第一章 八『実家』
目を覚ますと室内は明るかった。寝入ったときの記憶はなく、何が現実で夢だったか分からない。もしかすれば昨夜の出来事は全て夢だったのではないかと、淡い期待を抱き始めていた。始めていただけに、現実は些か遠慮がない。
「起きたか」
未だ耳の奥に残る透き通った声。見覚えのある着物。何もかもが嘘ではないと、そう私自身に訴えていた。絶望だとか悲劇だとか、そんな生易しい言葉では表現出来ない。自分の人生の終わりを朧げながら実感した。
「早く起きよ。今日は休日であろう? 実家へ行くぞ」
「実家? 貴女のですか?」
「お前のに決まっておろう」
彼女の言葉の意味は寝起きの私には到底理解出来ない。どういう思惑で実家へ行くと言うのだろうか。まさか、私よりも先に両親を手玉に取ろうとしているのではあるまいか。時を追うごとに覚醒していく脳内で考え始めれば、仮説は面白いことに次から次へと湧き出てくる。
百瀬家はお終いだ。このまま姫に乗っ取られ、終には滅ぼされるに違いない。一族に恨まれるであろう後々のことを思うと、なんだか身体が地に沈んでいくような感覚を覚えた。
「何か良からぬことでも考えておるのであろう。安心せい。人間など食ろうたことはない」
「それで安心できるわけないじゃないですか」
「元気はあるようじゃ。では立て。私はお前の世話などしてやる気はないぞ」
そう言い捨て、彼女は朝日の差し込む窓辺へと行ってしまった。下から見上げる女性は、陽光と相まって驚くほど美しく視界に映る。あれほどまでに美しかっただろうか。もっとおどろおどろしくはなかったか。そう見えていたのは、全て闇夜のせいだったのかもしれない。
私は姫の背を追うように身体を起こし、頭を搔きながら箪笥から着物を取り出す。さすがに休日まで洋服で居るのは窮屈で、それ故に結局着慣れた着物に戻って来る。新しいものに適応し難くなるということが、年を取ったということなのかもしれない。
「華やかさの欠片も無いのぉ」
畳上に置いた着物を摘まみ上げ、姫は生地全体をじっと眺めていた。箪笥から出した着物は薄緑の無地だ。仰る通り華やかさはないけれど、年相応の色味だと思っている。むしろ少し若いとさえ感じるほどだ。姫は一体どんな物を想像していたのか……。考えを巡らせるだけで少々恐ろしくなる。
対する姫は、化粧こそ違うが、その風貌は遊女屋で働く女性の姿そのものだ。そんな華やかな格好で私の両親に会おうなど、仮に天地をひっくり返したとしても理解し難かった。せめてもう少し落ち着いた装いにしてほしい。そう思いながら姿を眺めていると、意図せずバチッと視線がぶつかった。
「なんじゃ。着物の着方を忘れたか」
「忘れるわけないじゃないですか」
煽り口調のような言葉に私は柄にもなく語気を強めて言い返す。自分らしくない。まるで人格が変わってしまったかのようで、柄も言えぬ恐怖を感じた。この人と居ると体内の歯車が異常をきたす。そんな、感覚的な畏怖。
「ふぅ」
私は息を吐いてから再び手を動かし始めた。襦袢を纏い、摘まみ上げられた着物を半ば強引に手にする。腕を通し、襟元を正して帯を締めれば、俗に言う着流し姿の完成だ。
「では行きますかね……」
けして気乗りはしない。縁談を断っていた人間が急に結婚だなんて、親にどんな顔で、どの口で言えるんだ。出来ることなら言わずに墓場まで持っていきたい。だが、そうもいかないのが現実だった。いずれ分かることを先延ばしにするのは未来の自分の首を絞めるのと同じだ。
「羽織は着ないのか」
「? 着ませんけど」
すると何故か、今度は姫がふぅっと息を吐いた。
「結婚の挨拶へ行くというのに……余所行きでなくとももっとこう、あるじゃろ」
貴女にだけは言われたくない。そうは思っても口に出しはしなかった。彼女にとって今着ている服はきっと余所行きなのだ。仕事着とはつまり、そういうことなのだろう。
「いいから行きますよ」
「なんじゃ、行く気満々ではないか」
私が背筋を丸めながら歩き始めると、彼女はその後ろを兎のようについてくる。装いのことなど忘却してしまったかのように、全身で嬉々とした感情を表していた。
自宅を出て職場を後にすると突然姫が立ち止まった。何事かと思い振り返れば、頭上を見上げながら手を伸ばす謎行動をしている人間が目に入る。
「どうかしましたか?」
虫でもいたのだろうか。姫と言っても所詮は人間。苦手なものくらいあるのだろう。求められた助けを断るほど、私はまだ落ちぶれてはいない。
「もう歩くのは嫌なのでな。ほら、お前も来ると良い」
私を呼ぶ姫の周囲には足の代わりになる物は何もない。これから自分の身に何が起こるのか、私には皆目見当もつかなかった。
「大丈夫じゃ。死にはしない」
姫はこちらに手を伸ばし、安心するよう訴えてくる。これは、私が行かなければ延々と呼び続けるのだろう。仕方がないので、飽きれの混じった溜息を吐きながら姫の横へと向かった。すると見えない存在の気配とともに、軽い足払いをこの身に受ける。視界が物凄い勢いで上を向き、心なしか身体が宙に浮いていく。
「な、何が」
恐怖から空を見ていることしか出来ず、状況を把握することは出来なかった。不測の事態が起こると異師の私でも硬直してしまう。最も、突如足払いを受ければ誰だって同じ状況に陥るだろうが……。きっと私にはそんなこと許されていない。これが仕事中に起こらなくてよかったと、そう思うほかなかった。
「怖いか」
「……怖くなど」
「だろうの。自分の能力で宙に浮く者がこれしきの事で驚くはずもない」
妙に落ち着き払っている姫の様子に、不思議と妖の仕業なのだろうことが予想出来た。きっとあのとき、既に彼女の向こう側にいたのだ。こういうとき、彼らの存在が見えていたらと思う。
「あ、家の場所を伝えなければなりませんね」
私は横に座る姫へと視線を動かし、そのまま地面を見下ろした。目下を家々の屋根が行き過ぎ、砂地の道では小さな点が無数に動き回っている。今の自分がどれほどの高さに居るのか想像することさえ恐ろしい。分かることは、自分で飛び上がる距離よりも高いということだけだ。
「よい。家の場所は既に皆が知っておる。聞くまでもない」
「そう、ですか」
見えない世界で起こっていることなど、只人の私などには計り知れない。だからこそ姫の見ている世界がほんの少しだけ気になった。
「だ、旦那様! 綾人さんがお帰りです‼ それも女性と‼」
乗っていた妖に振り落とされるように下ろされると、目の前には懐かしさすら感じる一軒の家があった。その玄関前で掃き掃除をしていた女中が、私と目が合った途端血相を変えて大声を上げながら家の中に消えていく。実家に帰って早々の騒がしさ。原因があるとするならばきっと全て私に有るのだろう。
「はぁ」
言葉を発するのも億劫で、私は溜息をひとつ吐くだけにした。
私の家はいたって普通の平屋建て。名家でもなければ、金持ちの豪族でもない。けれどけして貧しくはなく、今日もこうして女中を雇い、暇を出すことなく家に置いている。家主である父と、六つ離れた妹は私と同じ異師。母は華道の先生をしている。どこにでもある普通の家庭だ。
「ここか」
私の背後で地上に降り立つ彼女の様は優雅なものだった。私の様に振り落とされる様子もなく、妖からもたらされる区別という名の扱いの違いを身に染みて感じた。
「帰るときにまた呼ぶ」
彼女がそう言うと、いままで感じていた〝存在感〟がふっと消え去るのが分かった。見えない存在が確かに居るのだと、このときばかりはそう思わずにはいられない。いや、疑っているわけではない。けれど自ら見ることも触れることも叶わないのだから、多少なりとも疑いの目を向けてしまう。本当に居るのかと。妄言者たちの戯言ではないかと。この職に就いていても尚、無意識に頭の片隅で考えてしまっている。
「送っていただいてありがとうございます」
妖に言いそびれた礼を姫に伝えると、要らないと言わんばかりに片手を振った。
「私が乗るついでじゃ、ついで」
言いながら着物の袖を正す姿は、まさにどこぞの姫君のようだった。
「……あの———」
ついて出た言葉を掻き消したのは、大慌てで玄関へと戻って来た先程の女中だった。
『家の中で足音を立てながら歩くなどはしたない』
幼少の頃から言われ続けたお小言を、この場で口にするものは誰一人いない。そんなことに構っている場合ではないほど、皆脳内の整理が出来ていないようだった。
「お、おかえりなさいませ! 旦那様とお嬢様がお待ちです」
女中は玄関の引き戸を全開にし、私に帰宅を促す。この状況で実家に戻ることに抵抗はあったが、自宅に帰ったら帰ったで後が怖い。私は本日何度目かの溜息を吐き、静かに実家の敷居を跨いだ。
「ささ、貴女様もどうぞ中へ」
私が三和土で草履を脱ぐ直ぐ後ろで女中が彼女に声をかける。振り返れば、彼女は女中の言葉が聞こえていないのか、少し離れた場所で何かを見上げていた。また誰か居たのだろうか。好奇心と多少の憧憬をはらんだ眼で、私は彼女のことを見つめていた。
「なぁ」
溜息のように発せられたその言葉に、私は慌てて「どうしました?」と聞き返す。最早妻へ向ける感情を二の次に、知らない世界の伝達者を崇めるような、そんな心持ち。聞けばなんでも教えてくれる学問所の先生へ向ける、崇敬とも畏怖とも取れる複雑な感情。自分が彼女よりも劣っているのではないかと、毎分現実を突きつけられる思いだ。
「何てことないのじゃ。ただ、お前の家は普通なのじゃな、と」
「普通、とは……」
「豪商や貴族共の家を想像していたものでな。存外そこいらと変わらん」
彼女はそう口にしてから、何食わぬ顔で家の敷居を跨いだ。私も女中も、その姿を目で追うことしか出来ない。たった今百瀬家が貶されたのではないか。そう考えが至る頃には、彼女は私よりも先に上に上がっていた。どうやら長生きをすると恐いものが無くなるらしい。それが良いのか悪いのか、三十一年しか生きていない私には分からなかった。
「何をしている。早く私を紹介せぬか」
まるで自分の家かのように、彼女は私の先に立っている。どう紹介しようか考えていた私が馬鹿みたいだ。
「一人で行かないでください。迷いますよ」
「迷うほど広くないであろう」
ああ言えばこう言う。少しずつ憎らしくなってくる。
「確かに広くはないし名家でもないですけど、人の家なんですから多少は礼儀を思い出してください」
「……気に入らぬのなら殺せばいい。小脇に携えた銃で、私を永らえさせる妖を撃てばいい。さすればお前は晴れて自由の身じゃ」
私には、とうに彼女の考えていることなど理解出来なかった。家族に手を出すなと言ったかと思えば、今度は自分を殺せと言う。一体私にどうしてほしいのだ。生きたいのか死にたいのかさえ、私なぞには分からない。
「ここで貴女を殺して、私に何の得があるというのです」
「したくもない契りを交わさずに済む。それ以外に得も損もあるまい」
「……」
「いつもやっているではないか。従わぬ操師を無遠慮に、その手にかけているであろう」
私を見据える彼女の目は言い表せないほど冷たかった。冷ややかとしたその眼は私の奥深くへと分け入って、身体の内側から私を破壊していくようだ。
「心配はない。長生きしたこの身体は、他の者と同じく塵になって消える。処分の手間を取らせはしまい」
まるで全てを手放したかのように、姫は優しく微笑んだ。私たちと同じように、口角を上げて微笑んだ。私と彼女の違いは一体どこにまで及んでいるのだろう。今目の前にいる人物は紛れもなく人間だ。
「殺しませんよ。自分の妻を殺す夫はいません」
私は草履を脱いで上に上がり、彼女の横を通り過ぎる。たとえ理由があろうとも、男が女を守るように、異師が一般人を守護するように、私には姫を守る義務がある。たとえそれが不本意な形で結ばれようともだ。
「何を突っ立ってるんですか? 紹介出来ないじゃないですか」
振り返って見る彼女の表情は無だった。けれど視界の奥に、ほんの少しだけ色が見える。もう冷たくはない。
「なんじゃ、偉そうに」
「姫」
彼女の名前はまだ知らない。今の今まで聞きそびれてしまっている。姫と呼ばれることに嫌悪感はないだろうか。名前があるならば名前で呼んだ方がいいに違いない。けれど尋ねるには些か時が経ち過ぎていた。だから私は、名を尋ねる代わりにゆっくりと手を差し伸べた。一緒に行こうと、そう想いを乗せながら。すると彼女は目を暫く伏せた後、同じくゆっくりと私の手を取ってくれる。
「室内で手を繋ぐなど……」
照れているのか恥じているのか、はたまた困惑しているのか。繋いだ手をじっと見つめるその顔から読み取ることは難しい。それでも悪い感情ではないと分かる。今はただ、それだけで十分だった。