第5話 村の不安
オクトゥスが村を発ってから数カ月が過ぎた頃、西の街道を行き交う商人たちの口から、不穏な噂が漏れ始めた。
隣町、その先の山間の村々——それらが相次いで魔族の襲撃を受けているのだという。商人の声は低く押し殺され、悪霊を呼び寄せることを恐れるようだった。夕闇が村を包むたび、その話は井戸端で、酒場で、そして家々の囲炉裏端で囁かれていた。
ヘレナは村の中央広場で、そうした会話の断片を耳にするたび、胸の奥で何かが凍りつくのを感じていた。夕陽で輝く銀色の髪がなびくので抑えながら人々を見渡した。人々の表情は暗く沈み、噂が村全体に冷たい影を落としているように見えた。
(オクトゥス……今、どこにいるの?)
心の中で呼びかけても、答えてくれる声はない。ただ風が頬を撫でて過ぎるだけだった。
隣町の噂が広まって以来、ヘレナの住むこの村でも空気が一変した。すれ違う村の老人たちは眉根を寄せ、女たちは子供を引っ張って足早に帰る。男たちは斧や鎌の手入れに余念がない姿も見えた。
普段は穏やかな村の空気が、まるで嵐の前の静寂のように張り詰めていた。
ヘレナの心細さは日を追うごとに膨らんでいく——彼女を守ると誓った騎士は、遠い都にいるのだから。
商人や冒険者たちの伝える話は、とうとう隣村とこの村の途中の街道付近にも、魔物の群れが姿を見せたという。
村の自警団が慌ただしく村のそばの街道まで出ていく頻度が増えてきた。
翌朝、ヘレナは決意を胸に村長の家を訪れた。
「私にも、何かお手伝いさせてください。」
——そう申し出る彼女の声は、まだ震えていたが、その奥には確かな意志の光があった。村長は彼女の銀髪を優しく撫で、「ありがとう、ヘレナ」と微笑む。
しかしその笑顔の影に、深い憂いが宿っているのをヘレナは見逃さなかった。
それからヘレナは、村の自警団の世話を買って出た。かつてはオクトゥスが所属し、ボロボロになりながら訓練していた兵舎と庭。
決して堅牢と言えない兵舎で、疲れ切った男たちのために温かい食事を運び、破れた衣服を繕い、傷の手当てをした。ヘレナの細い指先は器用に針を走らせ、その様子はまるで母親のように慈愛に満ちていた。自警団の男たちは、この美しい少女の献身に心を打たれながらも、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「すまないね、ヘレナちゃん。本当なら、君のような娘に心配をかけるべきじゃないんだが……」
年を重ねた自警団員がそう呟くと、ヘレナは首を横に振った。
「いいえ。私も、この村の一員ですから」
その真摯な言葉に、自警団の男たちは顔を見合わせ、わずかに頬を緩めた。
(でも、本当は……オクトゥスがいてくれたら)
心の奥で、彼女は小さくつぶやく。けれど、その想いを表に出すことはない。
夜が更けるまでヘレナは働き続けた。その姿を見て、同世代の娘たちも自警団の手伝いに加わるようになった。
村のために働く日々は充実していた。娘たちが手伝いに加わり、男たちが笑顔を見せる。それを見ると、ヘレナの胸の奥が暖かくなった。しかし夜になり一人きりになると、心の底から湧き上がる寂しさが消えない。オクトゥスの姿が脳裏に浮かんでは消える。




