2.戻ってきた飛行機
「予約取り消し」の表示に、そっと指先で触れた。
すぐ手続き完了の画面が表示された。やがて航空会社からのメールも来て、おれが持っていた予約の取り消しが済んだことを知らせてきた。
飛行機が好きで、ここしばらくは時間が許す限り西へ東へ、南へ北へと飛び回っていた。こないだ新千歳空港へ行った話を友人にしたら、北海道へ行ったのに海鮮丼も食べずに帰ってきたのかと言われた。
航空会社のアプリをまた起動して、トップ画面を表示した。
搭乗用QRコードが消え去って、「予約情報がありません」と書かれている。
画面も消さずに、スマホを枕元へ放り出した。
大事なフライトだった。ひと月半くらい前、たまたま空席が出ているのを座席表で見つけて予約を取った。搭乗日は明後日。今日までずっと、天に昇るような気分で楽しみに待っていた。
引退間近の長距離国際線仕様機、そのビジネスクラス窓側の席が取れていたんだから。
搭乗区間は単距離国内線。低運賃、短時間で国際線の雰囲気だけ楽しむ。半個室のようになる座席、リクライニングすればフルフラットになる仕様。ネットで画像や搭乗記を毎日見ていた。
飛行機に興味がない人からすれば、どうでもいいことに金を無駄遣いしているようにしか思えないだろう。
おれ自身も、まあそう思う。好きだからしょうがないと思ってやっているが、さすがに行き過ぎじゃないかなと。
つぎ込む金は旅行費ではなくて、1日の楽しみを買っているということにして納得している。
ともかくも、あと2日。あと2日でその日が来るはずだった。
異変に気付いたのは、今日の早朝だった。
何時ごろかは分からない。普段はない不快感に目を覚ましたおれは、寒さを感じ布団の中で動けなかった。ガタガタ震えながら耐えているうちに、いつしか再び眠っていた。
午前7時半、もういちど目を覚ました時、その感覚が「寒気」であることに気付いた。
あまりにも寒くて動けずに1時間。意を決して布団から出た俺は、節々が痛む身体で体温計を取りに行った。
『38.2℃』
……今日じゃない別の日なら、普通に受け入れられただろう。
でも今日だけは……楽しみな、大事なフライトの2日前の今日だけは、そう簡単には受け入れられなかった。
布団に戻って震えながらスマホを手に取った。
体温計の数字は嘘じゃない。この寒気と節々の痛みが、それを証明していた。
今日これだけ発熱して、2日後に飛行機に乗りに行けるはずがない。もし仮に今日中に平熱に戻ったとしても、体力回復に使えるのは明日1日だけだ。それになんの病気か分からない熱病を発症してほんの2日後に、公共の乗り物に乗るわけにはいかない。
震えながら、キャンセルの手続きを進めた。
手続きはあっけなく完了し、このひと月半ずっと楽しみにしていた1日が消えてなくなった。
また頑張って予約を取ればいい――という言葉は、そのフライトの前には意味をなさない。
搭乗予定だった飛行機は引退目前で、同じ型の飛行機は1機も日本に残っていない。最後の1機が、あと10日でおれが乗る予定だった路線から撤退することに決まっていた。
長距離国際線のビジネスクラスでのフライト――そんなもの、おれには一生縁がないだろう。言語の壁がこわくて、日本の外へ出たことがないんだから。
その飛行機は、かつて本当にアメリカやヨーロッパへ飛んでいたものだった。本物の国際線として飛んだ飛行機だ。せめて1時間くらいの国内線で、ちょっとだけでもその空気を感じてみたかった。
その飛行機は――正確な機種名はともかく、時刻表には「772」と表示される。この航空会社でその表示が出されるのは、1機のみだ。
震える指で未練がましく検索したが、確かに11日後の便から「772」の表示はなくなっていた。
・・・・・・
フライト当日、飛行機は定刻通りに搭乗口を出発し13分後に離陸した。
アプリの「運航情報」から確認して、それが分かった。
おれが熱を出した理由は分からない。病院には行ったが、発熱してからあまり時間が経っていないので、検査をしても正しい結果は出ないと言われた。
熱はその日の夜には下がり、再発しなかった。
飛行機のフライト情報が見られるWebサイトを知っているので、それを開いて検索した。「飛行中」の文字と共に高度と速度が表示され、現在位置とこれまでの飛行経路が地図の上に重ねられている。
本当なら、今頃おれはここにいたんだ……
地図上の小さな飛行機マークを見て、そう思った。
「772」は、その片隅に乗るはずだったおれが熱を出して寝込んでいたのを置き去りにして、飛んで行ってしまった。大きな飛行機だ、ちっぽけなおれひとりなんて、いてもいなくても変わらないんだろう。
でも……
さすがに、あんまりじゃないか……
・・・・・・
2週間経った。
あの発熱は、本当に何だったのか分からなかった。ただ熱が出ただけ、他に症状はなくその日のうちにに治った。
どうして、あの大事な時に……
やさぐれながら、おれは航空会社のアプリを開いた。
大きな飛行機に乗りたい。この際、行き先が遠くたって構わない。むしろ遠いほうがいい、乗っていられる時間も長くなるんだから。
沖縄発東京行きのページを表示する。機種を確かめると、最新型の大型機がたくさん。中型機も混じっている。
どれに乗ったら面白いかな。沖縄の景色を見下ろすのもいいけど、東京の夜景の上を飛ぶのもいい。
「……」
分かっている。これが「代償行動」だってことくらいは。
欲しいものが手に入らないとき、別のもので欲求を満たそうとするもの。
おれは本当は、あの時逃した「772」に乗って飛ぶ時間が欲しいんだ。
こうして時刻表を見ていても、わくわくする気持ちの中にほんの少しだけ、すっきりしない感覚が混じっている。
欲しいものは、その時つかまなければ永遠に手に入らなくなる。
後で手に入るものは、欲しかったものによく似た別のものなんだ。
画面をぼんやり見ながらスクロールしていく。
大型機、大型機、その次は中型機、また大型機――
『772』
・・・・・・
目を疑って、それから自分の正気を疑った。
「772」は、最後の1機が運航を終えたはずだ。今頃は、海外への売却のための整備かなにかをしているんじゃないのか。
タップすると、座席表が表示された。
この座席配置――おれが頑張って予約を取ったあの時に見ていたのと同じ。
ネットで調べて、分かった。
理由までは分からないが、「772」はあと2週間、東京―沖縄間を1日1往復だけ運航することになっている。
その後、さらに10日ほどで日本を離れるという。
アプリに戻って、もう一度座席表を見る。
ほとんど満席、窓側席は空いてない。
移動のためならどの席でもいいが、自分が楽しむためなら窓の外が見たい。
それと、できれば……
搭乗日を変更して、座席表を開く。
この日もだめ、次の日も……
・・・・・・
アプリのトップ画面に戻ると、「予約情報がありません」の文字が消えQRコードが表示された。
「次のフライト」――沖縄那覇(OKA)発、東京羽田(HND)行き。
座席番号「4A」。
「772」運航最終日の、4日前――
・・・・・・
福岡空港を飛び立った小型機は、ドスンと音を立て那覇空港の滑走路へ降りた。
せっかく沖縄まで行くんだから、まっすぐ行くんじゃつまらない。それであえて福岡経由で2機の飛行機を乗り継いだ。
道中はとてもいい天気で、雲はひとつもなかった。初め九州の山々を見下ろし、それから海の上を飛んだ。水平線が1本の白線になって、その上と下は青い空と青い海。初めて見る景色だった。
もうなんだか幸せな気分になったが、本命はこの後だ。
今日ここから出発する「772」には空席があった。
あの時逃した、ビジネスクラスの窓側に――購入画面には「残席1」と書かれていた。
あの日、おれを乗せないまま飛んでいった「772」は、今日この空港へ飛んでくる。おれが欲しかった座席を空けて、おれを迎えに降りてくる。
そんなふうに思った。
・・・・・・
空港から出てはみたが、特に行くところもなく戻ってきた。食堂でラーメンをすすって腹ごしらえをした。
保安検査を済ませて、修学旅行生が行き交うターミナルを搭乗口へ向かって歩いた。
搭乗口に着いてしばらくすると、誘導路から1機の飛行機が曲がってこちらに向かってきた。
その大型機――「772」はドッと乗客を降ろして、機内整備に入った。
やがて搭乗開始の案内放送があり、後方座席の乗客から改札を通って乗り込み始めた。前から4列目のおれはしばらく待つことになった。
・・・・・・
改札を抜けて搭乗口の通路を歩いていくと、飛行機のドアが見えてきた。
客室乗務員に迎えられて、機内に入った。
音楽の流れる機内を歩いてすぐ、「4A」の座席に――ずっと画像で見るだけだったその座席に、おれはようやくたどり着いた。
窓の外は、もう真っ暗だ。東京に着くときの夜景を期待して心がおどった。
・・・・・・
飛行機は定刻通りに搭乗口を離れ、灯火のきらめく誘導路を走った。夜間の離陸に備えて照明が暗くなり、背の高いパーティーションに囲まれた座席で、まるでひとりで飛行機に乗っているような気分を噛みしめた。
チャイムが鳴って、ベルト着用サインが点滅する。離陸の合図――
この飛行機とおれ――一度は縁切れて出会う機会を失ったものが、互いに屈折した経路をたどった末に、ここで出会った。
おれが欲しかった、そして永遠に手に入らなくなったはずのものを、この飛行機は持ってきてくれた。
分かっている――こんな事は、本来はない。
一度手に入れそこねたものは、普通なら二度と手に入らないものだ。
その原因が自分のせいであろうと、なかろうと。
そのことをよく心に刻んで、今日はこの巡り合わせに感謝することにする。
「772」が甲高くエンジンを吹かした。
さあ、連れて行ってもらおう――おれが欲しかった空の旅へ。




