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約束の破片  作者: るみす
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第7話 異形

 ヘレナは気がついたら、少女の前に立っていた。そして、眼の前にはそれまで魔物たちだった残骸が転がっていた。まるで巨大な蔦に絞め殺されたかのような跡がついていた。


 何が起きたのかわからない。腕を見ると、白い肌ではなかった。龍鱗のようなもので覆われ、手はまるで襲撃してきた魔族のように鋭い爪が生えていた。


 髪は自分が少女時代に嫌っていた銀髪ではない。村の娘のような黒髪だが、まるで夜の帳が降りたような漆黒、そしてところどころ血のように赤く染まっている。


 次に瞳——自分ではわからないが、まるで炎が宿ったように目が熱い。 視界が鮮明になり、暗闇の中でも周囲の光景がはっきりと見えた。

 後退りする数匹の魔物たちは恐怖の表情を見せた。ヘレナはそれを見て察した。

 彼らが見ているヘレナの瞳は、自身らと同じく、紅玉色に燃え上がるものだった。


 そしてヘレナは頭部に触れた。何かが突き出ている。鋭い爪が生えていることも忘れて手で触ろうとすると、頭皮とは異なる金属同士の擦れる音にも似た音が聞こえた。なぞっていくと先が鋭く尖った角だった。黒い角が二本、まるで王冠のように彼女の頭を飾っていた。背中に灼けるような痛みが走ると、肩甲骨の間に暗紅色の文様が浮かび上がる。それは古い魔族の紋章——失われた一族の証だった。


 腕や胸元、腰に何かが絡まっている。それはたどると魔物たちだった肉塊のそばまでツタのようなものが伸びていた。ヘレナが足を一歩前に出すと、足元には草木が生い茂り、自身の好きな花、ただし色は漆黒の花が急に咲きほこった。


 肉塊を散らして姿を見せたのは、魔物たちの親玉たる魔族だった。


 目の前の魔族に対して警戒心だけでなく殺意をみなぎらせる。


 ヘレナは不思議と恐ろしさが心に湧き上がらなかった。代わりに満ちたのは眼の前の異形に対する明確な殺意だった。ヘレナは背後の少女を守るため強く思考すると、足元で、地面が蠢き始める。枯れていた草が一瞬で緑を取り戻し、野花が咲き乱れ、蔦が石畳を這い回った。彼女の意志とは無関係に、植物たちが生命を取り戻し、成長し、そして魔族に向かって襲いかかっていく。太い蔦が魔族の足に絡みつき、鋭い茨が体を貫き、巨大な樹木が地面から突き出して魔族の体を打ち据える。


 魔族の咆哮が苦痛に変わった。植物たちの攻撃に圧倒され、巨体がよろめく。そしてついに——大地を震わせて倒れ伏し、動かなくなった。


 静寂の中で、ヘレナは自分の手を見つめていた。その手は、もう彼女の知っている手ではなかった。


 鏡があれば——いや、鏡などなくても、周囲の人々の表情を見れば十分だった。恐怖に歪んだ顔、驚愕に見開かれた瞳、そして彼女から遠ざかっていく足音。ヘレナは震える手で自分の髪や鱗に覆われた身体のあちこちに触れる。漆黒の髪が指に絡みつき、額に触れれば硬い角の感触があった。


 心の奥で、別の何かが蠢いている。血を求める衝動、破壊への渇望——それは確かに彼女の一部でありながら、同時に彼女ではない何かだった。


 体の奥底から、熱い何かが湧き上がってくる。それは快感に近く、同時に嫌悪すべきものでもあった。力——圧倒的な力が彼女の内側で渦巻いている。この力があれば、村を守ることも、オクトゥスを迎えに行くことも、すべてが可能になる。


 角の根元がずきずきと痛む。背中の文様が熱を持ち、まるで焼印を押されたような激しい痛みが走った。体の変化は外見だけでなく、ヘレナの内面も蝕んでいく。記憶にない感情、知らない欲望、そして——血の匂いに対する異常な興奮。すべてが心地よかった。


 呼吸をすると、自分の知らない咆哮が響いた。


 そうだ。村長の孫娘は?みんなは?


 背後に振り向くと、そこにいた少女は変わらぬ引きつった顔を浮かべていた。


『もう大丈夫よ。悪い魔物はいなくなったから』


 ヘレナがそう唸ると、村人たちがざわめき始めた。最初は救われたことへの安堵だったそれが、やがて新たな恐怖へと変わっていく。彼らの視線は、倒れた魔族から、ずっと立っている魔族へと向けられた。


 「まだ残っていたぞ!」


 最初に叫んだのは、自警団の若い男だった。松明を高く掲げ、震え声でそう告げる彼の視線の先には、角を生やし紅玉色の瞳を輝かせる魔族の姿があった。


 村人たちは彼女を見て——いや、村人たちの視界にあるのは、そこにいるのは、愛すべき少女ヘレナではなく、ただの「魔族」だ。


「なんだ?仲間割れだったのか?」

「やっつけろ!」

「村を守れ!」

「ヘレナはどうした?」

「きっと魔物に……」

「ちくしょう!!ヘレナをどこにやった!?」


 口々に叫びながら、村人たちが彼女に向かってくる。農具や武器を手に、松明を振りかざし、石を投げつけて。ヘレナは後ずさった。


『違うわ!私はここよ!なんでみんなそんな事言うの?わからないの?』


 必死に訴えかけても、発せられるのは唸りと謎の言語。その想いが相手に届くことはない。


 石が頬を掠める。肌の痛みよりも、心に当たった石のほうがはるかに痛かった。


 さきほどまで覚えていた万能感は砂山のように崩れ落ちた。残されたのは、指先一つでひび割れてしまいそうな元の己の心だった。


 このままではいけない。この姿で村にとどまることは、オクトゥスのためにもならない——愛する人を裏切ることなど、できはしない。


 もう一度、足元の植物たちが蠢き始める。怒り、悲しみ、絶望——それらの感情に反応して、蔦や茨が村人たちを威嚇するように立ち上がった。しかしヘレナは首を振り、その力を押し殺す。


(だめ……この人たちを傷つけるわけにはいかない)


 例え自分が傷つけられても、例え誤解されても——ヘレナにとって村人たちは、守るべき大切な人たちだった。


『……ごめんなさい』


 小さくつぶやくと、ヘレナは踵を返した。村人たちの怒号が背後から追いかけてくるが、彼女は振り返らない。森へ、深い森の奥へ——人里から遠く離れた場所へと足を向ける。漆黒の髪が夜風になびき、紅玉色の瞳に涙が光った。


 やがて村の灯りが見えなくなる頃、ヘレナの姿は闇に紛れて消えていった。後に残ったのは、静寂と村人たちの安堵の吐息だった。

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