愛
〈種々の露地にトマトの赤裸かな 涙次〉
【ⅰ】
上総情は愛を探し求めてゐた。これで噴飯してしまふ貴方、とは用がない。愛は一流大學にも一流の就職先にも見当たらなかつた。大新聞の文藝欄担当者として、文壇にも顔が利くやうになつたが、それでも愛は見付からなかつた。何もモテたいとか、女が慾しい、とかではない。一つの普遍である愛‐ 人生の大前提である愛- を探して、陋巷を彷徨つた。だがそれは、酒場を巡ると云ふ事にはなつても、それ以外の意味をなし得ず、彼に更なる苦しみを與へるばかりだつた。さう、愛は見付からなかつた。
【ⅱ】
上総は考へた。愛を前提に置くからいけないのだ。無愛(愛さない事)をまづ先に為してしまへば、その狀態に慣れ、苦しみも消える。カウボーイハットの下の目には、カンテラと云ふ一人の男が映つてゐた‐
【ⅲ】
これで自分は「眞夜中のカウボーイ」でも何でもない、一人のカンテラ・フォロワーになる。刀を買はう。出來るだけいゝ物を、だ。剣の師匠を探さねば。自分は【魔】狩りの每日に惑溺し、愛、の事を忘れる。彼は新聞記者としてのネットワークを利用して、カンテラばりの眞剣の使ひ手を探した。尾崎一蝶齋と云ふ男、世に隠れ棲んでゐるが、カンテラの好敵手になり得るのではないか、と專らの噂だつた。入門には大金が掛かる。カネづくのプロなんだな、と上総は阿呆のやうに思つた。
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〈めそめそとした朝さぞや愛されし私でゐたかつた今朝であらう 平手みき〉
【ⅳ】
尾崎の話では、カンテラを斃し世に知られたい、と云ふ者は大勢ゐる、らしい。自分はさう云ふ邪念が大好きでね、と如何にも剣豪らしくへの字口を更に歪め嗤ふ。上総は彼に訊いた。「失禮だが、貴方はカンテラに勝てると」‐「とは思つてゐない。奴は豊富に死人を出してゐる。私は死人の量だけ遅れを取つてゐるのだ」(随分と正直なんだなあ、と上総は思ふ。)「だが氣の持ちやうだ。私のは殺人剣ではない。活人剣だ、と思へば良い」(飄々と自分の云ひたい事を云ふ。この人、カンテラには勝てなくとも、相当の達人には違ひあるまい。)
【ⅴ】
で、結果。上総は尾崎をカンテラに紹介した。テオ=谷澤景六とは上総、仕事上の付き合ひがある。カンテラ、尾崎とは話に花が咲いてゐる。カンテラ「いや、上総さん。世の中には面白い御仁がゐるもんですなあ」‐「はあ」‐「貴方剣の師を探してゐるとか。私で良ければ、教へやう」‐「本当ですか!?」‐「貴方これから当分、箸を左で使ひなさい。それで、可否を決めるから」‐「箸を左で...」(カンテラが左利きだと云ふ事を忘れてはならない。)
【ⅵ】
それから上総の涙ぐましい努力が始まつた。1週間が經ち、1箇月が經つた。駄目だ。全然進歩がない。
カンテラ「だうだい、上総さん?」‐「全然、駄目です」‐「氣にする事はない。1年でも10年でも、得心が行く迄、やつてみなさい」‐「は」。
カンテラは思つたより、狷介ではなく、常人離れもしてゐなかつた。
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〈戀文にメロンの馨り仄立つか 涙次〉
上総、いつしか箸を左で使ひこなす事に成功してゐた。さて- この儘カンテラの弟子となるか、否か。カンテラの剣、殺人剣だと云ふ尾崎の言葉が耳に殘つてゐる。自分には人を(【魔】としてもよい)殺める事は出來まい。さう思ひ、上総は「身を退いた」。彼は尾崎の許に帰り、そこで木刀を振る每日を過ごした。不殺‐ 愛、に、もう迷ひはなかつた。お仕舞ひ。