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約束の破片  作者: るみす
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第15話 揺れる想い

 祖母が去った後、小屋の中には再び静寂が戻った。隙間風が冷たい空気を運び込み、ヘレナの頬を撫でていく。彼女は壁に背を預け、ゆっくりと床に座り込んだ。


 手の中には、オクトゥスが残していった証明章の欠片がある。金属の冷たさは、もうとっくに彼女の体温で温められていた。月光を受けて鈍く光るその表面には、騎士団の紋章の半分が刻まれている。


「必ず戻る」


 彼の声が、まだ耳に残っていた。真っ直ぐな瞳で告げられた誓いの言葉。どんな姿になっても、そばにいてあげるという約束。


 ヘレナは証明章を胸に抱きしめた。温もりが、心の奥まで染み込んでくるようだった。


 オクトゥスは戻ってくる。彼は嘘をつかない。約束を破らない。それは、幼い頃からずっと変わらなかった彼の本質だった。


 窓の外では、夜がゆっくりと明けようとしていた。遠くで鳥のさえずりが聞こえ始める。新しい一日の始まりを告げる音色が、静かな小屋に響いていた。


 ヘレナは目を閉じた。すると、記憶の中で花畑の光景が蘇ってくる。


 幼い日の約束。村外れの花畑で、オクトゥスが自分を守ってくれたあの日。「君を守る騎士になる」と言ってくれたあの日。


 彼の手は、いつも温かかった。

 彼の笑顔は、いつも眩しかった。

 彼の声は、いつも優しかった。


 そして今夜、再会した彼は、あの日と何も変わっていなかった。自分がどれほど醜い姿に変わり果てていても、彼は自分を「ヘレナ」と呼んでくれた。


「オクトゥス……」


 名前を呼ぶと、胸の奥が熱くなった。涙が滲んでくる。紅玉色に染まった瞳から零れる涙は、かつてと変わらず透明だった。


 彼を信じたい。彼と一緒に逃げたい。彼の言葉通り、二人でどこか遠くへ行きたい。


 しかし——ヘレナの脳裏に、祖母の言葉が蘇った。


「お前の父が言っていたことだけどね。お前と同じく魔族と人間の夫婦の間に生まれた子たちがいてね、みんなちりぢりになったらしいんだよ。」


「あたしの息子もオクトゥスのように、相手の見た目や種族を気にすることなく、お前の母親を愛し抜いた。二人はあなたを私に預けて、追手から逃れる旅に出たのよ。」


 追手から逃れる旅。その言葉が、ヘレナの心を冷たく締め付けた。


 自分の出生は、本来ならオクトゥスには何の関係もない。彼は騎士になるという夢を叶えた。新人でありながら、魔族討伐の成果を上げ、称賛されるはずだった。


 それなのに、自分のせいで台無しになるかもしれない。


 ヘレナは証明章の欠片を見つめた。真っ二つに割れた紋章。彼はこれを、自分のために割ったのだ。自分と繋がるために、騎士としての証を半分にしたのだ。証明章の冷たい感触が、今は重く感じられた。


「私のせいで……」


 震える声が、小屋の中に小さく響く。ヘレナの脳裏に、様々な光景が浮かんでは消えていった。


 もし、オクトゥスが自分と一緒に逃げたら、彼は騎士団を裏切ることになる。魔族を逃がした騎士として、追われる身になるかもしれない。偽装が露見すれば、彼の名誉も未来も、すべて失われてしまう。


 もし、自分が村に残ったら、村人たちは再び自分を襲うだろう。角は切り落としたが、竜鱗は消えていない。瞳の色と漆黒に染まった髪、そして褐色の肌も、かつての姿には戻れないかもしれない。村に居場所はもう、ない。


 もし、オクトゥスが自分を守り続けたら、彼はいつか自分のせいで傷つくだろう。魔族の血を引く者を愛した騎士として、誰かに糾弾されるかもしれない。


 ヘレナは両手で顔を覆った。混乱と苦悩が、心の中で渦を巻いている。


「どうすればいいの……」


 問いかけても、答えは返ってこない。小屋の静寂だけが、彼女を包んでいた。


 しかし、その静寂の中で——ヘレナは、ふと気づいた。


 自分が本当に恐れているのは、何なのか。

 自分が本当に守りたいのは、何なのか。


 ヘレナはゆっくりと顔を上げた。窓の外では、空が少しずつ白み始めている。夜明け前の薄明かりが、小屋の中に静かに差し込んでいた。証明章の欠片が、その光を受けて柔らかく輝く。


「私が恐れているのは……」


 ヘレナは、自分の心と向き合った。


 恐れているのは、オクトゥスが傷つくこと。

 恐れているのは、オクトゥスの未来を奪うこと。

 恐れているのは、オクトゥスの笑顔が消えてしまうこと。


 自分がどんなに彼を愛していても、自分のせいで彼が苦しむ未来は、受け入れられない。自分がどんなに彼と一緒にいたくても、自分のせいで彼の夢が壊れるのは、耐えられない。


 ヘレナの瞳から、また涙が零れた。しかし今度は、悲しみだけではなかった。そこには、確かな決意の色が宿っていた。


「私は……オクトゥスを、愛している。」


 初めて、声に出して言った。


 愛しているから、彼の幸せを願う。

 愛しているから、彼の未来を守りたい。

 愛しているから——一緒にはいられない。


 その結論に辿り着いた瞬間、ヘレナの心臓が鋭く痛んだ。まるで、自分の心を自分の手で引き裂くような痛みだった。


「オクトゥス……ごめんなさい。」


 震える声で謝罪の言葉を紡ぐ。彼が戻ってくる前に、自分は去らなければならない。彼の人生を、これ以上巻き込んではいけない。

 祖母が言っていた。自分と同じ境遇の子たちがいると。どこかに、集まる場所があるかもしれないと。そして両親も。


 ならば——


 ヘレナは立ち上がった。足元がふらついたが、壁に手をついて体を支える。祖母が残していったマントを肩にかけると、その温もりが彼女を包んだ。


 しかし、黙って消えるのは忍びない。


 ヘレナは、オクトゥスに何か伝える方法を考えた。直接会えば、きっと彼は自分を止めるだろう。だから、せめて言葉だけでも。


 彼女の視線が、マントの端に向いた。そこには、小さな糸のほつれがあった。丁寧にその部分を引きちぎると、小さな布の切れ端が手に残る。

 ヘレナは自分の指先を噛んだ。鋭い犬歯が肌を貫き、赤い血が滲む。その血を指につけて、布の切れ端に文字を書き始めた。


 一文字、一文字、丁寧に。


 彼への想いを込めて。


 感謝と愛情と、そして——別れの言葉を。


 やがて、文字を書き終えた。ヘレナはその布切れをテーブルの上に置いた。ただ、このままでは小屋の片付いていない状態のため、気づいてもらえないかもしれない。

 ほかに何か残せるもの。

 ヘレナはふと思い出した。かつて、オクトゥスが騎士を目指して出発するときにくれた木彫りのペンダントを。


 今の自分には彼との新たな約束たる騎士の証明章の片割れがある。

 ヘレナは鋭い爪で証明章に穴を開け、木彫りのペンダントから紐を抜き取って証明章に通した。そして自身の首にかけた。


 残った木彫りのペンダントを、テーブルにある布の切れ端に添えた。


 彼が戻ってきたら、きっとこれを見つけてくれる。そして、自分の想いが伝わってくれることをヘレナは祈った。


「ありがとう、オクトゥス」


 最後にもう一度、小屋の中を見回した。この場所で、彼と再会した。この場所で、彼の温もりを感じた。この場所で、彼の愛を知った。その記憶だけは、決して忘れない。


 ヘレナは扉に手をかけた。外の空気が、冷たく頬を撫でる。夜明け前の森は、まだ暗かった。しかし東の空は、少しずつ明るくなり始めている。

 新しい一日が、始まろうとしていた。


 ヘレナは深く息を吸い込んだ。そして——一歩、踏み出した。


 愛する人のために。


 彼の幸せを願って。


 そして、いつかまた会える日を信じて。


 ヘレナは、新たな旅路へと歩み始めた。


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