1.マーキュリー・アドベント
点を繋ぎ線と成し、線を繋ぎ円と成し、円を集めて球と成し、球を並べて扉とす。瞳の海を築けど、未だ閃光は尽きることなく。
魔素、魔法を説明する為に考え出された仮説上の物質である。質量を持ちまたこの世界に遍く存在する物質であるが、光学的に観測不能であり、ほとんどの物質と相互作用を引き起こさない。しかしその魔素が揺れることで流れを引き起こし、魔素が物質に対して物理的な干渉を引き起こす。また流れをとなった魔素のことを魔力と呼称する。
そして魔力によって引き起こされる現象を魔法と定義し、その現象を利用する技術を魔術と呼ぶ。
魔術は急速に拡散し、文明の一つとして組み込まれ、技術革新が時代を超越した。それは魔術がサイエンスの近縁であり、その二つが相補的に作用することで加速度的な産業発展、技術発展が齎されたからである。
「ん...。」
朝日に照らされ彼は目覚めた。目に映る景色は自分の部屋、ではなく彼が2番目に嫌いな場所である。どうやら資料を読みながら寝てしまったらしい。
彼のルビーのような瞳、海眼、もしくは瞳海
「寒い...
百万に一という確率で瞳に形成される器官である海眼、隔世遺伝であるそれは多くの場合忌み物として扱われる。しかし魔法学会においてはそれは祝福とされるのだ。漣と凪、それらを感覚的に視認できる瞳はまさに天啓である。
「ここに来たとて、何が変わるか。」
ハワード=二グラス大学校生物棟3階第5研究室、ここに居ると学生時代を思い出す。おおよそ平凡な青春だったが、その分この研究室での思い出が色濃い。忙殺に次ぐ忙殺、ここを爆破してやろうと何度思考しただろうか?しかし今となっては懐かしい。懐かしいと言っても、卒業からまだ5ヶ月ほどしか経ってないが。
「カラベー?」
「聞こえてんの?」
ユラ・ミツキ、彼の助手兼実験材料兼荷物持ちである。彼は彼女の影喰いの才能に気付き、娼館から連れ出した。影喰いとは他人を宿主としている精霊を捕食、もしくは自らに宿す行為だ。
現に彼女は32匹の精霊を捕食し、ロイコクロリディウム、トキソプラズマ、バンクロフト、そして俺が与えた特定大精霊1号Y.S.という4匹の大精霊を宿し、使役している。精霊の恩寵は凡人にとっては狂死へと至らせる激毒であるが、聖性を多く宿す者、特に精霊使いや影喰いにとってはその激毒は導きと叡智を与える祝福となる。もちろん、副作用もあるが。
「何か用か?」
彼は精霊使いが嫌いだ。奴らは精霊の囁き、その導きを自分自身の道標と勘違いしやがった。知ってるか?精霊は都合が悪い時に黙るんだ。それを自分の祈りが濁っていただとか勘違いするカマキリ並みの知能しかない阿呆、そしてそれを理解し弄ぶ精霊、虫唾が走る。不愉快だ。
「別に?ただなんか、集中してるなって。」
だから彼はY.S.を荷物として彼女に預けた。彼にとってY.S.は呪いそのものだ。しかし、無知な彼女にとっては幾分マシなものになるだろう。さりとて、精霊は精霊。彼女には精霊を信用するなと念を押している。
「なんでもないさ。それよりそろそろ準備したほうがいいんじゃないか?」
「ん?もう私は支度してきたけど?準備が必要なのは貴方の方でしょ?」
彼女は既に町娘風の服に着替え、両手で大きめの鞄を持っていた。その鞄の中には日用品や化粧品の他に、黒色のドレスと3つの眼を描いた模様のあるアイマスクが入っている。これは影喰いを生業とする影喰み師の正装だ。まぁこんなものを着る必要などないが、影喰いの際、これを着ないと仕事を回して貰えない。暗黙の了解というやつだ。その昔、ある貴族が影喰いという行為にある種特別な感情を見出したのが始まりらしい。
「あぁ、すまなかった。すぐ準備するよ、そこで待っててくれ。」
影喰いという行為は治療行為に当たるため、絶対に必要な仕事ではあるのだが、まぁ、一般的に良い印象ではない。それは影喰み師の行き着く運命は総じて破滅であるからだ。
精霊を捕食する都度に残滓は蓄積していく。やがて影喰み師は醜悪な夜獣となる。精霊の残りカスは聖性にとって高級ディナーだからだ。聖性が成体に羽化する時、宿主の身体を無理矢理変質させる。その過程において理性というものは矮小で、何より脆弱だ。
そしてこれは、影喰み師に限らず、精霊の宿主ならば、ほとんどの場合これを辿る。
「ユラ、仕事が終わったら少し散歩しよう。街のすぐ外だ。」
「いいよ。その代わり夕飯豪華にして。」
街の外れから夜獣の醜い悪臭を観た。ユラの精霊に釣られたか?
「そうしようか。」
夜獣は本能として光を恐れる。影の宿命、彼らは夜にしか生きられないのだ。彼らが照らされる時、彼らの存在は乱れ、そこに存在しないのと同義になる。
しかし月光、もしくは暗闇においてのみ姿を強く残す。存在そのものが影なのだ。
「じゃ、とっとと仕事しちゃお。」
「そうだな。」
自分の鞄を持ち、サングラスを掛けた。
「行こうか。」
研究室の扉を開け、廊下に出た。
「ひさびさに王都に来たんだしさ、色々買いたいな。」
ローマニア帝国首都プラニン、古ローマニア的でないし帝国でもないしプラニンは首都と正確に規定されておらず、便宜上そう呼ばれているに過ぎない。
「それもそうだな。」
ローマニア的ではないというのはさておき、この国は皇帝不在で首都もない。10年前の帝都魔術テロ事件で皇帝は死亡、旧首都ウィンネスは首都としての機能を失った。そして現在は内戦を避ける為、ノイセル家、ルルカルル家、デカル家、そしてルートヴィッヒ家の四家による寡頭制を敷いている。
「お久しぶりです、カラベラス先輩。」
低い声、そして巨人と見紛うほどの恵まれた体格の男が俺を呼ぶ。
「アルバート、久々だな。」
「えぇ、久しぶりです。身長縮みましたか?いや、私が伸びたのか。」
知的な声と蠱惑的な顔、あと何より身長が高い。203と言えば彼の23上だ。これが、産まれながらにしてのカリスマ性である。
「月陰、三日月、寂寥の星。彼岸花、欠け時計、虫の群れ。果の無窮、悠久の奏、常の赤子。」
精霊呼び出しの詠唱、魔術の詠唱と違って、これは意味を持つ。そして奴の言うこれは特定大精霊8号孤餓死虫禩屍芽振の降霊詠唱の下詩だ。
「生憎、私は貴方と違い精霊には興味が無いので。」
得意げな薄ら笑いを持ってして奴は封筒を俺に押し付ける。
...孤餓死虫禩屍芽振はユラの持つロイコクロリディウムやトキソプラズマ、バンクロフトとは一線を画す大精霊である。
ユラはそれをも封じ込める檻になれる筈だ。
「感謝するよ、アルバート。」
だからといって、それをユラに食わせるには覚悟がいる。
「月の満ち欠け、あれはおそらく真実です。」
「...だからどうしたと言うのだ。」
我がある時、死は無い、死がある時、我は無い。だから恐れる必要がない。それを少女に言うのか?俺にそんな酷い事ができるのか?
「ユラ、いこう。」
俺はユラの手をとり急ぎ足で生物棟から出ることにした。
「空の玉座、実にナンセンスだ。地政学上帝国は強くあり続けなければならない。その為には停滞などもっての他だ。」
彼はそう吠えた。
「...天下を敷くか。」
最強の者が国を継承するのだ。皇帝最期の言葉、とされているものであり、また最悪の言葉だ。多分、これがなければアルバートはこうも野心を剥き出しにして動く事はなかっただろう。
誇り高き継続戦争の大英雄、気高く勇ましきナルバス=マリンポリスラインのコンキスタドール、北フランク総督府の立役者。その武勲は彼を玉座に導くものたり得るのだ。
「危ない人、でもああいうの結構モテるよ。」
まぁ、そうだろう。だってあいつのいい。本当に上っ面だけなら秀才かつ人格者であり、高身長イケメンだ。そして何よりルートヴィッヒ家次代当主である。モテないはずが無い。
「ユラは彼のような男が好みかい?」
「あと、私の経験上言うけど、案外酔いやすいし冷めやすいよ。」
「しょうもない奴だ。」
そうこうしている内に中庭に出た。このまましばし歩いて右に曲がると正門がある。そしてここ、生物学棟のすぐ側には初代学長の像が建てられていた。
その像には、所謂名言とするものが彫られている。瞳の海を築けど、未だ閃光尽きることなく。
「はぁ...この前すぐ酔ってめんどくさい絡みした後に、冷めてきたとかいってさ、それでまた飲んだのだれ?」
ハワード=二グラス大学初代学長、瞳の魔法使いモニス・ヴィクトリア=フリーマン。彼女は勇者であり初代皇帝、ヴィルホーエン・フォン・ツォレルンと共に魔人と呼ばれる人間と魔物の混血、つまり悪しきものを打ち払い、それにる悲しみが産まれない世界を創った。
言ってしまえば魔人の完全なる殲滅。彼らは魔人という一つの種を絶滅させたのだ。
「俺は覚えていないな。」
「あ、兎だ。」
純白の冬毛、魔法動物界兎形目ウサギ科ノウサギ属カンジキトケイクイマ。その名、樏兎形食魔が表す通り、魔力を持つ植物を食うカンジキ兎だ。
「カラベーこいつめちゃくちゃ可愛い。」
大学の庭にいるカンジキトケイクイマは人慣れしており、このように撫でても噛まれたりはしない。それは此奴らの集団が人間は安全であり、また給餌器であるということを理解しているからだ。普通のウサギなら、このように部外者であるユラが撫でることはおろか、そもそも近づくこともできないだろう。
通常種であるカンジキウサギと比べ、カンジキトケイクイマは高度な知性を持つ。
「ほんとだ。ちょっと待てよ。」
魔法植物を食らう生物共通の特徴として、高度な知性を持つというものがある。
「ほれ、卑しい奴め。可愛いけどな。」
こんなこともあろかと、という感じでポケットから短冊切りしたニンジンが入っている袋を取り出した。
彼はこの大学の庭でカンジキトケイクイマを放し飼いにしてることを知っていたので、大分安易に想定できたこんなことだ。だって、ここにトケイクイマ放ったの彼なのだから。
「あ、ニンジンまだある?私も餌やりたい。」
奴らは自分がどのような立場であり、そこでどのように立ち回れば自分達の益になるかを、本能ではなく知識として知っている。これはイルカやカラスのそれに近い。
そして奴らはその知恵を利用し、人間を給餌器に変えるのだ。そう、ちょうどしゃがんでウサギに餌をあげてる彼女のように。
「あるよ、ほら。」
二つあげたニンジンのうち一つは白い中に消えて、もう一つは彼女の口の中に消えた。まるでウサギが2匹だ。そして共通するのは、何方とも腹が立つくらいに賢いことだ。
しかし、このウサギ用に用意したニンジンを食うという行為は常識に欠けるものであり、彼女の計算によるものではない。これは彼女の生い立ちに由来するものだ。
「焼いた方が美味いだろ、それ。」
鞄の中の袋から粒を取り出し、右手の人差し指と中指の間に挟んだ。この粒は火起こしの魔術の魔術触媒だ。魔術触媒とは魔法という現象の応用である魔術の発動をより簡易にするものであり、単に触媒と呼ばれたりする。
例えば火を出すというごく一般的な魔術、これを発動するには、その魔術の発動に最低限必要な魔力、燃えるという現象を理解する為の基本的な科学と物理の知識、この2つが必要だ。一応詠唱と印というものもあるが、詠唱は絵で言うアタリと戦争で言う宣戦布告を兼ねたようなものであり、また印は説明書のようなものだ。使うだけという一点に絞るのならその二つは必要がない。
しかし触媒がその場にある時、それは異なる。その時においてのみ魔術の発動条件は、その魔術の発動に最低限必要な魔力のみとなり、さらにこの最低限必要な魔力すら減少する。
つまり触媒とは非常に便利なものなのだ。その証拠にこの火起こしの触媒は世界中のありとあらゆる台所に置いてある。
「ほいよ。」
粒を空中に投げ、そして握り潰す。すると掌から火が現れた。
帝国魔術法第3条4項、魔術を使用する際、ファイア級の魔術を除き術師は安全のため必ず詠唱をしなくてはならない。
「いつもありがと。」
彼女に魔術は使えない。たとえ触媒があってもだ。その要因は二つある。
一つは彼女の怠け癖である。魔術師は勤勉でなくてはならない。それは魔術師の源流が天文学者だからだ。古来の魔術師は理解できぬ魔法という現象に、暗い満月のほうき星、或は深い海の皇帯魚を見出したのだ。未だ暁滲む空、若しくは黎明月明かりの水面にて、確かに、静か煌めく水星が如く。よって、魔術は本来戦う術ではなく、学問であり、発明であり、閃きであり、大海と星の啓示である。なればこそ、怠慢はもっての外だ。
そして二つ目、Y.S.の性質によるものである。Y.S.は魔力を拒んでいる。彼女がY.S.を宿している間、彼女自身の魔力は数にして200分の1程度に絞られる。
「どういたしまして。」
そして、もう一つの像が目に入る。ナフル・ニール・マーキュリーだ。
「貸し一つだ。」
原初の魔術師、偉大なる水星、ナフル・ニール・マーキュリーよ。焼き爛れる星の落とし水子、脊髄は川、心臓は流れ、脳は知識。
全ての魔術師は探究者として水星を目指す。光芒、その叡智を得た者こそ、偉大なる水星であり、マーキュリーという魔術師最大の栄誉を賜るのだ。
しかし、水星を垣間見た者は彼を除いて存在しない。
「いこっか。」
焼いたニンジンを食べ終えた彼女がそう言う。立ち上がるその時、一瞬にして彼女の眼は鋭くなった。いかにも仕事モードという感じだが、別に彼女はそんな人間ではない。真面目にやりますよ。と俺に対してジェスチャーしただけだ。彼女は真面目に見せかけた不真面目だ。別にそれ自体に問題はないし、こういう性格の方が俺はやり易い。それに根っから真面目な人間とは馬が合わない。
「おーけー。」
「あ、チュロス食べたいチュロス。いいでしょ?」
2年前、イベリア聖杯探索の時にチュロスを食べて以来、彼女はこんな調子だ。どうやらお気に召したらしい。彼女風に言うと、めちゃくちゃ美味いから好き、と言うことだ。
「いいね。俺も食いたくなってきた。」
「じゃ、それなら早くいこ。楽しみだな〜。」
「そうだな。」
大学の正門を抜ける。煉瓦造りの街並み、そして一際目立つ二本の尖塔が聳え立つゴシック様式の教会。
「あ、教会に寄っていいか?」
税関前星母教会、巷ではそう呼ばれている。税関の前にある星母教会だからな。
「ミシャ?」
鐘の音と水星の壁画、魔法は大衆に侵食し、もはや文化の一つであり、文明という大河のその一部となった。その象徴がこの星母教会である。星が落ち、そして人々がその恵みを享受し始めた時、多くの教会はステラを内包した。神の奇跡を信仰する彼らにとって、それを受け入れるに拒絶する理由が無かったのである。
「それもある。あとそれと、触媒が切れそうなんだ。」
第3サンクトゥス・グラマトン3章十字架魔術。本来であれば触媒があっても、この魔術の性質上、これを発動するには極めて高度な知識が必要だ。しかし教会の魔術師は信仰を利用することである程度それを解決しのだ。現象を8割方理解し、残り2割は神の奇跡として処理する、これが信仰の力だ。もちろん、現象を完全理解した方が再現性は高くなり、その効果も跳ね上がる。使えない完璧よりも使える半端ということだ。
「十字架のやつ?」
教会は神代の奇跡を第1サンクトゥス・グラマトンと定め、歴の始まり、若しくはさらに昔の古代の奇跡、それを第2サンクトゥス・グラマトン、そして教会の魔術師が開発した魔法を第3サンクトゥス・グラマトン、もしくはステラ・グラマトンとした。
聖なる文字、星なる文字。教会とは、そういう所だ。
「そう、それ。」
大学と教会の距離は徒歩5分程度でありさほど離れていない為すぐに着いた。
内観はゴシック様式の外観とは打って変わってバロック様式の厳かな雰囲気を漂わせる。
祭壇画の前に佇む一人のシスター。
「よぉ、久しぶり。」
修道服に隠れた金の長髪、星のような碧眼。はっきり言って彼女は美人だ。まぁ、修道服が似合うということは、何着ても似合うということだしな。
「あら、時間通り。久しぶりねカラベラス、あとミツキも。」
彼女の産まれ育ちはヘッケン州のフランクブルクだ。つまり彼女は彼らの同郷の友である。
「ミシャ、どう?最近。いい男見つけた?」
幼い頃からミーシャとユラは対照的だった。幼い頃のミーシャはいつも泣いていて、まっすぐに感情を出す少女であり、その逆ユラはいつもニコニコしていて、まるで人形のようだった。そして今のミーシャは敬虔なシスターであり、その逆ユラは不真面目な影喰み師だ。
「別に普通よ。」
彼女は長椅子に置いてあった、学術本サイズの本を持ってきた。これが教会の十字架魔術の触媒である。本のページそのものが触媒であり、5種の魔法をそれぞれ50回使えるほどの触媒がこの本に刻まれている。値段は500ローマニアマークだ。
記憶が正しければ昔、免罪符とセットで400ローマニアマルクとかで売られていた気がする。
「それに夜道で貴方に勝る人は教会には居ないの。」
彼女はそう言いながら彼に本を差し出した。
そのセリフに彼女も言うようになったなと、彼女の成長に驚かされるような気持ちもあったが、それ以上に俺は彼女を捨ててしまったことに対する罪悪感を思い出させた。
「君のような女性が居ない夜道で他の男に勝ったとて、僕には何にもならない。」
ミーシャ、君は優しすぎた。君には自分の幸せのために他の全てを破壊し尽くすような、邪悪なインスピレーションがなかった。だから未だ君の心は泣いている。自分の自由のため、大勢の他人を虐殺する結果となったこと、友人にその行為の引き金引かせたこと、そして自分がのうのうと生きて、償いすらも出来ていないこと、君は優しすぎたから、それらの要らぬ責任に心が苛まれている。
そして俺はその、物語に出てくる、典型的な悲劇のヒロインな君に飽きて、君を捨てた。君の悲劇にピリオドを打ったのは俺だったのだ。
「今更寄りを戻すのは無理。」
本の上には桑の木で作られ、イチジクの葉が描かれた栞が置いてあった。
神への渇望による産物、奇跡の贋作とも呼べる十字架魔法は教会の恥部であり、それはイチジクの葉と呼ぶに相応しい。
「フラれちゃったね、カラベー。」
「残念だ。」
自分の鞄を漁り、抗いの聖典を取り出した。そう、これこそが教会の十字架魔法の触媒の正式名称である最初にこれを抗いの聖典と呼んだ者は酷くロマンチストな人物なのだろう。これは聖人の奇跡の贋作としての一面の他に、神代への対抗策という一面も持っている。まさしく、抗いだ。
「返すよ。」
表紙と数ページだけ残った、痩せた抗いの聖典を彼女に返却することにした。
「助かるわ。はい、返却代。」
抗いの聖典の作成にかかるコストは中身6割表紙3割その他1割と行く具合だ。だから表紙を返却すれば抗いの聖典3割分の価格を受け取る事ができる。
「今夜、影踏みをする。僕たちがしくじった場合、おそらく君を喰いにくるだろう。」
彼女は高い聖性を持っている。聖性は言うなれば夜獣の幼体であり、その幼体から発せられる一種のフェロモン的なものは成体を惹きつける性質を持つ。つまり彼女は一般人よりも夜獣に襲われやすいのだ。
全ての夜獣はより大きく、より濃い影になろうとしている。そうでなければ太陽にの光に塗りつぶされてしまうからだ。
「ふーん、そう。私を火種にするの?」
「違う。逃げろと言っているのだ、僕は。」
これは俺に残った彼女への最後の情だ。死なれては夢見が悪い。それに彼女の聖性が羽化したとき、その夜獣に勝てる自信が俺には無い。きっと、恐ろしい獣となる。
「布団の中で明日死んでもいいと思える日を過ごす生き方は良いものよ、気楽でね。」
その言葉を聞いて俺は少し安堵した。
「それは精神的な贅沢者にしかできない生き方だ。多くの人間はより良い明日を求めている。」
彼は驚愕した。泣いていた彼女はもう居ない。彼女は明日という日に興味を失ってしまったのだ。だから自分の生死に興味を持ってない。閉塞した可能性、諦観の極地に至る精神である。
「貴方は大勢の他人を考慮する人間だったかしら?」
「夢見が悪い。それだけだ。」
「ね、じゃあさ、ミシャに開いてもらうのはどう?」
魔術には現象の再現という一面がある。なればこそ、他人、そして世界と関わり、自分という存在を理解できたのならば、自分の心の内を開き再現することが叶うだろう。
魔術の一つの完成系、人間が人生という長い旅の中で己を見つめ、そして己という存在を理解したときに至る、一つの終着点、自己再現術式である。
しかし、開くことのできる魔術師は少ない。なぜなら心という、刻々と変化する流体的な性質を持つものを、揺らぐことなく固定し、そしてそれを正確に捉えなければならない。これができるようなる頃にはとっくに老耄し、そもそも魔術の行使が厳しくなっているからだ。
「その方が楽だが...第一ミーシャにメリットがないだろう。」
「メリットはあるわ、バカね、カラベラス。」
ミーシャは俺の耳元に口を寄せる。
「本当にバカね、◻️◻️◻️。」
彼女は彼の本名を囁いた。わざと小さな声で、ユラに聴こえないように。
ユラは彼の本名を知らない。これは彼が彼女に教えたくなかった訳ではなく、彼女が知る必要がないものであるからだ。
「その名前は意味を成さない。既に捨てた名だ。」
「じゃ、ミツキにも教えてあげたら?貴方の名前。」
ユラにこの名前を教える?そんな事はあり得ない。あってたまるものか。
「あの名前はカッコ悪い。僕にはカラベラス・アンサングの方が似合っている。」
「私は良いかな、本当の名前なんて知らなくて。カラベラスはカラベラスでしょ?」
「あぁ、僕は僕だ。カラベラスでしかない。」
ミーシャが不機嫌そうな目で彼を見ている。大方彼女はこう言いたいのだろう。
貴方が自己再現術式を忘れてしまったのは、貴方のそういうところが原因なんでしょうが。
自分を理解しなければならないあれは、自分を見失った時に行使できなくなる。過去の彼、カラベラス・アンサングではない彼は自分というものがどういうものか理解していた。だが今になってその自分を忘れ、自己再現術式を失った。
しかし、それは悲しいことではないし、むしろ喜ばしいことでもある。凝り固まった固定された自分が溶けて、流動的な自分になる。すなわち、成長の再開だ。
「そう。貴方が良いならそれで良いわ。」
「で、影踏みの件だけど。」
彼女はポケットから小さな袋を取り出した。まるでティーバッグのようだ。
「明日早いから私はいけない。だからこれを渡しておく。」
「もうわかってると思うけど、その中には私の体毛、皮膚、爪、血が入ってて、袋にある魔法陣は自己再現術式のやつ。」
魔法陣というのは構造式のようなもの、と言うよりそのものであり、帝国魔術師法28条5項によって、触媒を袋や容器で保管する際は魔法陣を表記することが義務付けられている。
「自己再現術式の触媒か。やはりこれは恐ろしいな。」
自己再現術式の触媒化、彼女はあえてこれを学会で発表していない。
彼女曰く、自己再現術式は一時的に世界を自分色に塗り潰す行為であり、本来慎まれるべき行為だ。極少人数の選ばれた個人がそれをやるのは別に良いが、触媒による一般化によってその魔術が多くの人間に使うようになった時、世界のシステムがどうなるかわからない。だそうだ。
「大蛇が亀を支え、甲羅の上の像が世界を支える。又は天の蒼穹を支えるアトラス。人間は未知の中に生き物という不安定的な要素を見出す習性がある。だから生物がエラーを起こすように、世界もエラーを起こすかも知れない。言語化してみれば安い恐怖ね。それに不確定的で、あまりにも宗教的だわ。」
「自己再現術式によって生じた世界の傷を塞ぐ過程で、癌細胞のようなエラーを引き起こす可能性があると。」
今の技術では癌の仕組みはわかっても、治療法を確立することは叶わない。我々の科学は魔法によって時代を追い越したのだ。だからこそ、解明しきれていない道具で未曾有の大災害を引き起こす可能性もある。それこそが魔術というものなのだ。
「ともかく、これは使わせてもらうよ。」
香水で無理やり隠しているが、袋の中の血生臭さは消せていない。新鮮な血を入れたのだろう。であれば、これが触媒として使用できる期間は1週間ほどだろう。
「詠唱と世界構成は覚えてる?」
彼女の世界はマイナスをゼロに、プラスをゼロにする構成だ。それは一人の凡人の空虚な人生、それを再現した世界であり、つまらないが故に万能であり、シンプルであるが故の機能美を持っている。
「あの構成故かな?あんな短い詠唱、忘れる方が難しいよ。」
概念レイヤーのみで構築された世界、圧倒的虚無、最も澄んだ地平線を忘れるはずがない。
「貴方だけよ、私の生に意味を見出してくれるのは。」
自分によって塗り潰される世界は自分の生き写しであるに等しい。それを意味がないと、そう断ずるのはお前の人生に何の意味があろうか、そう言うに等しい。それは酷なことなのだろう。
「たとえどんな世界でも、開くことに意味があるんだ。」
本来これは戦いの術ではなかった。これは、自身の今まで人生を他者に開示する魔法である。故に、これは心を開くに等しい。だから開くと言うのであり、その開かれた先にあるものより、開くという行為の方が大切なのだ。それを戦いの道具として使う、これを最初に編み出した人間の想いは踏み躙られたと言って良い。これは殺すための力では無く、分かりあうための手段だ。
「詭弁ね。自分の世界を否定した貴方が、誰かの世界を肯定するなんて。」
「あれだけは訳が違うだろう。あんな世界は...」
「そんなことないと思うよ、私はカラベーの世界、綺麗だなと思うもん。」
自分の世界を褒められるのは悪くない。自分の人生そのものを肯定されているような気分だ。それだけで俺の人生に意味があったのだなと思える。が、それとこれとは別だ。破壊と、その後の荒野だけが意味の人生ならば、とても虚しいことではないのか。
「綺麗かどうかの話では無い。」
「あれは、否定されなければならないのだ。」
「カラベラス、黙って。」
黙れ、黙れだと?自分の世界を一番嫌っていた君がいう台詞なのか?君は自分の世界を、自分自身で虚無だと、そう否定した。
果てなき白色のタイルの上、ただ青いだけの空を眺めてそう言っただろうに。覚えているぞ、君が泣いていたことを。
「すまない。僕が悪かったな。」
平謝りをしてから袖を捲り銀色の腕時計を見つめる。時計の針は丁度12を指している。これで言い訳つくだろうか。
「あぁ、それとそろそろ時間だ、ユラの仕事が入ってる。」
わかりやすい逃げね、彼女は内心そう思っていた。
「カラベラス、貴方は予定通りシャールカの離宮に行きなさいな。」
彼はルルカルル・ジョンドゥから、この度のミハイル霊廟探索の功績を讃え、シャールカの離宮で祝賀会をという感じで招待状を受け取った。
「行けと言われれば行くが、どうも胸騒ぎがしてな。」
帝国の軍事を担うのがルートヴィッヒだとすれば、ルルカルルは帝国の警察機構を担っている。
「ルルカルルの役割はあくまで帝国の秩序維持よ、飼い主に成り代わろうとする犬がいるかしら。」
「飼い主に成り代わろうとする犬はいないが、他の犬を噛み殺さんとする犬は居るだろうな。」
基本、このような祝賀会は経済を司るノイセルか行政を司るデカルがやるべきだ。
「ルルカルルに自我は要らない、貴方はそう言っていたわね。」
「ルルカルルに限らないよ。ルートヴッヒもそうだ。」
「欲張りね、貴方は全てをこの手に掴もうとしている。もし貴方が皇帝になろうものなら、この国はディストピアになるわ。」
世迷言を、俺が皇帝だと?皇帝とは覇権国家ローマニア帝国の唯一支配者であり、その意味は世界を揺るがす威光だ。俺がそれに相応しいものか。ローマニア皇帝は絶対的正義の哲人でなくてはならない。ローマニアという国家が、中央ユーロ州という不安定な位置に存在しつつも、ユーロ州のほぼ全域を踏み潰し、嘗ての大アルビオン帝国に匹敵するほどの国力を持ってしまったからだ。
「あくまでこれは帝国が帝国として存在し得るための最善手だ。帝国が流動的な国家として存在するという条件下なら色々異なるさ。」
「この血塗られた国にその未来があると思って?」
「この国には衝撃が必要だ。この国を根底から覆す大きな衝撃が。」
「やはり貴方は皇帝になるべきね。」
「絞首台には立てと?」
「いいえ、神による独裁政治、それが貴方ならば演じ切れるでしょう?」
「大衆が望み、やれというのなら、神になって見せよう。しかし、現実問題としてまず明確に人である僕が神聖を示すのは難しいな。」
「ならその指輪を使いなさいよ。水星の光芒を得るのよ。」
墓荒らし、いや、正確には火事場泥棒か。左手の小指に嵌めた指輪、その装飾としてつけられたサファイアに似た蒼い宝石。これは単なる装飾では無く、触媒だ。
ナフル・ニール・マーキュリーの遺産、''水星''の触媒。魔法史史上最も高度な魔術である''水星''、それを再現するための触媒である。
''水星''、曰くそれは、有りとあらゆる全てを破壊する力、地を飲み、海を煮たたせ、天を焦がす。
しかし彼にはそんな恐ろしいものには見えなかった。だって、この触媒に刻まれた言葉は優しいものだったのだから。
「どうかその魂に弔い寄る辺がありますように。これは神に昇華するための手段では無いと思うんだけどね。」
そしていつか、その御心が母バルカンの愛に抱かれるように。ナフル・ニール・マーキュリーはロマンチストなのだろう。
「じゃ、そろそろ行くよ。じゃあね、ミーシャ。」
ナフル・ニール・マーキュリーの創り出した魔術は多々あり、その中で最も高度とされ、彼を除き再現不可能だった魔法。であれば尾鰭背鰭をつけられ超破壊的な魔法とされたり、聖典や星典に記されるような水星と同一視される事も無理もない。
彼女は職業柄、この''水星''とあの水星を同じようなものとして見てしまったのであろう。
水星は人導きだが、"水星"は単なる魔術だ。
「そう。さようなら、また今度。」
「あぁ、また今度。できれば、シャールカの離宮で。」
彼は封筒を取り出して彼女に渡す。彼から彼女に宛てた祝賀会の下会の招待状である。
ルルカルルに伝わる古いしきたりに倣い、シャールカの離宮での祝賀会は上会と下会に分け2回行われる。1回では見抜ける物も見抜けないと言うことであろう。
「は?私に噛めというの?マーキュリー派、いや星教そのものをこの争いに巻き込もうというのかしら?」
帝国で力を持つ組織はデカルやノイセル、ルルカルル、ルートヴィッヒ等の貴族勢力の他に宗教勢力が存在する。その宗教勢力のうち、主に力を持っているのは国教である星教である。
「あぁ、これは君にとっても良い話になるだろう。」
「デメリットが大きすぎる...」
「君の願いが叶う唯一の方法だ。」
「考える時間を頂戴。これは、あまりにも、あまりにもだわ。」
「結論は急いでくれよ。私はそこまで我慢強くは無い。」
「私って、演じ切ってよ、せめて....いえ、なんでも無いわ。ともかく、考える時間を貰うわ。貴方は貴方で上手くやりなさいよ。」
「あぁ、わかってる。」
さて、次はユラの影喰みか。客はヨーゼフ伯爵だったか、1ヶ月前のチューリヒ反乱の際に精霊に憑かれたとかで。
精霊は宿主魔力を喰らい魔法として現実に作用するための力を蓄える。やがて宿主の肉体を破壊して成体となり、成体となった精霊は子種をまた新たな宿主に植え付け、種を拡大させるのだ。
「ねぇ、カラベー。先に朝ごはん食べよ。」
「そうしようか。」
プラニンは仮の王都であると同時に歴史ある都市でもある。あそこに見える城、プラニン城がその印だ。ウィンネスなき今、プラニンこそが帝国の歴史を表すと言ってもいい。
「前来た時よりも人多いね。」
これは彼女の感覚では無く、事実だろう。なぜなら今日は1月15日、建国記念日の3日前だからだ。帝国50歳の誕生日、人間で言ったらまだ幼子だろうが、それでも帝国はアルビオンと地中海周辺を除いた全ユーロの支配者である。
「そりゃまあ建国記念日前だしな。」
「そうだったたんだ。覚えていないよ、そんなの。」
「じゃあ来年も王都に来よう、そうすれば憶えていられるだろう。」
歴史を知って多く得する事はないが、損をすることはないだろう。彼女にもそれが伝わればいいなとそう考えている。
「それは、嬉しいな、私。」
「あぁそりゃ、俺も...」
俺が言いかけた一瞬、宇宙の瞬きのような光芒を浴びる。Elder Star(旧い嘆きの星)、人差し指の頭部を持つ藍色の巨人達が手を繋ぎ円を成す。緋色の太陽の七つの口、そこに宿る瞳海が観測者たる俺を見つめる。
空の割れ目から天の川、太陽が崩れ、内部から小臼歯の形の月が現れた。
月に縦ヒビが入り、黒い液体が上に滴る。その液体は一つの形に固まった。白鯨の頭に9つ蛇の目、獅子の立髪、女の上半身に3対6枚の翼、バオバブの木のような下半身。そして頭上には燃え盛るエンジェルハイロゥ。
それらの現実性の幻覚、宇宙的思索は潮の香りと共に風に流され、歪曲し、やがていつもの、何気ない日常に戻っていく。
「カラベー?」
夢でよく見る景色だが、こうして突然現実に現れるとなるとやっぱりびっくりする。
「大丈夫、大丈夫だ。」
でも今のは前回と違う。前回は太陽が見えた時点で元の視界に戻っていた。
「一旦ベンチ座ろうよ。」
別に俺はあの風景に影響されている、というわけではないのだ。あれは何ら特別なものではない。慣れてしまったのだ、あれに。
俺にとってあれは、雲が犬の形をしてただとか、雨上がりの空に虹が掛かっていただとが、それらと同じく、あれは日常の小さな偶然に過ぎない。
「だから俺は...いや、そうしようか。」
二人でベンチに腰掛けた。一月というのに汗が止まるない。
「膝枕しよっか?」
「いや、いい。」
耳元でささやかそれは溶けるような、蠱惑的な声を彼はすぐさま否定した。これを受け入れてしまったら彼は本気で彼女を、母親の代替品として扱ってしまうと思ったからだ。
このドロドロとした感情をぶち壊すには俺はどうすればいいのだ。
「釣れないなぁ、ほんと。ミシャだったら受け入れたのかな?もしかして。」
彼女はあくまで彼女が理想とする俺が好きなだけであり、たまたま俺がそれを演じることができだけに過ぎない。
「ミーシャは俺を愛しているが、好意を抱いていない。」
「それはとても身勝手なことだよ。」
「愛を強要する方が身勝手さ。」
「ならせめて、愛させた責任を取るべきだよ。」
責任?勝手に俺に理想を抱いてそれを愛して、押し付けがましいよ。俺にだって俺の都合があるんだ。
「その言い草、まるで俺が悪者みたいじゃ無いか。」
「悪者だよ、貴方は。」
彼女は立ち上がり、歩き出した。
「どうしたの?」
なかなか立ち上がらない俺を不思議に思い彼女はそう言った。
「いや、なんだ。アルバートならどうするかなって。」
自分で言い出しておいてあれだが、その答えは俺がすでに持っていたな。
あいつも俺と同じことを言うだろう。あいつは他人に対する興味が希薄だ、俺よりも。
「あの人、そう言うのに興味あるの?」
「ある、はずだ。」
「...どうしたの?カラベー。」
周囲の魔素が揺れている。
つまり海眼で魔素を観測できるということは魔力として流れが作られているということだ。
「この揺れ、何処かで...」
流れが生まれる時、大きく分けて2つのパターンが存在する。言わずもがな一つは魔法の発生時、そしてもう一つは天体の運動によるものである。魔素は電磁気力の影響は受けないが重力の影響は受ける、よって、天体の運動によって流れが編み出されるのだ。
「...日蝕?」
太陽と月、地球、それが3つ直線に並ぶとき、相互の重力の影響によって魔素が流れを生む揺れのパターンとなる。
「あ、見て、日蝕だ。」
「日蝕?日蝕だと!?突発的な日蝕があり得るものか!!」
彼らの足元、そこに2、3センチくらいの黒い穴、いや見えない黒い何かに地面が捻れ、吸い込まれていく。まるで排水溝に吸い込まれる水のように。超過密状態の魔素が光を歪曲させることで空間が捻じ曲がるように見える。
魔法という科学の中で、最も本来の意味の魔法に近い現象、超過密魔素空間収縮現象だ。
「ユラ!」
吸い込み、いや落下の範囲内に居る場合、これから逃げることは不可能だ。
内臓に浮遊感、そう、あの小さな黒い何か、事象の地平に向かって落ちてゆく、身体がスパゲッティのように引き伸ばされ視界が赤くなり、やがて何も見えなくなる。
「いでっ。」
彼女は簡単に着地したが、彼は転んだ。体感する重力の向きが急に変わる感じ、やはりこの着地は難しい。
落ちた先は教会の中、細かな差異はあるが、この内観はおそらく花と聖母の大聖堂と聖シメオン教会、そして他幾つかの教会の複合である。
「自己再現術式だね。これ。」
これは己の心を開く術、だからこそ、その世界を見た瞬間に術師がこの世界に至るまでに何を思い馳せたのか、それが自動的に脳、いや心に入力される。拘束せし結束の束縛の戒律(オルビ=アンチェイン)可哀想に、ずっと閉じ込められてきたのだろう、ただこの世界を築く為だけに。
「本来窓として造られる部分が壁になってる。壁と屋根、床が概念殻になっているんだろう。」
無数の部屋のみで形成された世界というところか。壁と天井と床が世界と世界の外を隔てる殻になっている。
この殻は破壊が不可能だ。なぜなら世界の外という概念はそもそも存在しないという、世界そのもののルールと言えるもの、それに辻褄を合わせる為である。
「世界の大きさが無限のタイプ、尚且つ物理法則は部分的に適応か。」
この殻、概念殻は実体を持った概念である為、体積がゼロだ。正確に言えば厚さがゼロという方が正しい。ともかく、体積ゼロということは質量もゼロ、エネルギーもゼロということである。よって、この世界は閉じるまで無限に部屋を造り続ける。
つまり世界が無限に広がり続けた結果酸欠になり死ぬか、世界を閉じさせるかの勝負である。
「あまりにも非科学的なのは苦手なんだがな。」
「来るよ、カラベー。」
どうやら、この世界の術師は彼らに勝つ自信が無かったらしいな。夜獣をここに引き入れやがった。
「やるか...」
背後の扉が最も簡素で直線的な軋む音、それは彼らを視認した。黒い靄を纏い、首と手足、胴体が異様に延伸され、修道服を纏った四足歩行のヒトガタ。およそ6メートルと言ったところ。そして長い首から下げた十字架のネックレスが印象的だ。
「ここで使うのは翻意ではないが。」
右胸ポケットから握り拳サイズの袋を取り出した。そう、ミーシャの触媒だ。
「開け。」
宙に袋を投げてそう唱える。
「最も簡素で直線的な地平線」
袋は見えない何かに変わり、さっきと同じように超過密魔素空間収縮現象を引き起こした。空間そのものを捻じ曲げ、小さくしていく。
そこに吸い込まれ、再び視界が赤となり、やがて何も見えなくなる。
「俺は好きだな、この広さ。」
ただ青いだけ、雲も太陽も無い味気ない空、無数のタイルのみで形成された平らな地面、そして遥か向こう、この世で最も直線的な地平線。今はただ、この何も無い世界が美しい。
「何にも無いね、本当。」
あの生き物が纏っていた靄はさっきより薄くなり、あの生き物の姿がはっきりと見える。鮮やかな金髪、延伸された首あら生える、六本の小さな腕は十字架ネックレスを大事そうに握り、あの細長い左手の薬指には指輪が嵌められていた。しかし、顔の上だけはまるでベールのようになっていて見えない。
「弾く色付与鬼蜻蜓」
右手を銃のような形にしてそれを唱える。ショット、即ち最もオーソドックス且つ基本的な魔術、古来より使われてきた、魔力を指先に溜め、一つの塊とし、放つ、ただそれだけの技、ただ傷つけるだけの魔術、それに東洋の僧兵がオニヤンマに倣い改良したもの。
それは素早く、そして鋭く、その獣の脳天目掛けて飛ぶ、そして獣はその塊を最も容易く、そして踊るように避ける。
「懐郷病の幽霊」
流れを逆転する魔術、さっきの塊は軌道を遡り、再びあの獣向かう。今度はしっかり後頭部を撃ち抜き、突き抜けた。頭の破片は黒い炎をあげて灰となって空気に消えた。
本来頭があった部分、そこには一つの大きな眼、エメラルドの海眼、そしてその周りに無数の向日葵が咲いている。
「29日後の夜、あの顔を見せて」
指先に帰ってくる直前にそれを唱える。塊の流れを持った魔力に対して、特定の条件を満たした場合、自身を中心とした公転軌道を強制する魔術。
これで獣は真横からしばらく真横からの侵入が不可能となった
獣は大きく飛び上がり、上から襲ってくる。それに合わせて左の胸ポケットから小さく折った2枚の紙を取り出した。教会の十字架魔術の触媒だ。
「燃える十字架」
2枚の紙を持った手で十字架を切り、それを投げる。二つの燃える十字架が空中に出現し、遅いかかる獣の両手を空中に固定する。まるで獣は磔刑に処されるが如く空中に止まった。
「ユラ、動きを止めろ。」
俺はユラにそう命令した。こういうのは初めてでは無いので、ユラも何をするべきか知っている。
「淡緑と白、私を喰わせ、私を産む。」
ユラの5本の指は鮮やかな細長い触手のようになって芋虫の様に蠢いてる。
獣は両手が焼き切れて地面に落ちた、一つ目は俺を睨んでいる。
「厳拳!」
腕の筋肉の強化してそれで殴る原子的な魔術、それ故に扱い易いが、性質上2日3日は筋肉痛は避けられない。
一つ目に向かってまっすぐ右ストレートをぶっぱなし、獣を吹き飛ばした。そしてその吹き飛ばした場所はちょうど先ほどの塊の軌道内。
「三体成す羽衣」
塊がやつの腰にぶつかった瞬間にそれを唱える。さっきの塊は砕け、塊の軌道上にその砕かれた欠片が散らばり、少ししてから消えた。
獣は上半身と下半身に別れ、すかさずユラがその獣の上半身に向かって走り、あの右手を傷口に差し込む。数秒差し込んで右手を離す、するとユラの右手はいつもと同じ様な、普通の人のものになっていた。
獣は傷口から無数の蛇を生やし、それを両手と下半身とした。夜獣とは数多の生き物の特徴を持つ、完全性に近しい生き物だ。
「止まって。」
ユラがそう言うと獣は静止した。精霊の力だ。
「やるか。」
黒色のチョークで地面に半径50センチばかりの円を描く。そしてその円の中心に大きな円を描き、そして7つの小さな円を直列に並べる。そしてその50センチの円の外側に半径100センチの円を描く。
「ユラ、来て。」
自分の指を小さなナイフで切りつけ、自分の血を中心の円に垂らす。
「血ね、今行く。」
次はユラの指を切りつけ、ユラの血を中心の円に垂らす。
雄の血と雌の血が混ざる。つまりこれは雌雄同体、完全性を表している。
「点を繋ぎ線と成し。」
その陣の中心、円が並んでいる方を向きながらそれを唱える。
「線を繋ぎ円と成し。」
陣は赤く光り、陣の周りに光の粒が現れる。
「円を集めて球と成し。」
光の粒は最外周の円に沿って半球を成した。
「球を並べて扉とす。」
巨大な一つの円と一つ目の小さな円の間に青い点が現れる。
「第一サンクトゥスグラマトン聖釘擬き」
雷の槍、言うなれば純粋なエネルギーの集合体がその点から現れ、彼はそれを掴む。
この陣は自分では再現できない魔術を無理やり再現するための陣。足りないエネルギーを何処から持ってきて無理やり再現する。その過程において知識は必要ない、何故なら結果だけを馬鹿みたいなエネルギーで再現しているからだ。まさしく荒技、法外、邪法である。
そしてこの槍は、古の教会の魔術師が聖人を刺した釘の再現を試みた失敗作の一つ。突き刺すことで対象が生み出す魔素の揺れと真逆の揺れを発生させることで、流れを消失させる物、奇跡の聖遺物を望んだ代償に奇跡を封印する聖遺物擬きを創り出した、まさしく失敗作である。
「熱いな...。」
ゆっくり、ゆっくり彼は獣に近づく。なぜなら今持っている槍は俺の身の丈には到底会わない物、持っているだけで身体を蝕む。その証拠に今、彼は手を火傷しながら歩いている。まるで熱した鎖を持って鉄球を引き摺っているかの様。
ユラが彼の背中を押している。今はただ、ありがたい。彼はその簡単な単語しか思考できない状態に陥っていた。
「終わりだ。」
左手で獣の身体を掴み、胸にその槍、釘を突き刺す。獣は咆哮するが、獣の身体は動けない。
「五月蝿いな。」
雷は獣の身体全体に伝播し、獣は黒い炎に包まれていく。その炎に熱さはなく、ただ獣だけを焼いている様に感じた。獣は流れによって身体を成している。だからこそ、この釘でこれらは死ぬのだ。
「カラベーそろそろ!」
彼がその釘から手を離すと釘は消えた。
もう獣は身体を維持することすらできないらしく、崩れる様に灰となり、消えた。
「はぁ...はぁ...閉じろ。」
再び見えない点が現れ空間が吸い込まれていく。しかし、不安は無い。先ほどと同じ景色を見て、そして着地する。
場所はさっきのベンチの前、現実世界だ。
「術師は居ないね、お医者さん行こうか。」
右手は腕の関節まで火傷していた。今になって痛みがやってくる。
「ごめん...ちょっと...」
左脚の力が突然抜け、倒れた。