すごいことだと、思う」


 私は、泥のついた手で、自分が育てたハーブの鉢をそっと撫でた。


「……植物は、何度失敗して枯らしても、また新しい土を作って種を蒔けば、次は少しだけ強くなって芽を出すの。魔法も、そうだったらいいのにね」


 なんの解決にもならない、不器用で、とんちんかんな慰めだ。


 クロエはそんな私の言葉を聞いて、ポカンとした後、ふふっ、と小さく吹き出した。


「ふふ……あははっ! 何それ。魔法と土いじりを一緒にしないでよ。全く慰めになってないわ」


「うぅ、ごめんなさい……」


「でも……」


 クロエは、目尻の涙を拭いながら、少しだけすっきりとした顔で私を見た。


「ありがとう。誰かに言いたかったの。『私は天才じゃない、怖い』って。……少しだけ、息が吸えるようになったわ」


 クロエの問題は、何一つ解決していない。


 公開試験は目前に迫っているし、彼女の魔法のコントロールが急に上手くなるわけでもない。これは単なる気休めなのだろう。


 それでも、彼女が再びカップを手に取った時、その指先の震えは、ほんの少しだけ収まっていた。







 クロエから秘密を打ち明けられた翌日。


 私は旧大温室で、今まで書き溜めてきたボロボロの調合ノートをめくっていた。


 私には、クロエの代わりに魔法を使ってあげることはできない。


 バーネット家の両親を説得して、彼女をプレッシャーから解放してあげる権力もない。


 私にできるのは、土をいじり、葉を摘み、お茶を淹れることだけだ。


「……精神を深く落ち着かせて、極度の緊張を和らげる。それに、魔力の流れを整える効果……」


 ページを指でなぞりながら、私は唸った。


 実家の庭師、トーマスから教わった知識と、自分の失敗の記録。


 心を鎮める『月光草』。


 胃の痛みを和らげ、リラックスさせる『陽だまり草』。


 そして、わずかだが魔力のリズムを整える効果があると図鑑に書かれていた『星影草』の根。


「これなら……」


 私は立ち上がり、温室の奥へと向かった。

 公開試験まで、あと三日。


 私はその三日間、温室の隅でひたすらに調合と試飲を繰り返した。


 星影草の根は苦味が強いため、陽だまり草の分量をミリ単位で調整し、飲みやすくする。同時に、乾燥させた葉を細かく砕き、小さな布袋に詰めて「香り」だけでもリラックスできる香袋も作った。


 そして、公開試験の日の朝。


 私は本校舎の裏庭で、登校してきたクロエを待ち伏せていた。


「クロエさん!」


「リネットさん? こんな朝早くに、どうしたの?」


 クロエの顔色は、やはり蒼白だった。


 無理に作った笑顔の裏で、今にも押し潰されそうなプレッシャーと戦っているのが痛いほど伝わってくる。


 私は、持っていた小さな水筒と、手のひらサイズの香袋を彼女に差し出した。


「これ……お茶、です。いつもの温室の。それと、こっちは香袋」


「これは……」


「私には、魔法のことは分からないから。でも、これを持っていれば、少しだけ……温室にいる時みたいに、落ち着けるかも、しれないから」


 私はうつむき加減で、早口でそう言った。


 クロエは驚いたように目を見開いた後、水筒と香袋を両手でしっかりと受け取った。


「……お守り、ね」


「はい」


「ありがとう、リネットさん。……私、頑張るわ」


 クロエは、この学園で初めて見せる、作り物ではない、少しだけ震えた、けれど確かな笑顔を見せてくれた。









 午後。学園の大修練場には、多くの生徒と教師、そして厳しい目をした視察官たちが集まっていた。


 私は、生徒たちが集まる見学席の一番後ろ、柱の陰からこっそりとその様子を見守っていた。


 実技試験が順調に進む中、ついにクロエの名前が呼ばれた。


 彼女が中央のステージに進み出ると、周囲から「さすがバーネット家の令嬢だ」「美しいわ」というため息が漏れる。


 しかし、遠目からでも分かった。


 クロエの肩は強張り、杖を握る手は白くなるほど力がこもっている。


 課題は『水魔力による精密造形』。


 クロエが杖を振り上げると、彼女の圧倒的な魔力が大気中の水分を集め、巨大な水の塊を生み出した。


 だが、その水の塊は激しく波打ち、形を成そうとしていない。魔力のコントロールが追いつかず、暴走しかけているのだ。


「おい、あれ……少し様子がおかしくないか?」


「水の勢いが強すぎる……!」


 見学席がざわめき始める。視察官の眉がピクリと動いた。


 クロエの顔に、絶望の色が浮かぶのが見えた。


(クロエさん……っ!)


 私は思わず、柱から身を乗り出して祈った。


 その時。


 クロエが、胸元に手を当てたのが見えた。制服のポケットに忍ばせた、あの『香袋』の感触を確かめるように。


 彼女は目を閉じ、深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。


 遠く離れた私には香りは届かない。けれど、彼女の肺にはきっと、あの温室の――月光草と陽だまり草の、少し泥臭くて優しい香りが満ちているはずだ。


 ――スゥッ……。


 クロエが息を吐き出した瞬間。


 暴れ狂っていた水の塊が、ピタリと動きを止めた。


 彼女の過剰な魔力が、静かな呼吸のリズムと同調していく。


「……『氷結フリーズ』」


 クロエの静かな声が響く。


 止まった水の塊は、瞬時に凍りつき、巨大で、恐ろしいほどに緻密な『氷の薔薇』へと姿を変えた。


 花びらの一枚一枚に至るまで、完璧に計算された芸術品のような造形。


 それは、彼女が「天才」だからできたのではない。失敗を恐れ、何千回も繰り返し、プレッシャーに潰されそうになりながらも、最後の一瞬、自分の心を取り戻したからこそ生まれた「努力の結晶」だった。


 静まり返っていた大修練場が、一瞬ののち、割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。


 視察官たちも満足げに頷いている。


 ステージの中央で、クロエは大きく肩で息をしながら、崩れ落ちそうになるのを必死に堪えて、完璧なカーテシー(お辞儀)をして見せた。


 よかった。


 私は、柱の陰でズルズルと座り込み、安堵の涙を拭った。


 私の香袋が、いったいどれほどの役に立ったのだろうか。あれは単なる気休めで、私のおかげで彼女の魔法を成功させたなんで烏滸がましい考えを持つこともない。結局、彼女自身が自分の力で乗り越えたのだ。


 それでも、彼女が深呼吸をしたあの瞬間、私が淹れたお茶と香りが、ほんの少しだけ彼女の背中を支えられたのだとしたら。


 それは、私の人生で初めての、誇らしい出来事だった。








 放課後。


 大修練場の熱気から逃げるように、私はいつもの旧大温室へと戻ってきた。


 魔道コンロに火をつけ、お湯を沸かす。


 試験を終えて疲弊しているであろう彼女のために、今日は少し甘みを強めにしたお茶を用意しよう。


 ――ギィィ……。


 やがて、聞き慣れた扉の音がして、クロエが温室に入ってきた。


 彼女は私の顔を見るなり、張り詰めていた糸が切れたように、へなへなと地面に座り込んだ。


「ああっ、もう! 疲れたぁ……っ!」


 優等生の仮面を完全に放り投げた、年相応の女の子の悲鳴だった。


 私は思わずふふっと笑い、彼女の隣にお茶の入ったカップを置いた。


「お疲れ様、でした。……氷の薔薇、とっても綺麗だった」


「……見てたの?」


「うん。後ろの方で、こっそり」


 クロエはカップを両手で包み込み、温かいお茶をゆっくりと飲んだ。


 「はあぁ……生き返る」という声が漏れる。


「リネットさん」


「はい」


「あなたの香袋とお茶がなかったら、私、あのまま暴走して退学になっていたわ」


 クロエは、真っ直ぐに私の目を見た。


 私は慌てて首を振る。


「そ、そんなことないよ。クロエさんが、いっぱい練習したから……」


「いいえ。あの時、私を助けてくれたのは、間違いなくあの不器用で優しい香りだったわ」


 クロエは照れくさそうに視線を逸らし、ほんの少しだけ頬を染めた。


「ありがとう。……私の、大切なお友達」


 お友達。


 その言葉が、耳の奥で優しく響いた。


 学園で、誰ともうまく話せず、息を潜めていた私にできた、初めての友達。


「……うん。私こそ、ありがとう」


 私は、うまく笑えていたか分からない。けれど、胸の奥はぽかぽかと温かかった。


 クロエの根本的な問題が解決したわけではない。


 彼女はこれからも、家からのプレッシャーや、自分の才能の限界と戦い続けなければならないだろう。


 私も、相変わらず口下手で、華やかなサロンには一生馴染めないままだ。


 けれど、私たちにはここがある。


 傷ついた時、疲れた時、優等生の仮面を脱ぎ捨てて、何も言わずにお茶を飲める場所。


 忘れられたガラスの城は、名もなき花たちが静かに根を張る、かけがえのない秘密のオアシスになったのだ。


 初夏の風が割れたガラス窓から吹き込み、青々と茂った月光草の葉を優しく揺らしていた。

前作

日陰の令嬢は、小さな温室で静かに花を咲かせる。

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