第4話 記憶の侵食
回想に耽るうち、花畑に横たわっていた時、それは突然やってきた。
ヘレナの視界が、一瞬にして暗転した。
血の匂い。焼け焦げた匂い。そして、絶望の叫び声。
『逃げて! ヘレナを連れて逃げて!』
女性の声。でも、それは育ての老婆の声ではない。もっと若く、美しく、そして悲痛に満ちた声。
『この子だけは……この子だけは守らなければ……』
男性の声が重なる。深く、威厳があり、しかし今は恐怖と愛に震えている。
炎が見えた。巨大な炎が空を覆い、街が崩れ落ちていく。見知らぬ通りには、人ならざる者たちの影——角を持つ者、翼を持つ者、そして漆黒の髪と紅玉の瞳を持つ者たち。
『私達は滅ぼされる……もう、この世界に居場所なんてない……』
『でも、この子はどうにか生きさせないといけない。人間として、愛される者として……だから俺の故郷へ』
見知らぬ記憶の断片が、ヘレナの脳裏を駆け巡る。それは確かに彼女の記憶ではないのに、なぜか懐かしく、そして耐え難いほど悲しかった。
突然、別の場面に変わった。
暗い森の中。幼子を抱いた人影が、必死に逃げている。追っ手の気配。剣戟の音。そして——
『この子を頼む……どうか、人間として育ててくれ……』
見知った老婆の若い頃の顔が見えた。驚き、戸惑い、そして慈愛に満ちた表情で赤ん坊——幼いヘレナを受け取っている。
『この髪の色……まさか、あんた……!』
『頼む。俺はあの人を別のところに逃さないといけない。この子には平和な人生を……だから……言わないで……』
見慣れぬ男性は森へ消えていった。
「はあ……はあ……」
ヘレナが我に返った時、彼女は花畑のそばにある木にもたれかかって荒い息をついていた。額には冷や汗が浮かび、心臓が激しく鼓動している。
(まただ……最近なんだか、私おかしい?)
額やこめかみを拭い、何度も深呼吸をする。
記憶の内容は毎回少しずつ違っていたが、共通する要素があった。記憶の薄ぼんやりとした影だが明らかに人とは違う存在の女性が人間と一緒にいた。そして、祖母の姿。
「おばあ…私って一体。」
オクトゥスがいてくれた時は、このような発作が起こってもすぐに収まった。
『大丈夫か、ヘレナ?顔色が悪いぞ。そういうときはさ、深呼吸をすればいいんだ。』
オクトゥスはいつもヘレナの瞳をじっと見つめ、優しく介抱してくれた。すると瞳に感じる熱さが薄らいでいくのをいつも感じていた。彼が手を握ってくれたり、背中をさすってくれたりすると、不思議と心が落ち着いたのだ。しかし今は、彼はここにいない。
一人で苦痛に耐えなければならない。一人で、自分の恐怖と向き合わなければならない。
「オクトゥス……」
木彫りのペンダントを握りしめたヘレナの手のひらには跡がくっきり残っていた。彼から贈られた、愛の証。その温もりが、少しだけ心を慰めてくれる。それだけが今は頼りだった。
やがて、発作のような苦痛が収まってきた。ヘレナはゆっくりと立ち上がり、乱れた髪を整えた。夕日が西の空を染め始めている。
(考えても仕方がないわ。今は、普通に暮らさなくては……)
ヘレナは、頭の中に渦巻く霧を振り払うように顔を上げると、村のある方向へ一歩を踏み出した。オクトゥスが帰ってくるまで、彼女は一人でこの暗い痛みと向き合わなければならない。それがどれほど辛くても。
(みんなのところに行こう。一人でいると、また変な考えが浮かんでしまう)
ヘレナの足は、自然と村の中心部に向かっていた。そこには市場があり、人々の賑やかな声が聞こえる。普通の日常、普通の人々との触れ合いが、彼女には必要だった。
「私は大丈夫だから。オクトゥスが戻って来るまで、普通にしていないと。」
そう自分に言い聞かせながら、ヘレナは夕暮れの村の中へと足を向けた。
西の空に沈みゆく太陽が、ヘレナの銀髪を金色に染めている。その美しい姿を地面に形作る影だけがぼんやりと蠢いていた。




