第8話 不穏な凱旋
朝霧が石造りの廊下に薄く漂う中、オクトゥスは騎士団本部の掲示板の前に立っていた。羊皮紙に記された緊急出撃依頼が、まるで秋の枯れ葉のように壁一面を埋め尽くしている。魔物の襲撃、盗賊の討伐、行方不明者の捜索……数え切れぬほどの任務が、王国各地から寄せられていた。
(これほど多くとは……)
オクトゥスの青い瞳が一枚一枚の依頼書を追っていく。新米騎士である彼にとって、これらは全て未知の世界への扉だった。胸に輝く銀の証明章が、朝の光を受けて小さく煌めく。それは彼が長年夢見続けた騎士への道のりの証であり、同時にヘレナとの約束を果たすための力の象徴でもあった。
そして、その時だった。
薄れかけた文字で書かれた一枚の依頼書が、彼の視界に飛び込んできた。 『No.1314 魔族残党討伐依頼 ■■村』
故郷の村の名前が、そこにあったのだ。
血の気が引いていく。オクトゥスの手が、無意識に依頼書の端を掴んでいた。魔族の襲撃。それは彼が村を離れてからの出来事なのか。ヘレナは無事なのか。老婆は。村の人々は。
「団長!」
オクトゥスは振り返ると、団長室へと駆け出していた。廊下に響く革靴の音が、彼の焦燥を物語っている。扉を叩く音は、いつもより強く、急いていた。
「入れ」
重厚な扉の向こうから、低く威厳のある声が響く。オクトゥスは深く息を吸い込むと、扉を押し開けた。
「団長、お忙しいところ恐縮です。No.1314の残党討伐任務……この任務に、どうか私も参加させてください」
団長の鋭い眼光が、オクトゥスを見据えた。白髭を蓄えたその男は、数多の戦場を潜り抜けてきた歴戦の騎士だった。
「その村は……確か、お前の故郷だったな」
「はい。だからこそ、私がお役に立てるかと」
団長は暫く沈黙した。その間、オクトゥスの心臓は激しく鼓動を刻み続けていた。窓から差し込む光が、執務室の空気を暖かく染めていたが、オクトゥスの背筋には冷たいものが走っていた。
「……よかろう。だが、個人的な感情に流されるな。あくまで任務だ」
「ありがとうございます!」
その瞬間、オクトゥスの胸に希望と不安が交錯した。
数日後、オクトゥスは故郷の土を踏んでいた。
しかし、そこに広がっていたのは、記憶の中の平和な村ではなかった。焼け焦げた家屋の残骸。倒れかけた柵。そして、人々の顔に深く刻まれた疲労と恐怖の色。
オクトゥスは胸が締め付けられるのを感じた。
オクトゥスは騎士団の仲間たちとの任務説明を終えると、一人、村の中心部へと向かった。足音が砂利を踏む度に、胸の奥で何かが疼く。
(ヘレナ……無事でいてくれ)
村長の家の前で、オクトゥスは足を止めた。扉を叩く音が、夕暮れの静寂に響く。
「村長、オクトゥスです。騎士団から参りました」
扉が開き、見覚えのある顔が現れた。だが、村長の表情は以前とは違っていた。深い皺と、疲れ切った目。
「オクトゥス……お前、騎士になったのか。立派になったな!」
「俺なんてまだ新米騎士ですよ。それよりも村長、ヘレナは……ヘレナは無事ですか!?」
その問いかけに、村長の表情が曇った。重い沈黙が、二人の間に流れる。
「それが……」
村長の言葉が途切れる。オクトゥスの心臓が、不規則に跳ね始めた。
「魔物の襲撃があった夜……ヘレナは行方不明になった。」
村長の言葉にオクトゥスの世界が、音を失った。村長の口が動いているのが見えるが、言葉が聞こえない。胸の証明章が、急に重く感じられた。血管を流れる血が、氷のように冷たくなっていく。
行方不明。その単純な言葉が、彼の脳裏で何度も反復された。
「すまん、オクトゥス。俺達も探したんだが。」
「あのきれいな髪なんだから見つかるとは思ったんだが。」
「村中の者で、森も、川も、近くの洞窟も探したのよ。でも……手がかり一つ見つからなくて。」
近くにいるはずの村民の声が遠い。オクトゥスは無意識に、剣の柄を握りしめていた。
(そんな……まさか……)
約束。花畑での誓い。「必ず騎士になって戻る」と言った自分の声が、嘲笑うように耳の奥で響いた。
もう戻れない。




