第10話 遭遇
翌日の午後、森の奥深くで、それは起こった。
オクトゥスを含む四人の騎士団が、魔族の痕跡を追っていた時のことだった。木漏れ日が地面に斑模様を作る中、突如として茂みがざわめいた。
ざわり。
微かな音だった。しかし、訓練を積んだ騎士たちの耳には、それが自然のものではないことは明らかだった。
「何かいるぞ」
隊長が低い声で呟く。全員が剣に手をかけた瞬間——
茂みから、黒い影が飛び出した。
漆黒の髪。紅玉色の瞳。頭部に湾曲した角を持つ、間違いなく魔族だった。だが、オクトゥスが今まで想像していた魔族とは違っていた。どこか人間らしい面影を残している。
そして、その表情には……恐怖が宿っていた。
「魔族だ!陣形を取れ!構えろ!」
隊長の号令と共に、騎士たちが一斉に動いた。剣が陽光を受けて煌めき、鎧がぶつかり合う音が森に響く。
しかし、魔族は剣を抜いた騎士たちに対して戸惑っている。逃げようとしているのだ。
オクトゥスが困惑している間に、騎士の一人が魔族に斬りかかった。だが、その瞬間——
ぐるるる……
地面から太い蔦が伸び上がり、騎士の足を絡め取った。続いて、木々の枝が鞭のようにしなり、騎士たちを襲い始める。
「植物を操るのか!」
オクトゥスは驚愕した。これほど強力な魔族の力を、彼は見たことがなかった。しかし、魔族の表情を見る限り、それは無意識の反応のようだった。恐怖に駆られた、本能的な反撃。
戦闘は激しさを増していく。騎士たちは連携して魔族を包囲しようとするが、次々と現れる植物の攻撃に阻まれていた。
その時、隊長の剣が魔族の左脇腹を捉えた。
「そこだっ!!」
ザシュッ!
「グガァ……きゃあ!」
鮮血が飛び散った。魔族が苦痛の呻き声を上げる――その最後に高い悲鳴が混じった。
その声にオクトゥスの心臓が激しく跳ねた。
(悲鳴?なんだ、こいつ……?)
だが、傷を負った魔族は、植物の蔦を操って植物の壁を作ると、森の奥へと逃げ去ってしまった。
後に残されたのは、地面に滴った赤い血痕だけ。
「逃がしたか……」
隊長が悔しそうに呟く。しかし、オクトゥスの心には、別の感情が渦巻いていた。
(あの魔族の呻き声。どこかで聞いたことがあるような……)
いや、それよりも今はヘレナのほうが大事だ。オクトゥスは頭を振り、思考を切り替えた。
戦闘後、オクトゥスは一人、血痕の残された場所に留まっていた。
他の騎士たちは野営地へと戻ったが、彼だけは何かに引き寄せられるように、その場を離れることが出来なかった。夕日が木々の間から差し込み、地面の血を赤く照らしている。
隊長の一撃はさすがだった。団長に勝るとも劣らない剣技であの魔族の隙をついた。そして負わせた傷。
(左の脇腹……深い傷だったんだな)
オクトゥスは膝をつき、血痕を間近で見つめた。まだ乾き切っていない鮮やかな赤。それは魔族の血だ。そう認識した瞬間、違和感を覚えた。人間の血と、ほとんど変わらない色をしている。
指で血に触れてみる。温かさはもう失われているが、粘度も人間のそれと同じだった。
(なぜだ……なぜこんなにも……)
胸の奥で、何かが疼いていた。あの魔族に対する、説明のつかない親近感。戦いの最中に感じた、既視感にも似た感情。
そして、あの呻き声。
オクトゥスは立ち上がると、魔族が逃げていった方向を見つめた。深い森の向こうに何があるのか。彼女は——いや、なぜ彼女と思ったのか——そこで何をしているのか。
風が頬を撫でていく。その風に乗って微かに花の香りがした。懐かしい場所の懐かしい香りだった。
(まさか……まさか、そんなことが……)
心の奥で囁く声があった。しかし、オクトゥスはその声を振り払った。そんなことがあるはずがない。あり得ない。
だが、胸の証明章が、まるで彼の動揺を感じ取っているかのように、重く感じられた。
そしてオクトゥスの足は逃げていった魔族の後を追っていた。ヘレナのために。




