知らぬが仏⑩
八千枝さんの家は変わらぬ姿で、昔と同じ場所に存在していた。
婆さんは懐かしむようにその佇まいを眺めていた。
少し悲しげな様子は、昔の思い出に浸っているようだった。
取り戻した記憶は、輝いては見えなかったのだろうか?
「ごめんくださ~い」
私は懐かしむ婆さんを尻目に、家のドアを叩いた。
すると中から扉が開く音がガチャリと聞こえた。
「はい…」
中から出てきたのは、50代くらいの初老の男性だった。
男性は私を見るなり、少し怪訝な顔をしている。
「何だこのガキは」と今にも言い出しそうな感じだった。
「正夫ちゃん?」
すると婆さんが後ろから男性に声をかけた。
しかし、男性は婆さんに覚えがないようで、「???」といった顔をしている。
「千絵です…千絵おばちゃんです」
婆さんの言葉に、男性はハッとした。
「千絵おばちゃん⁈ ああ、何てことだ…ずっと探していたんだ」
意味深な言葉を男性が口にした。私はその真意を尋ねた。
男性は正夫と言って、八千枝さんの息子だった。近所に住んでいた婆さんとも面識があり、亡くなった息子さんともよく遊んでいた。
言わば、亡くなった息子さんとは幼馴染だったのだ。
正夫の話では、八千枝さんは亡くなる直前まで婆さんのことを口にしていたらしい。
遠くに行ってしまったけれど、掛け替えのない親友のことはいつまでも心配だった。
八千枝さんは婆さんがいなくなってからもずっと想い続けていた。
婆さんのことを思い出しては語り、その締めくくりはいつも「便りがなくても元気でいてくれたら」だった。
晩年になり過去を思い出すことが増えたのか、婆さんとの思い出話も多くなっていた。
拒絶されたと思っていたのは婆さんの取り越し苦労で、八千枝さんが婆さんを責めるようなことは一度もなかったという。
「千絵おばさん…貴女を探していたのは、母の最期の言葉を伝えたかったからです」
既にボロボロと泣いていた婆さんは、正夫の顔を見ることができなかった。
正夫は八千枝さんの最後の言葉をそのまま語った。
「いつも助けてくれてありがとう。最後に貴方を助けてあげられなくてごめんね…」
婆さんはわんわん泣いた。
正夫は母の形見だと言って、あるものを婆さんに手渡した。
それは八千枝さんが最後の最後まで大切に握りしめていたものだった。
そのペンダントには、若き日の二人が仲睦まじくニッコリ笑う写真が入っていた。